しじまの中、風は鮮やかに過ぎて


 竹を割ったような性格というのは先人が遺したもうた立派な慣用句だが、彼女に対してはまったくもって不適格であり、むしろ竹をしならせたような性格とでも言いたい。どれだけ力を込めても曲がるばかりで手ごたえがなく、かと思えばちょっとの油断で手痛い反撃を浴びせてくる。転じてこちらこそ竹を一刀両断、曲がる要素などついぞ見つからない、それはそれで問題だと言われるような人となりであって、そうであれば相容れないこと甚だしく、初対面でははっきり苦手意識を持ったものだ。
 人として、被るところが一つとしてない。
 とはいえ世の中はゲームと違うので、同じ属性でなければ親交が深まらないなどということはない。
 反発し合っていたわけではないし。
 反目し合っていたわけでもない。
 煩雑な出来事に巻き込まれて、反則的な出来事に巻き込まれて、信頼のようなものも、覚えた気がする。
 いや……。
 そこまでの心流れではなかったかもしれない。せいぜいがところ、心懐程度か。
 それっきりだった。
 信頼なり心懐なりは先に何かを生み出せもしなかった。
 合縁奇縁。
 逢い、縁消えん。
 消えてしまえば深まるものなどない。親交も、侵攻も。そう信じていた。
 それっきりだと思っていたのに、先には何もないと思っていたのに、縁はなにをとち狂ったか、神様が気炎でも吐いたか、一年も過ぎた頃にあっさり再会してしまってこちらは事態を飲み込めないまま時に流され数時間、現在は沈黙の重さに耐えかねていた。
 
 
 
