侵略する梢子と嘘の汀
オフシーズンで安かったからとか、海が綺麗だからとか、Tシャツの柄を見ていたらなんとなくとか、色々と理由を並べてみたのだが、どういうわけかみんな納得してくれなかった。
百子はなんだか怒っていたし、保美はどうしてか沈んでいたし、綾代はいつもと変わらない微笑みを浮かべていたけれど、一緒に行こうという誘いには頑として首を縦に振らなかった。
白い砂浜に碧い海。良いではないか。この辺りに住んでいる者が卒業旅行に選ぶのに、なんの不思議もない観光地だ。泳げはしないけれど眺めているだけでも充分なほど、あの地の海は美しい。
飛行機の中、梢子は少々手持ち無沙汰でいる。
携帯電話は使えない、音楽プレーヤは忘れてきた。ガイドブックは百子に取り上げられた。
現地ガイドがいるのだからそんなものいらないだろう、というのが彼女の論だった。
まあ一応伝えてはいるが、別に滞在中ずっと行動を共にする予定でもない。詳しくない地を一人で歩くのだから、剣幕に圧されず取り返しておいた方が良かったかもしれない。そうしていたら、少なくとも、今こうして暇を持て余さずには済んだ。
慣れない浮遊感のせいか、眠ろうとしてもうまくいかない。
仕方がないので、目的地に到着するまで目を閉じて剣道のイメージトレーニングをした。
イメージ上の試合相手が剣先をくるくる回すので酔いそうになった。
それを見つけた瞬間、梢子は意味が判らず立ち往生した。
近づくのも通り過ぎるのも間違いのような気がする、そういう状況だった。
国内である。海外のご家庭へホームステイするわけではなく、単なる二泊三日の旅行である。
その光景自体はテレビで見たことがあるが、いずれも『WELCOME!!』とかやけに派手派手しく書かれたボードを掲げた外国人の姿だった。
彼は確かにちょっと常識はずれなほど大柄だったが、日本人であると思われた。ボードに書かれた文言も日本語だ。
梢子が近づくべきか通り過ぎるべきか迷った理由がここにある。
それを持っている青年にまったく見覚えはない。しかし、ボードにはしっかり梢子の名前が書かれていたのである。
すなわち、『ようこそ 小山内梢子さん』と。
さて、同姓同名の誰かが、偶然同じ日に旅行に来ていて、彼はその出迎えなのだろうか。
珍しい名前ではない。とはいえ、そんな偶然が起こるほどありふれた名前でもない。
これはどういうことだろう。
彼の姿を凝視したまま立ち往生を続けていると、視線がこちらへ向いた。それから「ああっ」というように口が開いて、ボードを片手で上げて振ってきた。同姓同名の誰か、ではなかったらしい。
というか誰だあの人。
青年はまっすぐに梢子の方へ歩んできて、正面一メートルの辺りで止まった。
「小山内梢子さん?」
「そうですけど……」
「ようこそ。お待ちしてました。車で来てるんでどうぞ遠慮なく」
「は? ちょ……」
南の人間特有の大らかさなのか、ぐいと腕を掴んで誘導しようとする青年を、梢子は足を踏ん張る事で拒む。
四、五十センチはあろう身長差のせいか、彼は力を込めている気配がないのに軽く引きずられた。
いったい全体、どういう事態だ、これは。
「ちょっと待ってください。どちらですか? どうして私の名前を知ってるんですか?」
「え?」
青年は梢子から手を離して足を止めると、きょとんとした顔で振り返った。
「誰って、もしかして汀のやつから聞いてないんですか?」
「汀? じゃあ、汀の知り合いなんですか?」
お互い、問いに問いで答える応答。
訝しげな梢子の表情に、青年が軽く眉を寄せた。
「そういうことか。ったく……」
