月代、波の綾は冴え冴え


 電車の中は静かなものだ。前回はずいぶんと騒がしかったが、それは自分が騒がしくしていたのではなく、他の誰かがはしゃいでいたせいだったから、当たり前なのだけれど。
 桜井綾代は一人である。地元から遠く離れた土地へ、一人で向かっている。
 本当ならあと何人か、そう、二人くらい道連れがいてほしかった。しかしそれぞれ何かしら都合が悪く、今回は残念ながら見送りとなってしまった。
 きっと来れなかった二人の方が、彼の地へ向かうのに相応しかっただろうに。世の中はなかなかうまく廻らない。
 ふあ、と綾代は小さなあくびをする。なにせ遠いのだ。今日はいつもより早く、日が昇る前に目覚めて出発した。そうしなければあちらへ到着する頃には日が落ちているのだ。これは仕方がない。
 はしたないな、と思いながら堪えきれずにもうひとつ。車両に人はまばら、目の届く位置には誰もいない。見られていないのだから気にすることはない、と思えないのが桜井綾代だった。
 少し眠ろうか。バッグを手元に引き寄せて窓枠へ頭を預ける。
 愛憐を尽くしていた彼女の夢を見るだろうか。
 
 
 
 時季を過ぎてしまったせいで、階段の周囲は以前より少し寂しげだった。
 彼女を想起させる白い花はない。階段には色を落とした葉が覆いかぶさっている。
 カサカサとそれを鳴らしながら綾代は足を進めていく。登りきったあたりに人影があった。見上げるほど大きいわりに威圧感のないその姿を見つけて、口元を微かにほころばせる。
「やあ副部長さん、お久しぶりですな。遠いところをよくいらっしゃった」
「お久しぶりです。今日はお世話になります」
 佑快はこちらこそというように頷いた。その手には昔ながらの竹箒が握られている。綾代を待つついでに掃除をしていたらしい。標準的なサイズのはずだが、彼が持っているとまるで子供用だ。
「副部長さんがいらっしゃる前に済んでいたらよかったんじゃが、なかなか二人では手が回りませんでな。なんともお恥ずかしい」
「いえ、お気になさらないでください。こちらも急に来てしまいましたから」
「そう言っていただけるとありがたい。ナミさんも喜んでおられましたからな。
おお、そうそう。ナミさんはあちらの庭を掃除してくれているので、呼んできましょう」
 箒を片手に持ち替えて佑快が「まずはこちらへどうぞ」と中へいざなってくれる。それに従い、綾代は懐かしい景色へ入り込んだ。
 
