soundless sound


    [sound]
     (1)音。ざわめき。
     (2)健常な。完全な。
 
 
 
 海にいた。
 目は開いているのかいないのか、わずかに何かが流れている様子を映しているけれど、それは思考イメージの映像化にも思われた。
 海流の音がうるさかった。他には何も聞こえないので、無音と限りなく近い。単調なリズム。恐くも嫌でもないが、全身にまとわりついてくる無意味な音は少々不安だ。
 手を伸ばしてみると潮に弾かれて、何にも触れはしなかった。
 どこに行くのだろう。
 この海には、他に誰かいるのだろうか。
 いてほしくない。
 こんな、無意味な音に支配された、誰にも触れない寂しい場所には、他に誰もいなければ良い。
 小さな小さな手が、力なく漂う。
 少しだけ懐かしい孤独感だった。
 漂う意識はその後、何に触れるでもなく、何を聞き止めるでもなく、何を見出すでもなく。
 ただ自然に覚醒した。
 
 目を開けても真っ暗だった。維巳は一瞬、まだ夢の続きなのかと勘違いしたが、すぐに夜が明けていないのだと気づく。時間を確認すれば草木も眠る午前二時。眠りが浅かったのだろうか。
 奇妙に頭が冴えていた。しかし気分はそれほど良くない。やはり夜に覚醒しているのは健康的ではないということか。
 清々しさの欠片もない気分を持て余した維巳は、しばらく布団にもぐりこんで無理やり眠ろうと頑張ってみた。けれど、眠ろう眠ろうと思うほど意識ははっきりしてしまって、小さな家鳴りや外で空き缶が転がる音や風が木の葉を揺らす音、そんなノイズがやけに耳についてますます眠れない。
 諦めて、のそのそと起き出す。朝つらくなるかもしれない。学校に通っているわけでも、社会的になんらかの責務を負っているわけでもないので、日がな一日寝ていようが構わないのだけれど、根が几帳面なので維巳はいつもみんなと同じ時間に起きている。それを覆すつもりはなかった。
 そうじゃないかな。部屋を出て、水を飲むためにキッチンへ向かいながら一人沈思した。
 ただ単に、無意味な眠りを嫌がっているだけなのかもしれない。
 眠りは圧倒的に一人だから。
 それを、寂しいと思わない自分がいるから。
 眠り続けることが当たり前すぎて、未だにそれを奇異だと思えない。
 だからこんなにも頑なに、人としての生活を欲しているのかもしれない。
 