 不思議な緊張感だった。先刻の対戦よりも緊迫した空気だったかもしれない。心拍が上がって鼓動のインパクトが大きい。
 ちらりと斜め後ろを盗み見る。二人きりの更衣室、喜屋武汀は汗に濡れた額にタオルを当てながら息を吐いている。やっと終わった、とでも言いたげな視線は床に落ちたままだ。
 決勝戦で会おう、などとまるで熱き友情を確かめ合うようなやり取りをした二人はしかし、ここまで一言も声を交わしていない。お疲れさまの一言でもかけてやるべきなのだろうが、なんとなくタイミングがつかめなくて顔をそらしてしまった。
 一年という時間は、海の中で絶対に離さないと決めた相手ですら、これほどの距離を生んでしまうものなのだろうか。
 夏の盛りだが更衣室の窓は小さくて陽が入らず、胴衣が吸いこんだ汗が冷えて悪寒を呼ぶ。着替えてしまいたいがこれから表彰式なのでそういうわけにもいかない。気づまりに咳をひとつ落として、梢子は汀に背を向けたまま動かずにいる。
 そもそも、無言の汀というのが気味悪い。今朝、みんなと一緒にいる時はあんなにも饒舌で明るかったのに、今は床を見つめたままじっとしていて、時折小さなため息を洩らす程度で、こちらの方を見ようともしない。
 顧問やマネージャの待つ応援席へ戻ろうか。個人戦はすべて終了している。部員もみんなそちらにいるだろう。
 そう思いつつ、どうしてもここを動けない梢子だ。
「――――オサ」
 不意に呼びかけられて思わず首をすくめた。恐る恐る振り返って「なに?」と答える。汀は口元をタオルで覆って、足もとへ視軸を固めていて、梢子が振り返ったところで瞬きをした。
 タオルを外された唇が動く。
「あたしが来た時、どう思った?」
「……どうって……、驚いた」
「それだけ?」
「……驚いて」
 視線を彷徨わせて言葉を探す。この場に相応しい言葉、ここで言うべき言葉を。
「少し、懐かしかった」
 汀が少しだけ苦笑した。「懐かしかった、か」梢子の言葉を繰り返した彼女の口調は寂しげだった。
 海淵機縁で知り合った彼女の、そういう表情を見るのは初めてだったか。
 持っていたタオルを首にかけて立ち上がる。ロッカーの前、手を伸ばせば梢子へ届く距離まで進んだ汀が、窺うように軽くかがんだ。身長差が埋まって二人の視線が合う。
「嬉しいとは思ってくれなかったんだ?」
「……えぇと……そういうのも、多少はあったけれど……」
 向こうで元気にやっているのだろうとは思っていたが、こうして意気軒昂なさまを見られたら、それはもちろん喜ばしく思う。まさか剣道の全国大会などというステージで再会するなどとは夢にも思わなかったので、それも驚きを増幅させていた。
 だから、梢子が言いたいのは、不意に出会えた喜びは存在していたということで、汀にも、そういう意味として伝わっていると、思いたいのだけれど。
 彼女は賢しいから、きっと判ってくれる。
「ふぅん」
 小さく、揶揄か自嘲のように呟いた汀の歩みが一歩進む。俯く梢子の頭上に影がさした。
「ちょ、ちょっと、汀」
「ん?」
「……近い」
 顔をそむけ、押し返すように手のひらを汀へ向けて突き出すと、その手を彼女に取られた。
「近いとなんかまずいことでもあるわけ?」
「そ、そういうわけじゃないけれど」
 さっきまで遠かったくせに、いきなり距離が縮まって戸惑う。人と人には適正な距離感というものがあるだろう。遠ざかったり近づいたり、そのどちらもが極端すぎる。
 顔、が、熱い。
 汀が近づいてくると、いつかの出来事を思い出す。
 思い出してはいけないと思うのに、映像と感触と空気の流れと芳香を、否応なしに想起してしまう。
 それから海の匂いだ。汀からは海の匂いがする。陽に焼かれた砂浜に立っている時に嗅ぐ、あの匂いを想起させる。
 あの時も。
 された、ような錯覚を覚えた。
 真実は目の前の彼女のみが知っている。
 すい、と、汀の親指が頬骨のあたりに触れた。軽い硬直が梢子の身体に訪れる。目を閉じなかったのは半ば意地のたまものだった。「睫毛が落ちてた」手を払う彼女は猫の笑みでいる。猫が笑うことなんてないのに。あるとしたらそれは不思議の国の住人だ。
 どうして。喉からせりあがってくる憤りを奥歯でかみ殺す。彼女は気づいているのかいないのか、妖しく光る碧眼をただこちらへとそそいでいる。
「あ、ああ。汀、すごいわね。剣道を本格的に始めたのって去年なんでしょう? それでここまで来られるんだから、大したものだわ」
 早口にお世辞を言ってみるが彼女の瞳は光を失わなかった。
 小さく首をかしげ、その首を手のひらで軽く撫でるようしながら、あきれ口調で言う。
「だから、剣道の道具とルールでやっても負ける気がしないって言ったじゃない? あたしとあんたらじゃ、覚悟が違う。『当たったら死ぬ』事態に直面したことがある人間とそうじゃない人間、差が出るのは当たり前」
「そうだけど」
「ひょっとして悔しいわけ? あたしの方が強いって知っていたくせに」
「……褒めているんだから、少しは素直に喜んだら?」
 汀が肩をすくめる。「そう言われてもね」彼女にしてみれば当たり前のことだそうだし、博識なくせに謙遜という言葉は脳内辞書に載っていないようだ。
 とにかくいい加減離れてほしい。加減をしろということだ。怪訝そうな顔でこちらを見るな。
