これを呪いと言って良いものだろうか。
 あるいは誰かの呪縛などではなく、自分自身が引き起こした因果、であるのかもしれない。
 バチが当たったのだ、きっと。
 『誰か』のふりをして、嘘をついたから、その罰として『誰にも』なれなくなったのだ。
 うん、と口の中だけで呟いて、根方維巳は何度繰り返したか判らない思索を打ち切る。何度繰り返せば諦めるのか判らない模索を、今日も中断する。
 軽めのノックがされたので顔を上げながら応じた。今の時間、小山内の人たちはみんな出払っている。とすれば、訪れたのが誰であるかは自ずと導き出されてくる。
「ナミちゃん、少しいいかしら」
 穏やかな中にも少しだけ浮き立つ気配を滲ませて、この家で維巳を除けばただ一人、小山内の姓を持たない彼女、鳴海夏夜がそう伺いを立ててくる。維巳は彼女の用事心当たりがなかったのでわずかに首を傾げた。それでも特に断る理由もなかったので「ええ」と答えた。
 夏夜がドアを通り抜けて、そこでようやく維巳は彼女が手に何かを携えているのに気づいた。紙製の平たい箱である。わりに大きいが、片手で捧げ持っているところを見ると大した重量ではなさそうだ。
「それは……?」
「あなたに届いたものよ。ほら、この前注文した」
 維巳が、ああ、と小さく呟いた。それから照れ笑い。
 箱を受け取って、蓋を取り上げる。瞬間、真新しいにおいが鼻先をくすぐって、視覚よりも早く維巳にその存在を告げた。
 きっちりと、文字通り折り目正しく箱に収まったそれは、青城女学院の制服だった。新品である。しわどころかよれの一つもなく、拝命の儀式に臨む騎士を思わせる典雅な佇まいを見せていた。
「お披露目は梢ちゃんが帰ってからとしても、少しだけ合わせてみましょうか」
 いたずらな語り口で夏夜が提案してくるのに、維巳は照れ笑いを治めきれないまま頷いた。
 青城の合格通知を受け取った時、それはそれは家族(そう称することに、維巳はまだ抵抗を覚えるけれど)勢ぞろいで喜んでくれて、さあ入学準備だ手続きだと、当人の維巳が置いてきぼりをくらう勢いで話が進み、サイズがないから特注になってしまう、ならば急いだ方が良かろうともっともらしい言い訳のもとにオーダメイドされたのが、今手元にある制服だ。
 維巳自身としては気が早すぎると思ったのだけれど、生活のほとんどすべてを頼っている現状、強く言えるわけもなく、そのまま寸法を測られてさっさと注文されてしまった。
 何より……。
 彼女が、楽しみだと言ったから。
 維巳の制服姿を見たいと、言ってくれたから。
 ぼんやり追想していたら両腕に乗せていたブレザーをそっと奪われた。我に返って顔を上げ、ほほえんでいる夏夜と目が合う。
 彼女は維巳の背後へ回ると、手にしたそれを紳士的な仕草で維巳へあてがった。
 姿見の向こうで制服と己が重なっている。
「ああ、よく似合うわね」
 なんのけれんみもなく言われて、維巳は小さくはにかむ。
「ありがとう、ございます」
 なんとなく腰のあたりがくすぐったい。彼女と、彼女たちと同じデザインの制服は、傍で見ることに慣れすぎて、自分自身が身にまとう姿は少し滑稽に思えた。
 手首に手を添えられて、操り人形みたいにポーズを取らされた。ちょっとだけかしこまったご挨拶の格好。初めまして、と維巳は鏡の向こうへ会釈をする。
 白髪と蒼眸の少女は、人見知りの笑顔で会釈を返した。
 
 
 
