いさましいちびのトリックスター


 先ほどから数分おきに悲鳴が上がっている。おかげで相沢保美は宿題が手につかない。
 さっぱり減らないシャーペンの芯をとうとう押し込んで、保美は悲鳴の主たる秋田百子へ気遣わしげな視線を向けた。
「ねえ百ちゃん、やっぱり手伝おうか?」
「お構いなく! 大丈夫、あたしやれば出来る子、I can……!」
 「のおおぉぉ!」言ったそばから呻き声を上げる百子。その指には縫い針がぶっすり刺さっていた。丸く血玉の浮かんだ指をくわえつつ、じっと痛みに耐える。
 百子が手にしているのは濃い黄色の布地だった。横長の円筒形で、縦に何本かラインが入っていて下には穴が空いている。それに黒い三日月とギザギザの布地をパッチワークしているのだが、作業を始めてから何度悲鳴を上げたか判らない。
「あ、ほらほら、なんとなく見えてきた」
 ようやく二つくっついた三日月と、手で持ったギザギザを添えて保美に見せる。黒い部分は両目と口を模したものだ。そうと言われれば、ジャック・オ・ランタンのかぶりものに見えなくもない。
 言われなければ判らないかもしれないけれど。
 口の部分も縫い付けて、百子がそれをすっぽりかぶる。いびつなうえに少し大きかったようで斜めに傾いでいる頭が非常に不気味だった。イベントの主旨としては間違っていないような。
 さらに演劇部から拝借してきたマントを見につけて大きく翻す。
「トリック・オア・トリート!」
「まだ早いよ……」
 保美が苦笑まじりに言った。本番は三日後である。
 たまたまハロウィンが休日と重なったということで、お祭り好きの百子が計画を立てたのが二週間前。あれよあれよという間に寮生たちを巻き込んで学院初のイベントをぶち上げてしまった。といっても、寮生がお化け役と人間役に分かれてお菓子の交換をするだけである。一部屋につき一人ずつ役を分担して、お化け役は自前で用意した衣装を用いて他の部屋を練り歩きお菓子をゲット、もう一人が他の部屋のお化けに菓子を渡すというルールになっている。
 気に入ったのかマントを何度もひらつかせながら、百子がジャックの頭から半分ほど顔を出してニヤリと笑った。
「ざわっちもそろそろ用意しとかないとヤバイよー? ざわっちの料理の腕は知れ渡ってるからね。きっとみんな、いの一番にここ来るから」
 足りないなんてことになったら暴動が起こると、百子は不穏な予言をした。「そんなことないと思うけど」わりに謙遜を見せて保美が応えた。
「あっ、ちゃんとあたしの分も残しといてね」
「大丈夫だよ。悪戯されたらたまらないし」
「おおっと、言うようになったねぇ、ざわっち」
 うんうんと大きく頷く。「たくましくなってくれて、お姉さんは嬉しい」「同い年だよ」速やかなツッコミだった。
 どういうわけか知らないが、夏の合宿を終えてから保美の体調は崩れることがなくなった。先日はとうとう剣道部のマネージャから正式部員にクラスチェンジして、百子と並んで竹刀を振るう日々だ。元々体力がなかっただけで運動神経に問題はないので、百子同様初心者ながら成長目覚しい。部長の梢子も冗談半分ながらエース候補がもう一人できたと笑っていたので、これはこちらの贔屓目や素人判断ではないだろう。
 体調が良くなって百子に迷惑をかけることも減ったせいか(百子自身は迷惑だなどと思ったことはないが)、薄紙一枚ほど存在していた遠慮や後ろめたさのようなものもなくなって、はっきりとものを言うようになってきた。これもまた良い傾向。
 いびつなジャックをかぶり直して、百子が両手を大きく広げた。
「あたしは直径二十センチのパンプキンパイを所望する!」
 当然のように三〜四人前を要求する百子だった。