妹の悪戯に引っかかった兄のような表情。不愉快だが不快とまではいかない、という顔で、青年はひとりごちた。
梢子に正対した青年はやおら姿勢を正し、
「失礼しました。守天党の鬼切り役、守天正武です。
汀に頼まれて小山内さんを迎えに来たんですが、どうもあいつに引っかけられたようで」
会釈よりも深く頭を下げた。
「あぁ……守天党の。こちらこそすみません」
顛末が読めた梢子のおもてに、呆れとか納得とかの色が浮かんだ。
それを見止めた正武も視線を変える。同類を見つけた目だった。
彼もなにかと苦労しているようだ。
梢子は別段、汀に迎えなど頼んでいない。なんといっても観光地、ホテル名と簡単な地図さえあればたどり着ける。
大方、梢子と正武、両方に対する嫌がらせのつもりで仕組んだのだろう。
「では、どうしましょうか。俺としてはせっかく来たんだから、送迎くらいはしておきたい気分なんですが」
気安い、けれどけして軽佻浮薄ではない声音は梢子に警戒心を抱かせない。
本質的なものが少し汀に似ているのかなと思った。
汀から嘘と不真面目さと軽さと意地の悪さを抜いて、親しみやすさと篤実と深みを加えたらこんな風になるのかもしれない。それはほとんど別物という気もするけれど。
「そうですね。せっかくだから、お願いします」
「喜んで」
正武の駆る車にホテルまで送ってもらって、ついでだから二人で汀に雷を落とそうという話になり、チェックインを済ませてからそのまま守天の屋敷へ向かった。汀は事前に正武が電話で呼び出しておく。
「汀、すっぽかしたりしないんですか?」
「俺は党首で汀は部下です。あいつもその辺はわきまえてますよ」
「なるほど」
携帯電話を猫の鈴だと言っていたのを思い出す。
自分ではどうにもできない、鳴らざるを得ない状態にしておくしかないというのなら、それを無視することはいくら汀でもできないということだ。
軽々とハンドルを操りながら、正武は口元に小さく笑みを浮かべている。
「汀はずいぶんと小山内さんを気に入っているようだ」
「そうですか?」
「あなたのために、守天の党首を動かすくらいですから」
「……私が嫌がることをするのが好きなんです、あの子」
梢子は無意識に、窓の外へ目をやる。
どうだろうか。
もし汀自身が空港へ来ていたら、妙な意地を張って追い返しはしなかったろうか。
迎えもなく電話一本とかなら、そこで終わりはしなかったろうか。
そもそも汀からなんの連絡もなければ、こちらからも連絡せずにいなかったろうか。
こうして汀のもとへ向かう可能性が一番高い事態は、どんなものだったろうか。
それは今のように、汀に近しい誰かと同じ境遇に陥り、共通の目的を抱くことではないか。
同じ目的の、そのための手段を持った協力者。
そんなものを用意しておく必要が、彼女にあったというのか。
それは、けれど。
「汀は、」
喉がつかえて、言葉をうまく使えない。
嘘をつけないから、二の句を継げない。
「困ったやつですよ、本当に」
苦笑混じりに正武が言った。
「失礼しまー……げっ、オサ! なんであんたまで」
「私もあなたには言いたいことがあるからよ」
上座へ陣取る正武の斜め前、入り口へ身体を向けて腰を下ろしている梢子は、目が合った瞬間に顔をゆがめた汀を半眼で睨んだ。
本来であれば梢子と正武の位置は逆であるのだが、梢子が固辞したのである。
客扱いされるのは違う気がしたし、入り口の真正面にででんと巨躯がある方がインパクトが大きそうだったので。
「さて、汀。俺はもう少しで人攫いになるところだったんだが。どうしてか判るか?」
喉の奥で唸りながらちょこんと座った汀は、不本意にも耳を伏せ、尾をたたんでいる。