 夏夜が先に伝えてしまったのか、梢子は帰ってくるなり浮き足だった口調で「制服、届いたんですって?」と問いかけてきた。問いというより確認であるその言葉はいつもより密度が薄い。『声を構成する分子』の隙間が普段の二倍になったくらいだろうか。それだけ質量は軽くなり、維巳を撫でるような淡さで届く。
「はい。まだ袖を通してはいませんけれど」
「着てみてくれる?」
「……はい」
 無邪気な要求に無垢たる頷き。自室で箱に収められたままの制服を取り出すと、梢子がくすりと小さく笑った。
「梢子ちゃん、どうしました?」
「いえ、自分も着ているものだけれど、ずいぶん可愛いなと思ったのよ」
「……? 小さいからでしょうか?」
 サイズのせいで人形遊びの洋服みたいに見えたのだろうか、とそう問う。
 「いいえ」梢子は笑みの形を崩さない目元をさらになごませて、ブレザーの生地を指先でなぞった。
「ナミがこれを着ているところを想像しただけ」
「……う……」
 どう答えていいか判じかねたナミが声を詰まらせる。褒められているのだろうが、夏夜に言われた時のように礼を言えない。
 彼女が想像した姿が、どういうものであるか。
 それは今の己を基準にしたものだろう。
 白皙白髪蒼眸の、幼子じみた己のものだろう。
 それを、悲しいとは言わない。当たり前なのだ。目の前にいるのだから、それをベースとして考えることになんの問題もない。
 ただちょっとだけ、維巳は勝手に期待していただけなのだ。
 『こう』じゃない根方維巳の姿を、思い描いてはくれないかと。
 それは『彼女』と同じ姿という意味だ。
「……梢子ちゃん、わたしが子どもみたいだからって馬鹿にしないでください。ちゃんと高校生の年齢なんですから」
 わざとらしく頬を膨らませて見せてやると、彼女は瞬時きょとんとして、それから緩やかに破顔した。「そうね」「そうです」腕で抱え込むように、手のひらを後頭部へまわしてくる。手遊びのように白糸を手繰る指先が、いとしげにうなじを撫でた。
 目を閉じる。うなじにまわされた彼女の指を、目を閉じ見る。二人の姿が少しめおとじみる。恋のない、長年連れ添ったいとしさだけがある触れ方と瞑目だった。
 「着てみましょうか」ささやくように梢子が言う。頷くと、彼女の手が首の丸みをたどって、維巳の羽織っていたカーディガンを引き落とした。別にいつも着替えさせてもらっているわけではないけれど、この時はそうするのが正しいような気がしていた。二人とも。それが妥当であるかどうかも考えないまま。
 下着一枚になった上半身へ、真新しい布の肌触りが伝わる。
「ああ、ぴったりね。やっぱりちゃんと測っておいて正解だったわ」梢子が嬉しげにつぶやいた。
 ブラウスのボタンを留めてもらう。顎を上げて、キスをねだるような仕草をする。彼女はうん?というふうに目を合わせてきて、それから笑った。一番上のボタンを留める。
 すっかり着替え終わると、維巳は軽く両手を広げて「どうでしょうか?」と梢子に問い尋ねた。
「いいんじゃないかしら。可愛いわよ」
「……ふふ」
 こもった、喉で転がした残りが洩れ出てしまったとでもいう風情の笑い声が維巳の唇からこぼれた。
「これで、四月からはすみちゃんと同じですね」
「今まではなかなか会えなかったものね。学校でなら登下校とかお昼休みとか、一緒にいられる機会も多いんじゃないかしら」
 なんだったら剣道部に入ってみる? 冗談混じりの提案には曖昧に首を傾げて、ブレザーに縫いつけられたワッペンを無意味につまんだ。
 携帯電話のカメラ機能で梢子に制服姿を撮影してもらい、保美と百子に送信した。ほどなくして返信が届き、今度遊びに行くから実際に見せてほしいと頼まれた。梢子が頷いたのでそう返信する。
 メールを送り終わった維巳が梢子の腰へ両腕を絡めた。彼女は今度も、うん?という顔をして、身長の割に長い腕で維巳の背中をくるんだ。
「制服って、少し動きにくいです」
「新品だから慣れていないのもあるだろうけど、確かに動き回るのには向いていない作りよね」
「慣れるでしょうか?」
「きっと、すぐに」
 くすん、と維巳が鼻を鳴らした。
 顔をうずめたブラウスから、梢子の匂いがした。
 
 
 