「もー、判ったよ。次の日気持ち悪くなっても知らないからね?」
「ふっふっふ、この秋田百子、その程度でギブするほどやわな胃袋はしちゃいませんぜ」
「まあ、百ちゃんなら大丈夫だと思うけど……」
 ルームメイトの鉄の胃袋については熟知している保美だ。「ええと、何人分いるんだろ。大変だぁ〜……」呟くその表情は、台詞とは裏腹に楽しそうである。彼女もなんだかんだ言って百子の企画に浮かれているのだ。
 それは彼女だからこそ、かもしれない。
 こんなふうに大人数で騒ぐなんて経験はないだろうから。
「寮のみんなからお菓子もらって、さらにルームメイト特権でざわっちの手作りパイまで。我ながら良いアイデアを思いついたもんだよ」
 主たる目的は食べ物なのだ、というポーズで百子はしみじみと悦に入った。
 くっくっく、と笑う百子へ向けて、保美が慈母のごとき笑みを浮かべる。
「それはいいけど、百ちゃん」
「なにかな?」
「宿題もやろうね?」
 しまいこまれたままの勉強道具を指差して一言。
 本当に、はっきりものを言うようになった。
「はい……」
 百子はすごすごと妖精から人間に戻る。
 
 
 
 手書きの招待状を眼前に掲げながら、梢子は訝しげに眉をひそめた。
「ハロウィンパーティね。そんな行事があるなんて聞いたことがないけど」
「あたしが作りましたから」
「……やっぱり次期部長は百子で決まりかしら。明日菜先輩が寮生だったら、確実に同じことをしてただろうし」
「そんな褒めないでくださいよ」
 ふんぞり返る百子を前に、梢子は可哀想な子を見る目をする。百子は視線に気づいていたが華麗にスルーした。
 学年の差をものともせず梢子の教室に居座っている百子は、大恩ある部長の返事を今か今かと待っている。
 今度は招待状で自分を扇ぎ始めた梢子が、やや遠慮がちに口を開く。
「けど、いいの? 私は寮生じゃないし、特別料理が得意なわけでもないわよ」
「日ごろお世話になっているオサ先輩へのささやかな感謝の気持ちですんで。あ、オサ先輩はお化け役をお願いします」
 そういうキャラクターでもないんだけど、と渋る梢子へ百子が食い下がった。「お菓子食べ放題ですよ!? これ以上なにが必要だって言うんですか!」「あなたを基準にしないで」呆れがちに招待状で頭を叩かれた。
 ふう、と梢子が小さく息をつく。
「せっかく誘ってもらったことだしね。少しだけお邪魔させてもらうわ」
「ありがとうございますっ」
 尻尾を振りながら喜んだ後、それを収めて傍らの綾代に軽く頭を下げた。
「姫先輩にも出来れば来ていただきたかったんですが……」
「すみません、百子ちゃん。お休みの夜間に出かけるのはさすがに許してもらえませんから……」
 深夜に行うわけではないけれど、やはり帰りは遅い時間になってしまう。門限の厳しい綾代は親からの許可が下りずに不参加となってしまった。
 部長を誘うのなら当然副部長も、と考えていたが、少々見通しが甘かったようである。まさか女子高の寮へ遊びに行くことすら許さないとは思わなかった。田舎に引っ込むのが嫌だというただの我侭すら許された己とはずいぶん違う。
 しかしまあ、家に押しかけて無理やり連れ出すわけにもいかない。そこは大人しく引き下がるしかなかった。
「それじゃあ、今晩の集合場所と時間は招待状の通りです。寮長にはあたしから話を通しておきますから」
「判った。よろしくね」
 どこか苦笑気味だったけれど、梢子が穏やかに頷いた。
 無事に約束を取り付けた百子は意気揚々と自分のクラスに帰る。教室では保美が自分の席で何かメモを書き込んでいた。
「ざわっちー、何書いてんの?」
「ん?」
 百子の声に顔を上げた保美が、メモを滑らせてこちらに見せてくる。どうやら買い物メモであるようだ。書かれている内容から察するに今日のイベントに使うものだろう。