「……あたしがオサに、若が迎えに行くって伝えてなかったからでーす」
「そもそも、別に迎えなんて頼んでないわよ?」
「や、オサが慣れない土地で迷子にならないように……」
「嘘よね」
「嘘だな」
「嘘です」
よどみなく認める汀だった。
「客人の前で身内の恥をさらすなんざ、俺だってやりたくはない。
けどなぁ汀、俺も守天党の長としてけじめはつけなきゃならん。判るな?」
「はあ……」
「しかしいつものように説教するにも、小山内さんの時間を奪ってしまうことになるから具合が悪い。そこでだ」
己の顎をさすりながら、正武がにやりと笑った。
「お前さん、これから小山内さんが帰るまで、付き添って世話してろ」
「……は? ちょっと待ってくださいよ、若」
半ば呆けた表情を上げて、汀が正武を見つめる。
梢子もちょっと呆けていた。二人で汀をとっちめてやろうとは言い合っていたが、具体的な内容はなにも相談していなかったのだ。
「冗談じゃない」汀が噛みつく。「そう言うな。罰にしちゃ軽いだろう」正武は意に介さず鷹揚に構えていた。
「ただでさえ時間ないってのに、オサのお守りまでしろって言うんですか!」
「心配するな、小山内さんの滞在中は鬼切りの任は免除してやる。
ま、知らん仲でもねえんだ、しばらく名所巡りしてこい」
「いくら名所だろうと、地元民が行ったって面白くないですよ!」
「面白かったら罰にならんだろうが」
何を言ってるんだ、と正武が肩をすくめた。「どうです、小山内さん」こちらを向いた視線が微妙に揺れていた。読み取るに難い視線だった。
ほんの少し申し訳なさそうな、それでも面白がっているような、懇願してきているような。
梢子はしばし思案する。空で行ったイメージトレーニングの残像が仄かに浮かんだ。
残像は目の前のリアルにあっさりかき消える。
梢子の嫌がることをするのが好きな彼女の、苦々しげな表情。
その表情は、うそか、まことか。
勝手な結論を見出した梢子が頷いた。
「じゃ、お願いしようかしら」
「……オサぁ〜」
望み絶たれた。小さな呟きに、正武の唇がひゅっとすぼめられた。
「決まりだな」
梢子へ身体を変えて深々と一礼する。
「不肖の部下ではありますが、よろしくお願いします」
「い、いえ、こちらこそ」
礼で応じながら、なんかちょっと「お嬢さんを僕にください」的だなと思って恥ずかしくなった。
守天の屋敷からホテルのある市街地へ戻る頃には日が暮れかけていた。長袖では歩くと汗ばむほどの暖かさで忘れそうになるが、日の短さはさすがに冬だ。
「卒業旅行ねー。良いご身分よね、ほんと。こっちは鬼切りの仕事でどこにも行けないってのに」
「それは汀の都合でしょう? 私が卒業旅行しちゃいけない理由にはならないわ」
「……そりゃ、ね」
ホテルは海辺に面している。というか、専用の出入り口から出ればすぐに砂浜である。窓からは夕日による海のきらめきが眩しく臨めた。
こちらの海は本当に碧い。青でも蒼でもない、碧。彼女の瞳と同じ色だ。
生まれたてみたいな海を眺めながら、梢子はかすかに目を細める。
「泳げない時期で良かったかもね」
「ん?」
「海に入ったら、汀は私のお守りができないじゃない」
「あー、そうね。もし溺れたら諦めてもらうしかないわ」
「……いや、人を呼ぶくらいはしてよ」
どうせ入れないから言い合っても詮無いが、もう少しなんとかしようとしてほしい。
汀が背後に立ち、窓のさんに手をかけて梢子の視線を追う。
「あたしなんかはもう見飽きてる景色だけど、そんなに面白いもんかしらね」
「綺麗じゃない」
「綺麗なものは三日で飽きるわよ」
思わずじっと汀を見つめる梢子。
特段、飽きてはいないな。
――――え?
