月見想


 身体が自分の意思とは無関係に跳ねる。正しくはその衝撃で覚醒した。「かはっ」音ともつかない空気振動と一緒に塩辛い水を吐きだす。堪え切れなくて仰向けだった身体を反転させると、汀は何度も咳き込んだ。
「――――っ、はぁっ、はっ……」
 ただでさえ全身が鉛のように重いのに、さらに水を吸った装束が自由を奪う。顔を上げるのも億劫だった。
「勘弁してよ、ほんと……」
 水の際までしか行けないはずの己が、よりによって大海原に飲みこまれたのだ。それは愚痴の一つもこぼしたくなる。愚痴と一緒に口の中に残っていた水も吐き捨てて、一度ぎゅっと目をつぶってから地面を凝視する。事態が急変しすぎてて先ほどまでの記憶が少しあやふやになっていた。
 無意識に地面の草を握り込むように手を丸めた瞬間、鋭い痛みが走った。手のひらを見やると、ワイヤで切った指の傷がくっきり見える。眉をしかめる汀だったが、その痛みのおかげで思考がクリアになった。
「あぁ、そうだ……。オサ」
 じくじくと痛む傷を舐めながら周囲を見回す。一応、意識のあるうちはこちらを離すまいとしていたようだが、それが最期まで功を奏したかは怪しい。途中で離れ離れになって彼女だけいまだに海を漂流中ということも考えられる。
 汀の悲観的な予想は裏切られ、さほど遠くないところに梢子も流れついていた。ぐったりと倒れ込んだまま動かない。汀はやれやれというように嘆息してから膝を立てた。「どうせいるなら、もっと近くに来なさいって……」
 枷をはめられたかのように重い足を引きずりつつ彼女のそばへ近寄る。
 意識はないが生きていた。本人は運が悪いと言っていたけれど、荒い海流に飲まれて助かるなら充分だろう。運はなくても悪運には恵まれているようである。
 何ヶ所か梢子の身体を検めて、自発呼吸を確認し、危険はないと判断した汀、彼女の隣に腰を下ろして深々と息をつく。
「≪剣≫はどっか行ったし、剣鬼も片がついた。ま、下っ端の独断専行にしちゃ上出来でしょ」
 とはいえ、軽く見積もっても鬼切り役からの雷の一つや二つは覚悟しておかねばなるまい。それを考えると憂鬱だ。
 手指の傷が痛くて少し苛々した。案外深く切れているようで、しかも海水が沁みる。グローブを抜き取ると猫がするように傷を丹念に舐めた。
 そうしているうちに、盤座でこのようなことをされたと思い出す。
 馬鹿馬鹿しいことするなぁ、と、汀は思わず微苦笑した。
「ただの人間が血を飲んところでパワーアップなんかしないって」
 どうも彼女はロマンチストというか、その場の勢いで非現実的なことを本気にする。単純、あるいは物事に対して柔軟と考えても良いか。
 そうでなければ鬼だの儀式だのを本気にして、『こちら』へ首を突っ込んできたりなどしないだろう。魍魎に襲われた時も、まあ素人にしては肝の据わった対応だったと思う。常人なら無闇に騒ぎ立ててこっちの邪魔をしかねないのに、まさか一緒になって戦おうとするとは。
 挙句の果てにはこの状況だ。認めたくないが彼女は命の恩人と言える。汀一人が海に放り出されたらまず命はない。
「……ま、良くできました、かな」
 横目に梢子の顔を見ながらつぶやく。本人には絶対に言わないけれど。
 梢子が目覚めるまでまだ少しかかるだろう。汀はその場に寝転がるとそのまま天を見上げた。
 頭上には円形の月が夜空に穴をうがったかのように浮かんでいる。
 そんなわけはないのに月明かりがまぶしく感じられて、腕で目の上に庇を作った。
 妙な五日間だった。気ままな単独行動かと思いきや集団に巻き込まれて、赤の他人を巻き込んで、巻き込んだ相手に助けられて。
 そういえば、梢子はなぜ≪剣≫に囚われなかったのだろう。下っ端とはいえ鬼切り部という専門家のはしくれである自分が側に寄るのも難しかった神代の呪物を平気で振り回したうえ、≪門≫の封印までしてのけるなんて、ごく普通の人間に出来る所業ではない。
「実はやんごとなき血筋の傍流とかだったりして」
 ひとりごちた直後、自分で言ったのに噴き出した。「まさか。そりゃないわ」≪剣≫を扱える血筋といえば、この国の象徴たる高貴なる一系か、少々耐性は下がるが可能性として鬼切り頭の一族。いくらなんでも、たまたま部活の合宿に来ただけの高校生がそんな身分だなど出来すぎている。
「……そんなわけないでしょ」
 そうだ、彼女はただの一般家庭に生まれ育った高校生で、≪剣≫はロマンチストらしく意思の力でなんとかしたとか、そういうことなんだろう。
 汀はそう結論付ける。
 そうしなければ。
 梢子の力に疑いを持って、鬼切り部が調べるようなことになったら、それでもし、万が一、何かが明らかになったとしたら。
 ただの……まさしく『ただの鬼切り部の一員』でしかない自分は。
「――――よっと」
 軽く弾みをつけて起き上がる。
「やっぱり月は危ないな。引き寄せられる」
 反省反省、とつぶやいて、梢子の顔を覗き込んだ。
「おーいオサー。いい加減起きろー」
 彼女の顔のすぐ横に手を置いて、囁くように呼び掛ける。
 呼吸と気配で、彼女がもうすぐ目を覚ますことは判っている。
「起きないと、あんたに合わせた起こし方するわよ?」
 眠っている相手を起こす方法として、ロマンチストにはお約束だろう。本当のところ、呼吸はしているから必要ないけれど、どうせ本人には判るまい。
 ゆっくりと顔を近づける。
 『その時』までに目を覚ますか覚まさないか、微妙な速度で屈んでいく。
 汀はその時点で、己の行動が充分ロマンチックであることに気付いていない。
 距離が縮まるにつれて、己の表情が失われていっていることにも気付いていない。
「――――……」
 
 
 梢子の瞼が震えた。
 
 
 汀の瞳に月が浮き出た。 



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