「帰りに買って行こうと思って。量も種類も多いから、書いておかないと忘れちゃう」
「ふーん。じゃあ、あたしも手伝うよ」
「うん。ありがとう」
 体力がついてきたといっても、さすがにこの量を一人で運ぶのは難しかろうと申し出ると、彼女もそう考えていたのか素直に受け入れてきた。実は百子の手を当て込んでいたのかもしれない。
 改めてメモ書きを順繰りに眺めた百子は、ある一点に目を止めた瞬間打ち震えた。「なんと……!」
 ぐっと拳を握り、それをゆっくりと机に押し付ける。ぶるぶる震える百子に保美がそこはかとなく心配そうな顔になった。下から百子の表情を窺い、親の仇でも見つけたようなそれを見つけて口元を引きつらせる。
「も、百ちゃん……? なにか嫌なものでもあった? 好き嫌い、ないよね……?」
「なんという……! ざわっち!」
「は、はい!?」
 ビシィッと一点を指して、
「かぼちゃがあるじゃあないですか!」
「そりゃ、百ちゃんがパンプキンパイって言うから」
「かぼちゃを丸ごと買うなら、子どもたちの憧れ『本物のかぼちゃでジャックランタン』が作れるじゃないですか!」
「生のかぼちゃって硬いし、実際にやったら大変だと思うよ……」
 そもそも寮内は火気厳禁なので、作ったとしても火を灯すことは出来ない。少し名残惜しかったが、仕方なく引き下がる。
 それから放課後を待ち、二人は意気揚々と買い物へ出かけた。部活動は休むと事前に連絡してあるので問題はない。部長は堅物だが何を差し置いてでも剣道に打ち込めと言うほど厳しい性格ではないし、今晩のイベントのことを知っているから許可を得るのは簡単なものだった。
 寮内はいつもより賑やかしかった。みんな平常を装いつつもどこか浮かれ調子である。小分けされたお菓子の入った袋を抱えた人とすれ違ったり(別に手作りでなくとも良い)、百子が首謀者だと知っている生徒からは含みのある視線を向けられたりもした。視線が語るのは概ね「良くやった」といったふうのものだったので、百子も笑顔を返す。
「さーて、細工は流々、仕上げをごろうじろ、と」
 仁王立ちし、テーブルに所狭しと並べられたお菓子を見下ろしながら百子は肩を揺らした。言うまでもないが彼女の眼下にあるものは彼女が作ったものではないし、手伝ってすらいない。
 夜も更けて、通いの料理人はとうに帰っている。そうなればここは生徒の天下だ。そろそろ消灯時間を迎えるので明かりは落とさなければならないが、全員ライトを携行しているため問題はない。明るい中でやるよりこの方が雰囲気が出て良いというものだ。
 いそいそと衣装を身につけて、百子はジャックを帽子のように頭へ乗せた。
「それじゃ、行ってくるねー」
「うん。行ってらっしゃい」
 留守番役の保美へサムズアップを送ると、彼女は小首を傾げて微笑んだ。
 それは何度も見たことのある表情で、百子はうんと頷きながら、微かに切なく笑った。すぐにジャックを押し下げて表情を隠す。
 集合場所にはすでにほとんどの生徒が集まっていた。その脇をすり抜けて、百子は寮の門扉へ向かう。その外側では寒そうに首をすくめた姿勢で梢子が待っていた。
「トリック・オア・トリック! ようこそいらっしゃいました」
「選択肢がないじゃない」
「というわけで、ジャック坊やは悪戯で鍵を開けちゃいますよ。ささ、こちらへどうぞ」
 門を開錠して梢子を招き入れると、彼女は物珍しそうに周囲をキョロキョロ見回しながら百子の後に続いて歩き出した。本当に、ジャックに道を迷わされたような風情だ。
「それにしても……うちって一応お嬢様学校だったと思うんだけど。よくみんな付き合ってくれたわね」