 冷蔵庫に入っていた、よく冷えたミネラルウォータを飲んでしまったのは失敗だったような気がする。キンと澄むそれは更なる覚醒を促した。すっきりしたけれどあまりありがたくない。
 仕方がない。部屋で勉強でもしていようか。高校入学のための学習はそれほど苦にはならない。来年入学できれば、大切な人たちともっと一緒にいられる。
「……すみちゃんが先輩になっちゃうのは、ちょっと複雑かも」
 苦笑いでひとりごちる。身体が弱いともっぱらの評判だった双子の妹は、最近では体力がついてきたらしい。彼女の親友が嬉しそうに報告してくれた。確かに、会った時はいつでも元気だ。
 人の身に戻れたのだろうか。維巳は己の手のひらをじっと見つめる。色々と調べられたが、確証は得られていない。
 つながっていた、そのせいで衰弱を呼んでいた彼女の復調は、自身が人となった証になるのだろうか。
 そうだとしたら喜ぶべきことなのだろうけど、正直なところ、維巳は少しだけ、本当に少しだけ、それが切なかった。
 ひとつだった彼女と分かたれてしまったという事実が、空洞となって維巳に穴を開ける。
 誰にも言えないし、本当は考えてもいけないこと、だけれど。
 誰にも言えない切なさは、細く吐いた息と一緒に大気へ流した。いずれ拡散されて消えるだろう。
 ピタリと足を止める。「…………」言葉を忘れたみたいに維巳は沈黙する。目の前にあるドアは自室のものではない。
「寝てる、だろうし」
 自分へ言い聞かせるように独白するが、重石でもくくりつけられたように両足はそこを動かず、手のひらは冷たい合板へ吸い寄せられた。
 ドアへ耳を押し付けてみた。防音素材などではないが、呼吸や身じろぎの音を伝えるほど薄くはない。ドアはただ冷たいばかりの無音だった。
――――梢子ちゃん。
 心の中で、名を呼ぶ。
 どうしてだろう。そのたびに寂しい。
 彼女の存在を想うたびに寂しくなって、それは空洞に覚える切なさとは別の意味合いだった。
 切なさはいずれ癒える。分かたれても彼女は自分で自分は彼女だ。同じ根源を持つ、絶対的なもう一人だから、いつかは慣れる。
 けれど彼女は。ドアの向こうにいる彼女は、絶対的に自分ではない。
 圧倒的な他者としての彼女。それは同じ根源の彼女以外、すべての人がそうであるはずなのに、こんな寂しさは外にない。
 己と彼女に宿る半分ずつのせいかと思っていた時期もあった。
 いつか、いつしか、そうではないと気づいてしまった。
 無音のはびこる廊下で、維巳は唇を噛んだ。
 と、唐突にノブの回る音が響いて、ドアが内側に開いた。「ひゃっ」もたれかかったままだった維巳がバランスを崩してたたらを踏む。
「えっ、ナミ?」
「あ……」
 維巳に気づいた梢子が咄嗟にドアを開く手を止めたので、すんでのところで維巳は転げずに済んだ。
 維巳が体勢を立て直したのを確認してから、梢子が再度ドアを大きく開ける。
「なにをしてるの?」
「あ、あの、ちょっと眠れなくて……」
 眠れないことと梢子の部屋の前で突っ立っていたことの間に、整然とした理論はないが、梢子は「ふぅん」と小さく相槌を打っただけで深くは訊いてこなかった。
「梢子ちゃん、眠っていたんじゃないんですか?」
「寝てたんだけど、誰かに呼ばれたような気がして」
 その言葉に維巳は内心ドキリとした。声は出ていなかったと思う。いや、無意識に声を出していたのかもしれない。ちょっと自信がない。
 なんだか急に気恥ずかしくなってしまって、維巳はそそくさと一歩下がると彼女から目を逸らした。
 ふぁ、と梢子が小さく欠伸をした。寝起きの良い彼女だが、さすがにこんな中途半端な時間では覚醒も遠いらしい。
「ナミの気配でも感じたのかしらね。
まあ、この時間なら二度寝しても起きられるだろうから構わないけれど」
「はい。それじゃあ梢子ちゃん、おやすみなさい」
「あ、ちょっとナミ」
「なんですか?」
 部屋から出てきた梢子に引き寄せられる。ぽふんと腕の中に捕まえられて、維巳は意味が判らず問いかけるような視線を彼女へ向けた。
「眠れないって言っていたけど、大丈夫?」
「その……眠くなるまで勉強でもしていようかと」
 眠気で開ききっていない彼女の両目が、さらに細められた。
「駄目よ、ちゃんと寝ないと。健康にも良くないし」
 柔らかく頬を撫でられる。あやすような手つきは維巳をざわめかせた。
 「一緒に寝ましょうか」不意の提案にざわめきが大きくなった。頬に触れている手が気になる。いつかの記憶がよみがえる。けれどあの時はまだひとつで。
 だから眠ることも当たり前のままで。
「体温に触れていると、安心してよく眠れるっていうじゃない」
 梢子はただ、維巳を慮っているだけなのだろうけれど。
 なんというか……彼女は、罪深い。
 