 時々夢を見る。懐かしい夢だった。夏の暑い日で、周囲には椿の花が咲き乱れている。本当に乱れていた。
 己は先陣を切って歩いている。彼女の手を引いて椿の絨毯を踏みしめながら、どこかへ向かっている。
 ああ、そちらへ行ってはいけない。あそこには。
 ああ、見つけてしまう。
 映像がぶれる。己が己でなくなる。
 『あの子』と同じでなくなってしまう。
「――――っ」
 目を覚ますと、枕とシーツがじっとり湿っていた。ひどい寝汗をかいていたようだ。布団の中で飽和する熱を逃がすために上体を起こした。冷えた夜気が首筋を撫でる。心地よかった。
 しゅわん、と吐息が洩れた。それで内側に溜まっていた澱も吐き出せたらしく、少しだけ身が軽くなる。
 額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、維巳は時計へ視線を向けた。朝が遅い季節なので外はまだ薄暗いが、起床時間までそうなかった。さほど待たずに空は薄衣をすべて脱いでしまうだろう。
 目元をこする。
「……夢を見て泣くなんて、本当に子どもみたい」
 自嘲気味に呟いて膝を抱える。
 罰は時に重すぎる。
 もう一度、あの頃に戻りたかった。あの理想形の姿に。『あの子』とひとつだった頃に。どうして分かたれてしまったのだろう。自分の中にいるもう一人が、どうしてあの子でないのだろう。
 そうでなければ……。
 
 リビングにはすでに起きだしていた仁之介が一人で佇んでいた。眼鏡の奥の目を細めて新聞を読んでいる。維巳に気付いて「おう」と短く声を発したが、目じりに残る涙の名残りには気付いていないようだった。
「おはようございます。お茶を淹れましょうか?」
「ああ、頼む」
 仁之介が煙草をくわえた。火をつけたそれの先端から灰色の煙が漂い昇るのを横目に、維巳が濃いめの緑茶を淹れる。「どうぞ」「ああ」ず、と小さく音をたてて、老爺が茶をすすった。
 維巳が自分の茶を用意しているところへ仁之介が不意に話しかけてきた。
「制服だがな。小さくなったら遠慮なく言え」
「え?」
「新しいのを買ってやる」
 どう答えていいのか、判断に迷った。自身を見下ろし、腕から足先まで平坦なことを確認する。確かに小学生のような身体つきだけれど、この身が先々、育つという保証などどこにもない。
「でも、わたしは……」
「いつまでもそのままとは限らんだろう」
 まるで当然という口調に、維巳は応じる言葉を失う。
 育つ、のだろうか。
 戻れる、のだろうか。
 恰好だけではなく、また、自分自身そのものが、あの子と同じになる日が来るのだろうか。
「……制服が小さくなるような、そんな日が、いつか訪れるのでしょうか」
「さあな。お前みたいなのは今まで見たことがないから判らねえが」
 嫌なのか。仁之介の問いに維巳は即座に首を振った。
 煙草を軽く一息吸って、「なら、頭に入れておけ」つまらなそうに仁之介が言った。
 それはまるで夢のような話だ。維巳はそう思った。
 
 二人で待っていると、家の者たちがぞろぞろと起きだしてきた。一番遅かったのは梢子の父親だった。帰りも遅いから仕方がないのかもしれない。休日だというのに、朝食をとったら慌ただしく出かけてしまった。仕事が詰まっているらしい。「まったく」と梢子がその背中に向かって呆れがちな呟きを放ったが、彼を引きとめるだけの力は持っていなかった。
「ああ、ナミ。私と夏姉さん、今日は町の道場に行くから夕方まで家を空けるけれど、一人で平気?」
 夏夜がコーチを請け負っている道場で、門下生の昇進祝いがあるそうだ。関係があるのは夏夜だけだが、梢子の話をしたらみんな顔を見たがったらしい。昇進祝いをダシに引っ張り上げられたようで、彼女は少々困り顔だった。
 今までは、出かけるにしても家にいるにしても、大抵は梢子か夏夜と一緒に過ごしていたから、梢子は軽く心配したようである。どうやら彼女たちは、維巳が一人きりになってしまう状況を快く思っていないようだ。寂しがってしまうと心配しているのだろう。
 「大丈夫ですよ」瞳を覗き込んでくる梢子へ、淡くほほえみかける。
「入学の準備もありますし、退屈ではありませんから」
「そう? ならいいけど……」
 梢子は唇をわずかに引いて、子犬を守る母犬のように維巳を両腕の中へ閉じ込めた。
「フラフラとどこかへ行ってしまいそうで、なんだか不安だわ」
「しませんよ」
 小さく苦笑。彼女の腕の中は心地良くて離れがたい。
 それでも、そっと彼女の胸を押して離させた。梢子が少し名残惜しそうな表情をする。
 いつか、そんな表情を見た。
 あの島で、あの森で、また遊ぼうと約束をした。
 約束を破ったのは維巳だ。彼女は破られたことに気付いていないだろうけど。
「大丈夫ですよ」
 もう一度、同じ言葉を繰り返す。
 もう嘘はつかない。そんなことをしても、取り返しはつかないのだけれど、無意味な贖罪として、根方維巳は小山内梢子に嘘をつかない。
 たとえば夕刻、彼女たちが帰ってくるころを見計らって、あの子を部屋に置いたとしても、誰も見間違えはしないに違いない。
 だから維巳はもう嘘をつけない。
 根方維巳は根方保巳になれないし、相沢保美は根方維巳になれない。
 それは……維巳にとって、とても悲しい事実だった。
 何度も彼女の腕に包まれた。
 維巳は未だ、この抱擁すら自分のものに出来ない。
 