「まあ、多少はパスって人もいますから全員じゃありませんよ。そういう人のドアには張り紙してますから、間違って入っちゃ駄目ですよ」
「了解」
 「あ、そうだ」百子が小脇に抱えていた紙袋から中身を取り出して梢子へ差し出した。受け取ったそれを広げた梢子が眉を段違いにゆがめる。
「なにこれ?」
「マントとマスクです。喜んでください、あたしとお揃いです」
「喜べる要素が見つからないわ」
 どうして百子とのペアルックを嬉しがらねばならないのか、と彼女は半眼になった。「あ、でも部活中はいつもお揃いですしね」「そういう問題でもない」
「さすがにオサ先輩は部外者なんで、顔は隠しといた方がいいかと思いまして。身長はちょーっと違いますけど、暗闇なら多少は誤魔化せるでしょうし」
 十センチ以上が「ちょっと」の範疇なのかは疑問が残るところであるが、皆が皆仮装しているのならいちいち誰かなんて気にしないだろう。首謀者と同じ格好であれば、ちょっと屈んでいれば先入観で勘違いしてくれる可能性も高まる。
 特に自前の衣装を用意していたわけでもなかったので、梢子は素直にそれを身に纏った。
「へえ、けっこう見えるものなのね」
「目の部分はメッシュ加工を施してあります」
「妙なところで凝るんだから……」
「さ、それじゃあ、あたしは先に戻ってますんで、オサ先輩はみんながスタートしてから騒ぎに乗じて紛れてください」
 手書きの簡単な地図を渡す。「この星印は?」「あたしとざわっちの部屋です」
「ざわっちのお菓子は人気商品ですし、早めに行った方がいいかもしれませんよ。あとばれそうになった時の避難場所ということで」
「ふぅん。まあいいけど」
 寮生には梢子のクラスメイトや剣道部員もいるので、正体がばれるのはまずかろう。休み明けの学校で何を言われるか判ったものではない。
「それでは」
 百子が走り去り、暗闇に紛れて消える。マントのおかげで身体が見えず、黄色い頭だけが残って、なんだか本当の怪奇現象みたいだ。なるほど、人の目というのはあまりあてにならないな、と梢子は消えゆく姿を見送りながらぼんやり思った。
 しばらく待っていると、やがて視線の先がざわめき始めた。押し殺した高揚がこちらにまで伝わってくる。そこかしこでライトの光がウィル・オ・ウィスプのように揺らめいている。それに照らされてシーツのお化けとか耳と尻尾を生やした半人半猫とか、なぜかお岩さんがいたりした。みなさんお楽しみのようだ。
 梢子はそれに紛れて侵入に成功する。手元をライトで照らして地図を確認。百子のアドバイスに従って、保美が待つ部屋を目指した。
「あれっ、百子もう戻ってきたの? 忘れ物?」
 不意にすれ違ったティンカーベルから声をかけられた。梢子の心臓が一瞬ぎゅっと縮こまる。振り返って頷くと(ミス! 格好が同じでも声を出したら終わりではないか!)、「あ、お菓子入れる袋か」手ぶらの両手を見遣って勝手に納得してくれた。そのまま手近なドアを開けて「トリック・オア・トリート」とやり始める。
 ジャックの内側でほっと息をつき、梢子はさらに足を運んで目的地へとたどり着いた。
 部屋番号を確認してノック。必要なかったかもしれないけれど、礼儀は大事だ。
 ロウソク代わりの小型ライトを点けっぱなしにした室内で、保美はさんざん荒らされたテーブルを軽く片付けていた。お菓子はほとんど残っていない。百子が言っていたことはあながち大げさではなかったようだ。チーズケーキがひとかけ、切り分けるのに使った果物ナイフと寄り添っている。おいしそうだった。
 保美が顔を上げ、一瞬不思議そうな目をしてからほのかに笑った。
「百ちゃん? 早いよー。パイは終わってからって約束だったじゃない」
 おや?