 自分から離れるのは逃げ出すようで嫌だった。負けん気の強さは折り紙つきだ。
 どうして彼女から距離を置きたいと思っているのか、その理由は考えないようにしながら、梢子は口早に益体もない話題を紡ぐ。
「これからも剣道は続けるの?」
「どうしようかなー。一応、目的は果たしたわけだけど、やってみたら結構面白かったし、続けてもいいかもしれないな」
 その飄々とした、片手間な台詞に眉根が少々寄った。
「なんでもできる人の言葉って、妙に神経がささくれ立つわよね。……ああ、『なんでも』ではなかったかしら、あなたの場合」
「…………」
「剣道は上達したみたいだけれど、水泳の方はどうなの?」
「人生における取捨選択って重要だと思うわけ、ミギーさんは」
「まだ泳げないのね」
 まあ実際問題、これだけのハイスペックであればカナヅチという欠点などかすんでしまうが、他に付け入る隙がないのでここぞとばかりに囃す梢子である。
 軽く汀の目が据わったがそれも一瞬、すぐに意地の悪い笑顔になって、「また溺れたらオサに助けてもらうわ」などとうそぶく。
 しなった竹の一撃を正面から食らってしまった。ぐ、と言葉に詰まり動けなくなる。自業自得だ。
「そ、そうそう都合よく助けたりなんてできないわよ」
 反駁に力がこもらなかったのは、己の不甲斐なさを嘆いていたせいだ。そうとも、それ以外に理由などあるものか。
 想起による羞恥と、現状への寂寥。
 そんなもの、ない。
「……他の誰か、に、助けてもらったらいいじゃないの……」
 自業自得、あるいは自縄自縛。
 汀、腕を組みながらうーんと唸り、
「や、守天党ってわりとスパルタなのよ。というか人手不足であたし程度にかまっている暇がないって言った方が正しいかな。去年のはあたしの独断専行だったけど、最近は初めから単独任務に就かされたりすることもあるしね。実際、あわやって場面が一度二度は……」
「ちょ、ちょっと、危ないじゃない、それ!」
「いやそういう組織だから」
 だから、と汀は笑う。
「オサが助けに来てくれると、こっちもすごくありがたいんだけど」
 堂々巡りだった。小坊主の雑巾がけはあっちに行ったと思えばこっちに戻ってきて、折り返し地点はあれど終点はない。
 汀と話すと、いつもこうだった気がする。彼女が煙に巻くか、あるいは自然現象や第三者の介入がなければ終わりが見えない会話を、何度も交わした気がする。
 それは。
 梢子の方から会話を終わらせようとしたことが、「もうここまでで良い」と思ったことが、ない、ということだろうか。
 ただ負けん気の強さから言いくるめられるのをよしとしなかっただけか、それとも、もっと。
 ああもう、まったく、堂々巡りだ。
 内心の煩悶が表に出たのか、内面の波紋が表情に現れたのか、汀が訝しげな視線をよこしてきた。
「なに迷ってるの?」
 それは特に深い意味のない問いかけであったのだろうが、だからこそか、的を射ていた。
 梢子は迷っている。
 以前は、待っていたのだけれど。
 少し前に酔って。
 今は、迷っている。
 無言を貫くと汀が小さく肩をすくめて、表情から力を抜き、「もういい?」と問いかけてきた。
 問いの意味が判らなかったので首をかしげる。その拍子にサラリと流れた髪へ、彼女の指先が絡んだ。
「こう見えて、こっちもわりと緊張しているんだから、知らん振りはなしにしない?」
 わずかに胸がうずく。
「……なに、が」
「あたしがここにいる理由」
 もっとはっきり言おうか? 汀はそう言い募ったが、梢子はそれに頷かなかった。
 顔をそむけたまま、梢子がおずおずと言葉を返す。
「こちらの舞台を荒らしたかったんでしょう?」
「そう」
 正解、よくできました。そんな表情で汀が首肯する。
「そうしたら、あんたの心は乱れるじゃない?」
 頷かなかったのに直言してくるものだから、どうしてか泣きたくなる。
 いつだって彼女はこちらの嫌がることしかしないのだ。
 なぜあれで終わらなかったのだろう。互いに手を叩き合わせて、剣の交わりを待ちわびる、まるで熱く篤い友情が二人の間にあるのだと錯視されるような、後ろ暗いところの何もない間柄で、終わらせてくれなかったのだろう。
 何も疑っていないような顔で(それはまったくの見当違いなのに!)、汀は笑って、梢子の頬に触れている。
「どこまで言ったら、オサはちゃんと答えてくれるのかしら」
「何も答えたくないから、何も言わないで」
 汀の眉が片方上がる。ようやく雲行きの怪しさに気がついたようだ。「オサ?」無視できるレベルだと思っていた、単に意地を張っているだけだと思っていた拒絶がそうではないと勘付いて、汀の碧眸が惑いに揺れる。
 重苦しくて少しだけ湿った溜め息が、梢子の口から洩れる。
「……遅いのよ」
「え?」
「一年は、長すぎたの」
 己が人心の機微にうといことは自覚しているし、そういう方面が不得意であることも重々承知だ。
 けれど……。
 覚えは悪い方ではない。
 一度見たなら、一度知ったなら、理解も出来る。
 『その視線』を浴びたことが、過去にあった。
 待っていたのに。ずっと待っていたのに彼女は『それ』をくれなくて、待つのやめた途端に差し出してくるなんて、タイミングが悪いにもほどがある。