 
 
 高校で使うノートが足りなかったので買い物に出かけた。近所のコンビニでもよかったのだが、初めての高校生活で使うものがそれではあんまりにも寂しい。少し足を延ばして大きめの量販店へ向かう。
 前方からちらほら向けられる視線を、意識して意識しないようにしながら、維巳は歩く。
 白皙白髪と、蒼眸。冗談みたいな、人形でもなければありえないようなこの身は、やはり、『誰でもない』。
「お、ナミーじゃないですか」
 後方から突然声をかけられた。振り返ると秋田百子が大きく手を振って、小さな身体で精一杯アピールしてきている。
 「こんにちは」足を止めて挨拶を送る維巳のもとへ駆け足で近付いてきた百子は、「やーやー」と軽薄な挨拶を返してから当たり前のように並んで歩きだした。
「一人? 珍しいね」
「梢子ちゃんと夏夜さんは夕方まで出かけているので」
「ふーん」
 維巳の用事を聞くと、「あ、ついでにあたしも行っていい? ヘッドフォンが壊れちゃって」自身の頬を指さしながら尋ねてきたので、維巳はもちろんと頷いた。
「まいっちゃいましたよ。近所迷惑になるからヘッドフォンないと音楽聴けないんだよね」
「ボリュームを下げればいいんじゃないかと思いますけど……」
「いやいや、ああいうのは爆音で聴いてこそ良さが出るのですよ」
 ちまちました二人は狭い歩幅で進み、そうなれば当然時間もかかる。
「四月からナミーが後輩かー。ナミー、遠慮なくあたしを秋田先輩と呼んでくれていいからね?」
「では、秋田先輩」
 素直に言うことを聞いたら、百子が悲しそうに眉を下げた。
「……うう、ナミーとの距離が広がった気がするぅ……」
「わたしも少し照れくさいです。ずっと百子ちゃんと呼んでいましたし、そのままでいいですか?」
「そうしてくれると嬉しい……」
 先輩風を吹かせることに失敗した百子がまた友人の距離をとる。「それにしても、寒いねー」コートのポケットに両手を突っ込みながらぼやいた。
「ナミーは寒いの平気? 南の出身だから苦手だったりしない?」
「どちらかといえば苦手かもしれません。夜とか、寒くて眠れなかったりしますし」
「うん、判る判る。うちの寮も消灯時間すぎると空調止められちゃうから、ちょっと夜更かしすると寒くて寒くて」
「仕方がないので梢子ちゃんにお願いしていっ……」
 言葉を咄嗟に堰き止めた。けれど百子の表情は確かに変化していて、維巳の止めた言葉がなんであるか正確に読み取ったことを表していた。
 百子が気まずげに視線を道路脇に流した。と、「おー、おー!」やけに大きな声をあげて、直角に方向転換する。
「え、百子ちゃん?」
「ちょっと待っててー」
 なんだろう、と首をかしげつつ、置いて行くわけにもいかないので大人しく待っていると、百子は通り沿いのコンビニへ吸い込まれていった。数分して戻ってきた彼女は片手にビニール袋をぶら下げていた。
 「はい」白くて丸いものを差し出される。形状からしてあんまんのようである。
「寒い話してたらあったかいもの食べたくなっちゃいましたよ。あ、これは先輩からのおごりだから」
「でも……」
「いいからいいから」
 ぐいっと押し付けられてつい受け取ってしまう。それを突き返すほど礼儀知らずではなかった維巳は、「ありがとうございます」と小声で言って、あんまんに口をつけた。
 並んであんまんを食べながら、また進み始める。ほっくりと温かいあんが舌に絡んで、それは維巳の声を封じた。
 しばし無言の中。気まずかった。会話をしていないからではなく、百子に気を遣わせるような不用意な一言を発してしまったせいだ。
――――普通、しない、ですよね。
 いくら寒い日だと言っても、いくら己が幼子のような外見だとしても。
 姉妹でもないのに一緒に眠るなんて、それはたぶん、日常生活としては成り立たない。
「……ナミーはさ」
 ぽつりと百子は言った。オサ先輩が好きなの?
 維巳は黙々とあんまんを咀嚼していた。口の中が甘くて、今声を発してしまえば、それにも甘さが混じってしまうような気がして、しばらく口を開けなかった。
 新しい世界は目が眩むようで、だからこそ、自分自身のcrimeが明確に浮き上がる。
 ぽっかりと空いた穴に落ちてどこまでも沈んでいくようだった。
「ごめんね。答えなくていいよ」
 一足先にあんまんを食べ終えた百子が、わざとらしい笑みでとりなしてきた。
 ああ、内緒にできなかった。
 今できたのは沈黙だけで、内緒は、暴かれてしまった。