梢子が己の感想に軽く動揺したその時、視線に気づいた汀がこちらを向いて、瞬時訝り、それからニヤリと笑った。
「オサはいいわね、三日以上保って」
「なっ」
なんという可愛くない言い草だ。
む、なるほど、可愛くないから飽きないのか。
「どうする? これからじゃ行けるところも限られてるけど」
「今日は移動で疲れてるし、特に見たい場所もないのよね。百子にガイドブック取られちゃって予習も出来てないし」
「遊びに来るのに予習? とことん真面目だなー、オサは」
「別に、みんなするでしょう」
そうでないなら世にガイドブックなどというものが存在しているはずがない。
需要があるから供給されているのだ。それが人間社会というものだ。
「海見て適当にその辺ぶらついて、適当にご飯食べて適当に遊ぶ。そっちの人ってそういうの苦手?」
「そういう人もいるでしょうけれど、私は違うわね」
事前にすべて予定を立てて、その通りにしなければ気が済まないほど神経質でもないが、ある程度の見通しは立てておきたい。要するによくいる普通のタイプだ。
汀の目にはそのレベルでも真面目に映るらしい。
「ま、いいか。少し早いけど夕飯にする? ガイドブック頼りじゃたどり着けない店に連れてってあげる」
「……怪しい店じゃないでしょうね」
「大丈夫だって。ところでオサ、パスポートは持ってきた?」
「…………」
「冗談に決まってるじゃない」
汀がそんなシリアスな落とし穴へ梢子を放り込むわけもなく、連れてこられたのは中年の夫婦が営む小さな定食屋だった。確かに、およそガイドブックには載らないであろう店構えである。
メニューも本当に地元の家庭料理という感じで、料理名を見てもよく判らなかったので汀に任せたら、一品だけものすごく辛い料理を出されて悶絶した。仕返しに残りを汀の口に突っ込んでみたが彼女は平気な顔をしていた。梢子がやり返すことを見越していたに違いない。
汀がもぐもぐしながら「ん?」と首をかしげる。
「あ、これって間接キ」
「違う!」
口封じにデザートの揚げ饅頭を押し込むとさすがに苦しそうだった。
いや、違わないんだけれど。違わないからこそ口封じをしたというか。
口封じとは、言われたら困ることを言わせないために行われるものなのである。
しかし美味い。観光客向けにアレンジされたりはしていないから、全体的に素朴だが丁寧に作られていて安堵感のある料理だった。二人の始まりの日に着ていたTシャツから連想したのだろう、汀が注文した海ぶどうも、ふむ、面白い食感だ。
一通り皿を空ける頃には日も暮れて、満足感を溢れさせながら店を出る。
「ね、良い店だったでしょ」
「そうね。ありがとう汀」
「若にちゃんと言っておいてよ。あたしがしっかりきっちりオサの世話してたって」
「はいはい」
正武の提案がただの口実であることは、二人とも理解している。
彼はただ、生き抜くための日々を過ごす汀に、少しだけ息抜きをさせてやりたかっただけなのだろう。
それでも、体面というものがある。猫の鈴が一時的に外れても、汀は彼の部下だった。
「腹ごなしに少し歩きましょうか」
「いいけど」
「あなた、水の際までは行けるのよね?」
「うわー、嫌な予感」
嫌な予感ほどよく当たる。
だってこの地に来て海に行かないとか、ないだろう。
夜の海は夜の大地より暗くて、飲み込まれそうなほど深遠。
目を凝らさないと、汀の立ち入れる際が判別出来ない。
ホテルの明かりでうっすらと輪郭は判るけれど、少しでも目測を誤れば靴が水浸しになる。
汀は充分な安全距離を取っていた。猫でももう少し水辺へ寄るだろうというほどの安全距離だった。ゆうに三メートルは波打ち際から離れている。
これ以上は近づいてなるものか、という決意の見える距離だった。
そちらを向きながら梢子は後ろ歩きで海へと近づいている。なかなかスリリングなチャレンジだ。音から判断して足を進める。まだ大丈夫。
「オサー、あんまり近づくと波にさらわれるわよー」
「まだ平気でしょう?」
靴底から伝わる感触は乾いている。
汀は棒立ちでこちらを見ていた。
二人の距離はどんどん離れていく。
「そろそろ危険地帯かもー」
「平気」
もう汀の表情は見えない。
ホテルの明かりが逆光となって、汀の表情を隠す。
梢子は迷いなく逆行していく。
砂の感触が重みを増した。波の届く位置へと到着したらしい。
それでも、梢子は歩みを止めない。
「ちょっとオサ、どこまで行く気?」
ふざけて塀の上を歩く子どもを諌める大人に似た声音。
違うでしょう?