 通された部屋を、ずいぶん広く感じた。賑々しい十数人はおらず、当然、最も賑やかしい一人もここにはいない。綾代は静かに腰を落ち着けている。しばらく待っていると、可愛らしいが厳かささえ匂わせる声が聞こえて、茶盆を持ったナミが襖を開けた。
「ナミちゃん。お久しぶりです」
「はい、お久しぶりです、綾代さん。ようこそいらっしゃいました」
 静逸な笑みでナミは頷き、盆の茶を差し出してくる。彼女の髪と肌は相変わらずの白。
 良い色だ。少女そのものな色である。綾代はその白が好きだった。
「ナミちゃん、少し大きくなりましたか?」
「どうでしょう。自分ではよく判りません」
 まるで年に数度だけ顔を合わせる親戚の大人だ、と少しおかしくて、綾代は己に苦笑する。
 信じられないような話だが彼女は自分とほとんど変わらない年で、後輩の姉である。
 そしてきっと……もう一人の、大切な人だ。
 秋に入って再会したナミは、夏に出逢った彼女と違っていた。変えたのはあの人なのだろう。それは自分にとっても喜ばしいことだ。
 低い卓の向かい側に落ち着いたナミが両手で湯飲みを包み込む。その温度でなのか、指先がわずかに赤らんで幼くなった。可愛らしい、と綾代は思う。
 あの手を取る資格は己にないのだろう。そもそも、あの手は夏からずっと、一人の手を握り続けている。割り込むような無粋はしない。そんな気もない。
 あの小さく頼りない手を掴んで離さない、あの人はそれに相応しい。
「梢子さんと保美ちゃんも来れたらよかったのですけど。秋の大会が近いせいで、二人とも忙しくて」
「部長さんとマネージャーですから。二人とも、昨日電話をくれましたし」
「……寂しくは、ないですか?」
 訊いてから、微かに後悔した。
「いいえ。わたしはわたしの在るところに、梢子ちゃんたちは梢子ちゃんたちの在るべきところにいるだけですから」
「そう、ですね」
 彼女の言葉に嘘やごまかしはなく、綾代も勘ぐりはしない。
 真実なのだ。ナミは逢えなくて寂しいなど、そんなことは思っていない。
 知っていたのに。
 「よろしいですかな」佑快が襖の向こうで問い、ナミが答えてから入室してきた。その手には菓子盆。茶巾包みになった和紙がいくつか、それに乗せられていた。
「茶請けにどうぞ。何分こういったものは嗜まぬので、お口に合うか判りませぬが」
 般若湯好きの典型として、甘いものは好まないようだ。「ありがとうございます」ナミとそろって頭を下げる。こちらは少女の典型、甘味は普通に好物である。
 和紙の中身はわらび餅だった。黄な粉に覆われた柔らかい餅を口に運ぶと、ふあんと仄かな甘みが広がる。上品で良い味だ。二人とも挙措が楚々としているので似合う。佑快の選択はまったく正しかった。
 「おいしいです」ナミの口元が緩んでいる。彼女はこういった、ふわふわした柔らかい食感のものが好きなのかもしれない。
「ナミちゃん、こちらもどうですか?」
 自身の手元を示すと、ナミは一瞬きょとんとして、それから意図を察したのか微苦笑した。
「いえ、あの、充分です」
 ちょっと残念だった。
 たとえばクラスの子とか部活動の面々とか、そういった相手と他意なく食べさせてやったり食べさせてもらったりというのは、わりと当たり前にしているのだが、彼女はそういったことに不慣れである。
 少女たちのやり取りを眺めていた佑快は、穏やかな攻防を理解できなかったらしく、だまって茶を啜っていた。それを置いて、
「お嬢さん方、このような侘び寺にこもっていても仕方がない。出かけてこられてはどうですかな?」
「でも和尚さん、お掃除が途中です」
「なに、せっかく副部長さんが来てくださったのだから、そのようなこと気にせずとも良い。あとはわしが済ませておきますとも。
長旅でお疲れでしたら、無理にとは言わんが」
 後半は綾代に向けて。時間はかかったが、別に走ってきたわけでもないし、どころか、半分くらいは眠っていたので疲れという疲れはない。
 ナミが「どうしましょう?」という目で見てきたので、綾代は小さく頷いた。
「では、お散歩にでも行きましょうか。あまり遠くへ出かけると帰りが遅くなって
しまいますから」
 中間地点の提案だった。自分たちを気遣う佑快と、佑快を気遣うナミの、双方がなんとなく了解できる位置がこのへんだったのだ。
 本心を言えば買い物へでも出かけて、ナミに可愛らしい洋服を合わせてみたりできたらそれはそれは心の底から楽しめそうなのだが。
 ナミは少しだけ迷ったが、結局綾代の提案を受け入れた。
「じゃあ、少しだけ」
「うむ、行ってきなされ」
 鷹揚に頷いた佑快に見送られて部屋を辞する。
 秋の風は涼しく、ナミは白を基調とした和装の上に黄色い羽織を重ねて外に出た。
「残り菊ですね」
「少し早いかもしれませんが」
「よくお似合いですよ」
 晩秋を表す色の組み合わせは、今時期には少し寒々しい。それでも、彼女の白い髪がよく映えていた。
 どこへ行こうと決めもせず、二人は足の向くまま歩く。どちらかといえばナミの無意識が方向を決めていたかもしれない。綾代は気持ち彼女に付き従う形で歩いている。
 白妙の無意識は海へ向かっているようだった。
「それほど時間は経っていませんけど、やっぱり懐かしい感じがします」
「そうですね。梢子ちゃんたちがこちらにいたのは、ほんの数日なのに、とても長い間、
一緒にいたような気がします」
 横顔が大人びていて、綾代は漠然と哀愁を覚えた。
 海辺へ到着すると、遠くに島影が見えた。卯良島。隣にいる彼女が生まれ育ち、熟まれず育たなかった地だ。
「ナミちゃん……戻りたいのでは、ないですよね?」
 ナミの表情を郷愁かと思った綾代は、恐る恐る、わざわざ否定形で尋ねた。
 「戻りたいのですか?」と訊いてしまったら、もし彼女がそれを望んでいた場合、背中を押してしまうことになりはしないかと危惧したせいだ。
 しかしナミは、迷いのない目で首を縦に傾けた。
「ええ。あそこはもう、わたしのいるべき場所ではないから」
 思わず息をついた。話を聞いただけだったけれど、とてもではないがあの地へ彼女を戻したいとは思わない。自分がこれだけ嫌なのだ、あの人は絶対に許さないだろう。
 ナミは島影を目で捉えたまま、視線を別のどこかへ向けた。おそらくは過去に。
「けれど……。あそこにいたから、梢子ちゃんに逢えました」
「そうですね」
 運命の巡り合わせ、というやつだろうか。
 不思議なものだ。彼女たちを目の前にせず、ただ話だけを聞いていたら作り話だと思っていたかもしれない。
 二人の間にある絆。その想い。
 それを目の当たりにした綾代は、荒唐無稽に思える話を素直に信じた。
「梢子さんに会いたいですか?」
「……わかり……」
 ナミは言いさしたが、途中で止めた。
 長めに目を閉じて、ゆっくりと吐き出すように答える。
「いえ……、綾代さんに嘘をついてはいけませんね。梢子ちゃんに、会いたいです」
「どうして迷うんです?」
「多分、わたしは欲張りなんです。
会いたいと思ってしまえば、今度はそばにいたいと思ってしまうから。
そうですね、季節をひとつ越えたら、少しは落ち着いて梢子ちゃんに会いたいと思えるようになるのかもしれません」
 困り顔の微笑みは可憐で、綾代の心をざわつかせる。
 彼女の願いは叶わない。少なくとも、今は現実に出来ない。
 ナミが今ここにいる理由だし、梢子が今ここにいない理由だ。
 