 保美まで勘違いをしてくるとは思わず、梢子は瞬時、その場に立ち尽くした。
 囚人と看守の実験を知っているだろうか。
 集団を囚人役と看守役に分けて生活させたところ、わずか一週間ほどで囚人は弱々しく従順になり、看守は横暴な態度を取るようになったという。
 つまり人はたとえ仮初めであっても、立場や服装、状況に心理を左右されるということだ。
 ジャック・オ・ランタンは悪戯好きで、人を驚かせる。
「トリック・オア・トリート」
 笑声まじりの定型句に保美が固まった。
「え、あれ!? 梢子せんぱ」
「っと待った」
 手のひらを突き出し、大きな声を上げかけた保美の口を急いで塞ぐ。開けっ放しだったドアを閉めて、人の気配がないのを確認してから梢子はマスクを押し上げた。
 しぃ。人差し指を唇に当てて合図。保美は自身の口を両手で覆いながら何度も頷いた。
「……梢子先輩、どうして」
 押し殺した声での問いかけに、梢子はわずかに首を傾げた。
「百子から聞いていないの?」
「え……なにも……」
「そうだったんだ。保美には説明しているのかと思っていたから。驚かせちゃったわね」
「いえ、別に……」
 保美がなぜかそそくさ居住まいを正した。自分の部屋なのだし、そこまで畏まらなくても、と梢子は小さく苦笑する。
「これも百子の悪戯かしら」
 完全に脱いだジャックを傍らに置いて、「それで」と保美の顔を覗き込む。
「どっち?」
「え?」
「悪戯かお菓子か」
 百子にしてやられたのは癪だが、かえって興をそそられた。それならばこちらも最後まで付き合ってやろうと、梢子は保美を巻き込む。
 彼女はもじもじと視線を彷徨わせ(ジャックのせいで哀れにも迷子か)、ややあって上目遣いにこちらを見つめてきた。
「トリック……って言ったら、梢子先輩、困りますか……?」
「え?」
 思いがけない返答だった。そもそもイベントの主旨としては、実のところ「トリート・オア・トリート」ではないのか? テーブルには少量ながらもお菓子が残っているし、彼女の言葉は必要に迫られてのものではないだろう。
 いやしかし、そのケースは想定していなかった。第一、さっきはちょっとした悪戯心が沸いたけれど、元来他人に悪戯を仕掛けて喜ぶような性格ではない。悪戯って何をしたらいいんだろう?
 小さなライトだけが照らす部屋は、どこか幻想的で胸の内側をざわつかせる。
 そういえば彼女と二人きりになるのは久しぶりだ。部長とマネージャという立場だったころは何かと連絡をしたり指示を与えたりしていたから機会に恵まれていたが、今は他の部員たちと一緒に指導しているから、ゆっくり話すこともなかった。
 ああ、この視界。この光と闇の比率は、まるであの時のようで。
 梢子の手がライトにのびてスイッチを切る。「あ、梢子先輩……?」突然封じられた視界に保美が戸惑うが、「ちょっと待っててみて」自身も目を軽く閉じて告げる。
 しばらく待っていると目が暗順応して、真っ暗闇だった視界がわずかに輪郭を捉え始めた。月明かりがひそやかに照らしてくる。彼女の輪郭を浮かび上がらせる。
「卯良島に入った時に似ていない?」
「あ……言われてみれば」
 月明かりだけで、二人だけで。けれど咲き誇る椿はないし、彼女もまたあの頃とは違う。
 梢子はうっすらと浮かぶ彼女の輪郭を頼りにその手を取った。
 流れてきた雲がわずかの間、月を隠した。
 引き寄せて、その甲に唇でそっと触れる。
 ピクリ、保美の手が震えた。
 雲が晴れて、梢子の唇が離れて、何かの宿った声が放たれる。
「……っていうのじゃ、駄目?」
 騎士ならそれは忠誠の証だ。しかし今の梢子は騎士ではなく悪戯好きの妖精で、それはただただ、彼女を惑わせ、迷わせる。
「じゅ……充分、びっくりしました……」
「じゃあ成功かしらね」