「誰にだって、言いたくないことなんてあるし。ナミー、ざわっちのお姉さんだもんね」
「……違うんです」
「え?」
「梢子ちゃんを、そういう意味で好きなわけではないんです」
 百子は虚をつかれた顔をして、そのままの表情でこちらの目をまじまじと覗き込んできた。「どういうこと?」
 はくん、とあんまんに噛みついた維巳が視線を地面に落とす。
「わたしは……。
わたしは、自分が梢子ちゃんをどんなふうに想っているのか、判らないんです」
 それはきっと、変わりすぎてしまったせいで、外見と、魂のあり方とが、あの日からがらりと違ってしまったせいで。
「すみちゃんの半分でいられた頃は、確かにあの人を想っていたのに」
 だから戻りたかった。二人なのに一人だったあの頃と同じように彼女がこちらを見てくれたら、この気持の正体が判るかもしれない。そうしたら己の罪はあがなえるのかもしれない。
 一度誰かの想いが混じれば、比重の違いで分離して、『自分の想い』だけを見極められるのかもしれない。
 夢だ。
 百子が小さく首をかしげた。
「でもオサ先輩が覚えてるのって、ほとんどナミーとの思い出だよ?」
「え?」
「ざわっちとそういう話したことあるけど」
 うう、あんまり言いたくないなあ。複雑な表情で呻くように呟いたが、それでも百子は口を閉じなかった。
「そりゃ、ざわっちと遊んだ時のことも多少は覚えているけど、ほとんどはナミーといた時のことだって。見た目はそっくりだったんだろうけど、オサ先輩、思い出の二人も見分けついてるよ。ちゃんとあの頃の二人も、ざわっちとナミーだって見てる」
 今度は維巳が喉の奥で呻いた。
 そんな。
 そんなこと、彼女は一言も。
 それならあの視線は、抱擁は。
「だ、だからってオサ先輩がナミーを好きだとか決まったわけじゃないけどねっ」
 敵に塩を送ってしまったとでも思ったのか、百子は早口で己の言葉に反論して、一人で勝手にうんうんと頷いた。
 あんまんの欠片が喉に引っかかってむせた。けほ、と軽くせき込む。喉の奥から甘い匂いが漂ってくる。油断するとその匂いがあふれてきそうだったので、手のひらで口を覆った。逃げ道を失った甘さは蒼い瞳の奥を痛めて、透明な、シロップみたいな膜を浮かばせた。
 ああ、罪は。
 この『双』の罪は。
 他の誰でもない、誰にもなれない自分自身が許さなければならないものだったのだ。
「……ひとりで、よかったんですね」
「ん? なに?」
「いえ」
 不意に携帯電話の着信音が鳴り響いた。百子がバッグから音源を取り出す。
「あ、ざわっちだ。もしもーし」
 「さっきナミーとばったり会って、一緒に買い物行くところなのですよ」なぜか自慢げな口調で伝えると、かすかに硬質な声が洩れ聴こえてきた。
「え? うん。ナミー、ざわっちも来たいって。店で合流してお茶でもしよっか?」
「すみちゃんも来てくれるんですか? はい、是非」
 伝言ゲームが終わってから、携帯電話を差し出してくる。受け取って応じると、いきなり『ひどいよお姉ちゃん』と拗ねた口調で言われた。
『百ちゃんばっかり。わたしだってお姉ちゃんに会いたいのに』
「ごめんね、すみちゃん」
『あ、別に……お姉ちゃんが悪いんじゃないんだけど。でも百ちゃんに怒ってるわけでもなくて……』
 「うん。判ってる」気苦労の多い妹に苦笑しつつ、維巳は短い会話を終える。
「そんじゃー急ぎますか。あの中にお茶できるようなとこあったよね?」
「確か、コーヒーショップがあったと思いますよ」
「新作出てるかなー」
 他愛もない会話をなごやかに交わし、維巳と百子は、これまでのひどく長く感じられた道のりが嘘のように、軽やかに歩きだした。「あ、そうだ」
「なんでしょう?」
 百子は両手を頭の後ろで組むと、にひひ、とどこか悪戯に笑った。
「成り行きだけどナミーの秘密を暴いちゃったからね。お返しにあたしの秘密も教えてあげる。あたしね」
 ざわっちが好きなの。なんでもないことのように彼女は言った。
 その想いはまっすぐで理想的なかたちをしていた。
 秋田百子の色に染まりきった、他の誰も抱けない想いだった。
 維巳が口元をほころばせる。
「そうでしたか」
「そうだったんですよ」
 内緒ね、と彼女は唇に人差し指を当てた。
 はい、と維巳はひそやかにうなずいた。
 その『想』を、維巳は内緒にしていたいと思った。
 複雑な流れがあるから一概には言えないけれど、それでも、彼女の想いがかたちになれば良いと、思った。
 