 いつか、とは思っているのかもしれない。二人とも。
 いつか、時が来たら、いつまでも。
 そんなふうに想っているのではないだろうか。
 
「梢子さんが好きなんですね」
「……はい」
 それがどういった種類の愛情であるのかは知らない。
 けれど少なくとも、己が抱いていた愛情と同じではない。
 夏の数日。同じ時を過ごしていても、密度があまりにも違う。
 そして綾代が過ごさなかった夏の数日。
 そうだ。最初から、己の知らない最初から、彼女は。
 だから。
「だからきっと、わたしはナミちゃんに近づけたんです」
「え?」
 言葉の意味を測りかねたナミが眉を上げる。大きくて蒼い瞳が綾代を捉える。
 綾代は静謐に笑った。
「わたしはきっと、ナミちゃんの特別にならないから、安心してナミちゃんといられたんです」
「それは……どういうことですか?」
「ナミちゃんを可愛いと思っていたのも本当なのですけど」
 波風が一瞬だけ強まる。
 「誰かの特別になることが怖いのでしょうね。みんなと仲良くしたい、誰も傷つけたくない。そんなふうに生きてきてしまったので、自分を特別好きになってくれる人との距離がつかめないんです」
 剣道部へ入部してきた新入生の中には、綾代に憧れている子も何人かいた。そういった子にどう接して良いか判らなかった。
 面倒は見られるが、それ以上の付き合いを求められるとお手上げだった。
 桜井綾代は一人だった。
 一人だから、みんなといられた。
 
小さな女の子を可愛らしいと思う。
子どもで、しかも女の子であれば、まず確実に妙なことには……特別には、ならずに済んだ。
たとえ「大好き」と言われても、子どものたわ言と流すことができた。
 
出逢った時のナミは小さな、ほんとうの幼子だった。
幼い子どもは、小山内梢子を選んでいた。
 
「ごめんなさい、ナミちゃん。わたしはあなたに、とても失礼なことをしていました」
 それでも本当にあなたが好きでした。波風は綾代の声を消さない。
 それはとても不誠実な心根であったけれど、いとおしいと感じていたこと、慈しんでいたことは、事実だ。
 
 ナミは桜井綾代の手を取らない。
 桜井綾代もナミの手を取らない。
 
 見上げてくる瞳に哀憐はなく、それでも、少しだけ心憂いが見えた。
 好きにして良いのだよ、と与えた玩具を壊してしまって、泣きながら謝る子を見るような目だった。
「わたしは、同じ土地に留まって、同じ時に止められていました」
「はい」
「わたしは止まっていたけれど、みんなの世界は廻って、そうしてここに来てくれました」
 