今届けるべき声は、そんなものじゃないでしょう?
「オサ、もう戻ってきた方がいいんじゃないの?」
ざぐ、と不定形が絡む音。
梢子は途端に重くなった足を無理やり進める。背後へ、背後へ。
「こらあ、オサー。溺れたら諦めてもらうからねー。満腹で海に入ると溺れやすいんだぞー」
届く声に焦りも翳りもなく、ただ限りなく呆れだけがある。
もう腰まで海に浸かっていた。
卒業旅行の一日目、梢子は海へ倒れこむ。
目を硬く閉じて息を止める。瞑目の前後で視界は特に変わらない。
水の流れと自らの体内が発する音が世界を支配する。
飛び込んだ先には何があるだろう。
しまいこんでいたものは見つかるだろうか。
竹刀の先がくるくる回って酔いそうになる。
ごぼ、と大きな泡が口から吐き出された。
海水を飲んでしまわないように入り込んできた不定形を押し出す。
そろそろ限界か。
言葉が海に流れ出て、それを取り返そうと梢子は両手でもがく。
流出した言葉がなんであるか模索する。
どういうわけかみんなが納得してくれなかった、自分も納得していなかった理由は流れるままにして、流してはいけない言葉だけ、捜す。
深淵を覗いた時、深淵もまたこちらを見ている。
深遠にある深淵がこちらに手を伸ばしてくる。
梢子はそれを掴んだ。
「――――ぷは!」
「うわ!」
何かを引っ張る反作用で身体を海面の上へ起こすと、入れ替わりに横で派手な水しぶきが上がった。
「わー! 溺れる! オサ、助け……!」
「足、着くでしょう?」
冷静に言ってやると、汀はあっさり立ちあがった。「ま、そうなんだけどね」
「水際立ついい女から、水も滴るいい女へ華麗な転身。できればしたくなかったけど」
「諦めてもらうんじゃなかったの?」
「そんなことになったら、若にどんな目に遭わされるか判ったもんじゃないわよ」
呆れ顔で見下ろしてくる視線は嘘で、梢子はそれが気に入らなかったので彼女を抱きこんでそのまま海へ倒れた。
「わ! ちょっ、オサ……!」
「恐いの? 汀」
「そりゃ恐いって! カナヅチだって言ってるじゃないの!」
汀が必死でしがみついてくる。これは嘘じゃなくて、だから、梢子にとっては突破口だ。
規則正しい波を利用して少しずつ浜辺へ近づいていく。汀は状況を観測する余裕もないのか、とにかく全力で梢子に縋っていた。
「汀、まだ恐い?」
「あ、あんたねえ、カナヅチにとってどんだけ海が恐いか判ってないでしょ! しかもあたし結構トラウマだし海って!」
いつぞやのお花畑が見えかけた体験のことを言っているのだろう。
ショック療法で泳げるようになったりはしていないようだ。
「まだ恐いの?」
「だから恐いってば!」
きつく目を閉じて、子どものようにわめき散らして。
梢子は汀をしがみつかせたまま、ゆっくりと上体を倒した。
そうしても、既に汀の頭部は海へ潜らない。
「……あれ?」
そぅっと目を開けた汀が、波打ち際にいることを確認して視線を梢子へ戻す。
笑い出しそうになるのを堪えながら汀の両頬を包み込んで、碧の双眸に自身を映す。
「ねえ汀、どこからが嘘?」
深淵を引きずり込んだ梢子はもう、深淵に観測されない。
観測するのはこちらで観測されるのはあちら。
ああ、違うか。
観測は意味を持たない。己は深淵で深淵は己だ。