 
 
 何かが足りないとずっと思っていた。
 ぽっかりと空いた空白があって、そこに風が入り込んで寂しかった。
 その寂々しさを生み出したのは自分自身だったのだ。
 それなら、埋め足せるのも自分だけなのだろう。
 
 梢子はぐったりした様子で帰ってきた。道場は彼女の父親くらいの年齢の人がほとんどなので、若いというだけで珍しがられて随分と良い肴になったようである。「さすがに失礼なことをする人はいなかったけれど」それだけが救いだと疲れた声で洩らす。
「ナミはなにをしていたの?」
「買い物に行こうとしたら百子ちゃんと会ったんです。それからすみちゃんとも一緒に買い物をしてきました」
「そう。楽しかった?」
「それはもう」
 実の妹と、その親友が一緒だったのだ。楽しくないはずがない。
 「羨ましいわね」苦笑まじりに言った梢子が、ようやく落ち着ける、といった風情でテーブルについた。
 彼女の腕がのびてきて、頬に柔らかく触れられる。ふっくらと丸みを帯びた輪郭をなぞられ、こめかみに流れて、髪に潜り込んできた。
「どうしたんですか?」
「ん、ナミがここにいると思って」
 少し抽象的な言葉だったので、維巳はどう答えたものかと困惑する。
「混沌にまぎれた時、ナミに触れたことで自分を取り戻したじゃない? あんな感じで、ナミに触ると自分がここにいることと、ナミがここにいることを同時に感じられて安心するの」
「もう、混沌はどこにもないのに、ですか?」
「そう言えばそうね。どうしてかしら」
 
 でも時々、ナミが他のものにまぎれてしまいそうな気がするのよ。
 
 それは維巳の『想』の真髄を感じ取った言葉だった。
 『双』を望む維巳の『想』が、どこからか洩れ出て梢子の何かに色をつける。
 腕を引かれて、全身をくるまれた。それから、髪を、首を、肩を腕を胸を腰を足を、梢子の指先にたどられる。
 根方維巳のかたち全てを、彼女の指先が確かめる。
「……せっかく戻ってきたのに、また消えられたら寂しいでしょう?」
 それは小山内梢子の抱く『想』だった。
 『相』を望む梢子の『想』が、たどる指先から維巳に色をつける。
 かたちを確かめきって満足したのか、梢子は淡く維巳の腰に腕をまわして息をついた。
「梢子ちゃん」
「なに?」
「しょうこ、ちゃん」
「なによ、ナミ?」
「わたしは、わたしのままでいいのでしょうか」
「当り前じゃない」
 彼女は単色に色づいた声で答えた。
「わたしのままで……」
 あなたを好きでいて、いいのでしょうか。
 けほ、と、維巳が小さくせき込んだ。
「――――ここにいても、いいですか?」
「ええ、いつまでも、ナミが望むかぎりね」
 腹部に添えられた彼女の手と、自身の手を重ねる。
 手を取って、手のひらと甲をなぞって、五指の一本一本に己の指を絡めた。どれほどの末端であっても、彼女と己は混じらなかった。
 
 彼女はここにいたし。
 自分もここにいた。
 
 『想』は、わずかも滲むことなく、確かな『像』を結んでいた。



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