 結局、維巳は固辞もできずに梢子と同じベッドへ入っていた。仄かに鼻腔をくすぐる彼女の香り。家鳴りと風が耳につく。
 ノイズばかりが耳へ届く。
 寂しくて仕方がない。
 彼女の体温が、うっすら開いた両目の視線が、優しく髪を撫でる手が寂しい。
 涙こそ流していないけれど、維巳は形の良い鼻梁にしわを寄せて寂しさに耐えた。
「……ナミ?」
 寝惚け半分でも様子がおかしいことに気づいたか、梢子がわずかに擦り寄って顔を覗き込んできた。心配そうな眼差しを維巳は避ける。訝しげな呼吸音が聞こえた。
「やっぱり、嫌?」
「いいえ、そうじゃないんです。ただ……音が」
「音? ああ、今日は風が強いから」
 顔を上げ、木の葉ずれの音に眉を上げた梢子は、維巳が風の音がうるさくて眠れないのだと判断する。
 毛布を引き上げて、維巳の頭をすっぽり覆う。ノイズが少しだけ遮断された。「これでどう?」彼女の声がよく聞こえるようになって、それは寂しさを増長させた。
 満たされない。何をどうしても満たされなかった。空虚はないのに。空虚がないから。圧倒的に彼女は他人だったから、自分自身に埋めるべき箇所はない。
 音から連想して木の葉が落ちる映像をイメージする。その光景を寂しいと言う人もいる。維巳も寂しいと思う。全から個へ。完全から弧へ。それはどれだけ寂しいだろう。生まれ出でる赤子が感じる寂しさだ。人は生まれる瞬間の記憶を持たない。きっと寂しすぎるから覚えていたくないのだ。
 維巳は数ヶ月前に生まれた。二度目の生を得た。完全なる混沌から、他者を意識することで自己を形成し得た。
 であれば、彼女を母の代替としているのか? 否、否。人は誰しも二度生まれる。強制による生と共鳴による生だ。絶対的で圧倒的な他人。
 維巳は梢子に触れた。むき出しの首筋。彼女がかすかに震えた。指先が冷たかったのかもしれない。
「――――梢子ちゃん」
「なに?」
 彼女は完全なほど個であり、漫然とした模糊である己とはずいぶん違った。
 だから、この寂しさはきっと――――。
「離れては、嫌です」
「え……?」
「わたしと一緒にいてくれなくては、嫌です」
 慣れ親しみすぎた無音と闇はいつでも維巳のそばにある。
 それは予測か、推測か、それとも邪推なのか……。
 圧倒的な、誰も代わりを出来ない彼女がいつかいなくなってしまうという可能性を、維巳は振り切れない。
 この想いを恋と呼べたら簡単だっただろうか。
 二つの音であり、一つの言葉であるそれに集約できたら、もしかしたらこんな寂しさを感じずに済んだかもしれない。
 けれど、絶望的にそうではない。
 二人の間にあるものは共鳴でしかない。同じ波長を持つ二つが鳴り合うだけの、けして混じることのない独立だ。
 梢子の手が、首筋に触れている維巳の手に重なった。
「ナミはいつか私から離れるの?」
「え……そんなことは、」
 一度声が詰まった。ないと言い切るほど自信はなく、あると言うほど悲観はしたくなかったからである。
「……わかりませんけど」
「私も判らないわ」
 笑声交じりの声は小さくて優しい。子守唄のようだ。
 梢子は、どうして維巳がそんな我侭を言い出したのか判っていなかったけれど、ただ不安を取り除きたくて言葉を重ねた。
「でも、今の私はあなたがそばにいないところを想像できない」
 彼女の言葉には決意も覚悟もなかった。約束ですらなかった。ずっとそばにいると言うでもなく、ずっとそばにいて欲しいと願うでもなく、ただただ、そんな未来が想像できないと、事実だけを告げた。
 あまりにも曖昧で、だからこそ確かだった。
 ああ、あの何にも触れない混沌の海から、己は抜け出せたのだっけ。
 今更のように、そう思った。
 個は個で良くて、弧であり拠であり呼なのだ。
 一人だから他者に触れられて、一人だから存在できて、一人だから求められる。
 寂しいのは当然だった。
 個は、己だ。
 だからこそ誰かといたい。彼女と共に在りたい。自身の持つ波長を受け入れて欲しいし彼女の波長を受け入れたい。
「梢子ちゃんは、それでいいんですか?」
「少なくとも、それじゃ駄目な理由はないわね」
 ナミとはずっと一緒にいる気がする。ささやかに、寝言みたいに彼女は言った。
 重なっていた手が離れて、浮き上がった彼女の手はそのまま、維巳の髪へもぐりこんだ。
 寝かしつけるように撫でてくる。もう話は終わり、という合図なのだろう。
 髪を撫でる動きが次第に緩慢になっていく。いつしかまぶたはすっかり落ちていた。「梢子ちゃん?」小声で呼びかけてみるが応答はない。やがて、手のひらがナミの耳をふさぐ位置で止まった。
 海流のような音が聞こえる。留まることも渦巻くことも止むこともない、流れ続ける音だった。彼女の音だ。他の音はすべてかき消える。
 ナミの中で梢子の音がめまぐるしく巡る。目を閉じた。寂しさは消えない。
 けれど……。
 無音と同義の彼女の音は、寂しさと同時に安寧を維巳に与える。
 寂しさを受け入れた根方維巳に齟齬はない。
 
 けして溶け合うことのない手のひらに触れて、内側を流れながら同化することのない音を受け止めて、絶対の一人たる彼女との明確な境界線を認識した維巳は、ごく自然に眠りへ落ちた。
 
 明日の朝、彼女におはようと言えたら良い。
 
 その夜、維巳は夢を見なかった。



HOME