 照れ隠しにおどけ口調で言うと、保美も困ったような照れ笑いになった。手の甲どころか唇にさえ触れたことがあるというのに、どういうわけか今の方が数段恥ずかしい。
「そういえば保美、もうあの体質は消えているの?」
「え? あ、シャーマン体質ですか?」
「ええ。卯良島を離れたから霊体が抜け出るなんてことはないでしょうけど、力自体ももうなくなったのかしら」
 椿の咲き誇る森、そこで見た透き通った彼女の姿を思い出す。抜けるような、どころか真実向こう側が見えるほど薄まった肌。手を延ばしてもすり抜けてしまう、幻影のような姿。
 本人は大変だっただろうけれど、あれはあれで綺麗だったなと解決した後だからこその気楽な感想を持つ。
「それが、力は残ってるみたいで……。あ、もちろん消耗したって倒れることはないですし、人を襲うようなこともありませんから」
「ここで襲ったりしたら大騒ぎだろうしね」
「はい」
 二人とも苦笑しながら頷き合う。
「そう考えると、梢子先輩よりわたしの方がお化けみたいなものかもしれません」
「なにを言っているの。力があったって使わなければないのと一緒じゃない。それに私、お菓子持ってないから迫られたって何もあげられないわよ」
 頬杖をついてテーブルからクッキーを一枚失敬すると、保美の口へ差し入れた。彼女はそれを咀嚼しながら俯く。「甘い、です」小さく小さく、呟いた。
 ドアの向こうはすっかり静かだ。この辺りの部屋はすべて訪問が終わったのだろう。別の階に集まっているのか、人の声は聞こえない。
 薄墨をまとった闇の中、彼女の姿はぼんやりと淡い。
 思わずその頬に手を延ばした。「っ、梢子先輩……?」不意に触れられて保美の声が上ずった。
「ちゃんとさわれるわね」
「それは、そうですよ……」
 触れた頬はいやに熱かった。梢子はその肌を、まるで熱で脆くなっているとでも思っているかのように懇々と扱った。
 別に、彼女が消えてなくなってしまうのではと不安になったわけではない。
 今そこに確かにいると確信していてなお、触れてみたくなった。長時間竹刀を振るっても音を上げなくなったが、その身はいまだ力強さとは無縁、たおやかな姿は梢子の内側でなにかを昇らせる。『それ』は、喉もとの辺りで引っかかって進行を止め、少しの間だけ留まっていた。そのうち、融けて見えなくなる。
「力が残ってるってことは、やっぱり血が欲しくなったりするの?」
「いえ、あの、別に……」
 否定しかけた保美だったが、目を覗き込んだらそらした。頬を覆った指でトントン叩き、こっちを見なさいと強制する。
 それでも視線を泳がせたまま、保美は諦めたように小さく首肯した。
「と、時々……。でもそんなに強い欲求じゃないですし、我慢できますから」
「ふぅん。今は?」
「え……」
 保美の喉が引きつる。言葉による返答はなかったが、沈黙が肯定を表していた。
 するり、彼女の頬から手を離し、転がっていた果物ナイフを手に取る。
 さしたる躊躇もなく手のひらにそれを押し当てて、勢い良く引いた。
「しょ、梢子先輩!?」
「つ……」
 鋭利な刃物ではないから随分と力がいり、予想より深く傷ついた。しかも傷口が鈍いおかげで脈打つように痛みが襲ってくる。それでも梢子はやせ我慢をして平気な顔を装うと、手を保美へと差し出した。
「はい」
「……はいって……、危ないですよ、梢子先輩……。手のひらって神経がたくさん通ってて、悪ければ後遺症が残ったりするんですよ?」
「もうしてしまったんだからしょうがないじゃない?」
 痛みに耐えつつ待っていたが、保美はどうしたらいいのかともじもじするばかりで動こうとしない。
 その間にも血は流れ続けて梢子の手のひらを汚していく。ふむ、と口をへの字にしながら考え、梢子はつと差し出していた腕を立てた。手のひらから手首へ向けて、ゆっくりと血が垂れ落ちていく。
「このままだと服が汚れちゃうんだけど」