汀はぼぅっと梢子を見上げたまま答えない。
ようやく見つけた。ようやく取り戻せた。どうしようもないほどの衝動。
つまり、要約すれば「お嬢さんを僕にください」より先にやることがあるだろう、ということなのだ。
「汀は、」
先が出ない。違ったらしい。これは流れてしまった言葉だった。
ええと、どこだろう。どれだろう。
しまいこんでいた、想いは。
まよいこんでいた、願いは。
「オサ?」
訝しげな声音。うん、近い。ほしいものが近づいている。
「卒業旅行って正確には卒業前旅行よね」
「へ?」
「だってまだ卒業してないもの」
「まあそうだけど……。それ、今この状況で言うようなこと?」
「だから、私のこれを卒業旅行にするには、ここで卒業しないといけないの」
「それは好きにしたらいいけど、とりあえず陸に戻らない?」
それは駄目だ。せっかく捕まえたのに、身軽な彼女は水を抜けた途端逃げ出してしまう。
汀を押し倒した体勢のままで、梢子は唇が触れるほど近づいて囁く。
見つけ出した言葉。
「汀、もう私で遊ばないで」
抜かりのない言葉は耳を抜けずに留まって、気を抜かせない正当さで、汀へ届いた。
もう卒業しなければならない。
しまいこんで、意地を張って、手を伸ばせばすぐ届く場所にあるものをないと言い張る愚かしい予定調和は。
無計画を良しとして、無形核を殻に入れて確とした骨格とする、そういう作業。
肉付けは、まあこれからなんとかする。
「……あー」
梢子がほしい声の調子で汀が唸った。
言葉を伴うにはまだ抵抗がある、そのために単音の無意味な唸りとなっていたが、確かに、それは感情を含んでいた。
感情は嘘をつけない。
汀の両手が万歳の形に上げられる。それは降参の合図で、平行だったLinesが交差した証で、Liesが沈めていた恋しさがRiseしたという証明だった。
「どうするの?」
「なにが?」
「どこまでを、嘘にするの?」
溶かしたチョコレートを流し込まれたみたいに、声を発するたび甘ったるくて苦しい。
あえなく最後の領土――――つまりは自分自身を侵された汀が、それでも形ばかりに和平の書面へ調印する。
「――――オサが目を閉じるまで」
了解。夢見る口調で答えた梢子がまぶたを下ろした。
虚ろばかりだった汀の口へ、とろけたチョコレートを流し込んで塞ぐ。
チョコレートは汀の奥深くまで入り込んで、じわりじわりとその芳香を浮き立たせた。
抱き寄せられて、耳朶へ囁きが落ちる。
「幸せにして」
それはチョコレートで舌をコーティングされた、文字通りの甜言だった。
ところでいくら暖かい地方といっても冬の海水は冷たい。
なんの装備もなく延々と冬の海に浸かっていた梢子はしっかり風邪を引いて、翌日のほとんどをベッドで過ごすこととなった。
汀がつきっきりで看病してくれたかというと実はそうでもなく、うつされたら嫌だという理由でわりと放っておかれた。
そのうえ来たら来たでなんか変なことをしてくるので困った。
幸せのためだとか言っていたが、病人に対する配慮というものが欠けている。
無計画を良しとするべく動いた梢子だったが、この計画狂いだけはありがたくなかった。そこはもう少し予定調和があっても良かっただろうに。
その点に関しては、こう言うより外ない。
甘かった、と。
終