 鈴木維巳が桜井綾代の手を取った。
 
「綾代さんはなにも出来なかったわたしに優しくしてくれて、手を差し伸べてくれて、わたしを慈しんでくれた」
 綾代の手に、力はこもらない。
「あなたに逢えて良かった。心からそう思います」
 ひそやかに笑んで、彼女は言った。
「ナミ、ちゃん……」
「わたしの特別は梢子ちゃんかもしれないけれど、それだけにしなくてはいけませんか?
綾代さんを、わたしの大切な友人だと、そう思ってはいけないのでしょうか」
 一句一句、言い聞かせるように拍を置いて届けられたその言葉を、綾代はかみ締める。
 彼女の手が、ずっと己の手をさすってくれている。
「いいえ……いいえ……! わたしも、ナミちゃんを」
 そこにはもう幼子はおらず、廻る世界に生きる少女が佇んでいた。
 常に下がっている眉がさらに下がって、綾代は涙を堪える。
 許された。それがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
 いつだって罰せられることはなく、そんな不手際をしたことがなく、だから許されるという経験も初めてだった。
 過ちは詫びることでほぐされて、ほぐれた糸は、これから形作る綾を待ちわびる。
 綾代は彼女の手を握り返した。
 満足そうに、彼女はそれを受け入れた。
「それに、今日も綾代さんが来てくれてよかったです」
「え?」
「その……」
 外見には似合わない、年齢には相応な照れ笑い。
 つまり乙女心の発露が綾代の目に映る。
「冬休みになったら、梢子ちゃんと会う約束をしているんです。
けれど、どんな服を着ていけば良いのか判らなくて」
 この辺りなら、寺の娘ということで和装もそれほど奇異には見られないが、さすがに向こうでこういった格好をするのはどうか、と悩んでいるらしい。よく似合っているものの、それとこれとは話が別だ。
 佑快は和装が専門だし、男やもめなので女の子の服装事情には詳しくない。
 まだまだ人付き合いも深くはなく、そもそも同じ年頃の少女が圧倒的に少ない土地であるので、どうしたものかと困っていたところに綾代から連絡を受けた。
 これはもう願ったり叶ったりである。梢子が来なかったのも幸運だった。
 なんとも……そう、幼さ故とは正反対な理由の可愛らしい悩みに、綾代の涙はあっさり引っ込んだ。
 くすくすと笑いが洩れて、目の前にいる少女は羞恥に顔を赤らめた。
「それでは、明日は一緒にお洋服を買いに行きましょう。
もう冬物も出ていますし、良いものが無ければ雑誌を買ってきて取り寄せてもいいですし」
「はい。よろしくお願いします」
 彼女にはどんなのが似合うだろう。彼女の白に映えるものが良い。
 身体が小さいから印象の強い色を使ってもきつくはならないだろう。赤などはどうか。
 白と赤ならば春の色だ。時季には合わないけれど、二人の今後を暗示するようで悪くはない。
 
 心が躍る。
 
 小さな子どもを着せ替え人形代わりにして遊びたい、というような感覚はなかった。
 この大切な友人の想いを、どうしたらあの人へ上手く伝えられるだろうかと、それだけの、幸せな思いやりだった。
「梢子さんは和服姿のナミちゃんしか見たことがありませんから、きっとビックリしますね。そのためにも、ナミちゃんに似合う可愛らしいものを選びましょう」
「ちょ、ちょっと恥ずかしい、です……」
「喜んでくれますよ、梢子さんなら」
 世界は日暮れも近いというのに、綾代の心は彼女の髪に似た青白。
 臆病者を呼び寄せていた誘宵は明けて、白々と空は青い。
 この人を、運命の巡り合わせで出逢えた優しい少女を大切にしたい。
 ただ蝶よ華よと見てくれだけを愛でるのではなく、対等の友人として。
 これからは、そうしていきたいと思った。
 
 誰かの特別にならない綾代は、また、誰かを特別にはしてこなかった。
 それなのに。
「どうしましょう。ナミちゃん、わたしはあなたを好きになったみたいです」
 ふふり。悪戯な笑声が綾代の耳を心地よく揺らす。
「わたしはずっと、綾代さんが好きですよ」
 低い陽に波が照らされて輝いている。
 反射した光が作り上げる綾は、廻る世界で美しくうねっていた。




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