「………………」
 上目遣いに、どこか恨めしそうな眼差しで見遣ってくる彼女へ、梢子はそこはかとなく居丈高に笑いかけた。
 保美が小さく小さく溜め息をつく。
 両手が梢子の腕を包み込んで固定してくる。掲げられた左手、そこから流れる一筋へ、恐る恐る唇を触れた。少しずつ紅を拭われる感触。熱くてぬめった舌に這い回られて、腰の辺りがくすぐったくなった。
 月の冷たい光に相反して、保美の頬は上気している。
「血が欲しくなったら私に言いなさい。我慢していたら、また体調を崩すようになっちゃうかもしれないんだし、もう少し甘えていいわよ?」
 つと保美が唇を離し、拗ねているというか、呆れているというか、とにかくそんなような目をした。
「今でも充分甘えてますよ。梢子先輩はちょっと甘すぎです」
「え、そう……?」
「はい。優しいだけじゃなくて……」
 言いさした保美はハッとしたように途中で口をつぐむと、誤魔化すように再度手のひらへ舌を当てた。
 その表情は、甘露を味わうかのようで。
 どこか艶かしさすら漂う仕草に、梢子は喉もとで消えたはずの何かが内側でウロウロし始めるのを感じていた。
 甘さによって、何かが、迷わされた。
 さてこれは、トリック・オア・トリート?
 
 
 
「今ごろ何してんのかなー」
 自室の窓が見える敷地内で、戦利品を広げて堪能しながら、百子は一人、ぽそりと呟いた。
 寮内を巻き込んだ、たった一人に対する悪戯は成功しただろうか。
 成功でも失敗でも心から喜ぶことは出来ないし、心から落胆することも、できないけれど。
「最近、オサ先輩とゆっくり話せなくてちょっと沈んでたし」
 自分に言い聞かせるように独り言。大口を開けてブッセにかぶりつく。
 これでいい。彼女が喜んでくれるなら、それでいい。どうなるのが良いのかは判らなくても、どうなったら良くないのかは判っている。だから百子はそれを阻止するのだ。たとえそれが他者の目には風車へ突撃する間抜けな騎士に見えようとも、百子は己の信念をもって勇猛果敢に突き進む。
「なんだかんだ言って、やっぱりざわっちが一番だし」
 情けなく笑って栗饅頭を頬張ると、空へ向けてふぅと息を吐いた。
 己の恋心と、彼女の恋心。二つを天秤にかけてもフラフラ揺れるばかりで比重が測れない。純粋な思いやりと浅ましい嫉妬心が共存していて、百子はいつまでも揺れている。
 悪戯で人を迷わすジャック・オ・ランタンは、その実、自分自身が迷っていてどこにもたどり着けないのだ。
 天国にも地獄にも行けない寂しい精霊は、一人暗がりで菓子を齧る。
 と、何かが視界を横切った。目を細めながらそれを追うと、光が何度か地面を往復した。顔を上げて光源を探す。
「百ちゃーん。そんなところにいたら寒いでしょ? もう帰ってきなよ」
 窓から顔を出したライト片手の保美が笑いかけてきていた。隣では梢子が来い来いと手招きをしている。
 ああ、この光は、ウィル・オ・ウィスプだ。
 彷徨わせて、底なし沼へ引きずり込む鬼火が百子を誘っている。
 百子はニカリと笑った。「今行くー!」
 迷走、上等ではないか。迷って迷って迷って、いつまでも迷い続けてどこにも行けなくたって、『帰る場所』なら、ちゃんとある。
「パイの準備しといてねー!」
「判ってるよー。三人で食べよ」
「じゃ、割合は2:1:1ということで」
 両手一杯にお菓子を抱えた百子が言うと、保美と梢子は揃って呆れた吐息をついた。
 被り物とマントを脱いで一緒くたにたたむ。
 何者でもないジャックは魔法が解けて秋田百子に戻る。
 人としてなお迷い続ける百子は、それでも食ってやるぞと勇ましく、大好きな親友と尊敬する先輩の待つ、HOMEへと駆け出した。 



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