「あぁ……」
 納得を潜ませた呻き声を上げて、汀が軽く天を仰ぐ。相対する二人に愛くるしさはかけらもなく、ただ相苦しさだけが表面に浮かんでいる。
 梢子は黙って、汀の首にかかったタオルの編目を数えていた。
 五十を過ぎたところで彼女が口を開く。
「やすみん?」
「え? どうして保美が出てくるの?」
 がくりと彼女の肩が落ちた。「違うんだ……」「そりゃ、慕ってはくれているけれど、あの子はマネージャとして頑張ってくれているだけよ?」きょとんとしながら答えると、汀の眉が情けなく下がった。「さすがに同情する……」
「じゃ、誰なのよ?」
「……うちと交流がある学校の男子」
「顔見知りだったの?」
「剣道の交流試合で何度か挨拶をしたくらいだけれど。でも、誠実で良い人だわ。汀と違って」
 牽制のつもりで言ったら汀は少し不機嫌になったけれど、それ以上の動きは見せずにいなした。
 呼び出されて、告白を受けて、迷っていたらしばらく考えてみてほしいと言われて、数度、二人きりで遊んだ。まじめだが冗談を口にする程度にはほぐれており、他者を傷つけるようなことは絶対に言わないし、正義感だって強い。女性の扱いに慣れていないのかおいそれと触れてこようとはしないところも好感を持てた。
 全然ちがったのだ。
 汀と全然ちがうから、良いと思った。
 そう言えば良いのだ。あなたとは正反対のタイプだからその人を選んだのだと。
 嘘を吐くのは苦手だけれど、その言葉は嘘ではない。
 わずかに揺れる視界の中、嘘つきで人を食ったような性格の彼女は、やはりそんなような面差しでこちらを見ていた。
「なるほど」
「だから」
 諦めてくれと言うより先に、
「遅かったかもしれないけど、遅すぎたってことはないわよね」
「……は?」
 どこか不敵な口調に思わず顔を上げると、口調通りの表情が目に入った。
「ちょっと出遅れたらしいけど、間に合わないわけじゃないと見た。どう?」
「いや、あなた、人の話をちゃんと聞いていたの!? 私にはもう……」
「聞いていたけど聞かない。あんたはあたしを忘れてなかった、あたしと会えて嬉しかったんでしょう? あんたは」
「やめてったら!」
 汀の手を払いのけて激しく首を振る。
「どうして今さらなの? いいじゃない、私はこちらで、あなたは向こうで。そのまますぎてくれたらよかったのに」
「そっちの都合だけで勝手なこと言うなってば」
「勝手なのはあなたの方じゃない!」
 聞きたくない。これ以上浸入ってきてほしくない。入り浸ってほしくない。耳を両手でふさぐ。強く強く手のひらを押し付ける。汀がその手を外させようとしてくるのを全力で抗する。「    、          !」聞こえない、何も聞かない。
「ああああぁぁぁぁ!!」
「  !     !!」
 己の声だけが耳の奥で反響する。自制を失くした自声に覆われて、まるで静寂の中にいるようだ。汀の口だけが動いている。
「   、         、             ?」
「ああああああああああああああああぁぁぁァァァァァ……!!」
 喉がヒリヒリ痛んでも構わずに、汀の声、その一音一音をすべて己の声で上書きしていく。騒ぎを聞きつけて誰が来ようと構うものか。彼女と離してくれるなら、そちらの方がありがたい。
 どれだけ叫んだだろう。叫びすぎて頭が朦朧とする。両手に力が入らない。すでに感覚はなく、どこまでが手でどこからが耳かも判らない。それでも意志だけが耳に手を押し付けている。もういっそ耳などなくなってしまえばいい。彼女の声なんて一言たりとも聞きたくなんかない。どんな言葉も。どんな音も。
 耳に入るだけで泣きたくなるような、そんな声など聞こえなくていい。
「      、       。   」
 煙霧に覆われた思考が、己の選んだ人を思い出そうとする。霧の向こうの微笑みはけぶって見えない。眼前の碧眸だけがクリアに映る。叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ叫ぶ。記憶はすでになんの像も結んでいない。汀を凝視するその視界だけを梢子は認識する。
 梢子の口が閉じた。
 汀の口も閉じていた。
 肩で息をする梢子の、耳はふさがれているはずなのに。
 声が明瞭に聞こえた。
 
「あんたはあたしが好きでしょう?」
 
 それは心を切り裂く若句だった。
 
 こんな時だけ、彼女はふざけない。
 その言葉は。
 どうしたってふさげない。
 どうしたって防げない。
 
 心懐程度だと思っていた、そう言い聞かせていた心はたった一言で壊れて、膝から崩れ落ちそうになるのを彼女が支えた。
 猫が家人に懐くような仕草で頬をすりよせ、汀が喨々と笑う。梢子は抱きしめられた姿勢のまま、寥々とした眼差しを中空へ向けていた。
「違う」
「違わない」
「なんとも思っていない」
「思ってる」
「あなたなんて、いなくても平気だったわ」
「平気じゃなかったでしょ?」
「待ってなんかいなかったし」
「待っていられなかっただけ」
「だってあなたは遠くにいたじゃない」
「そばにいてほしかった」
「ずっと、連絡もつかなかったし」
「ずっと、寂しかった」
 次第に彼女の言葉がこちらの想いを代弁しているのか、それとも彼女自身の想いなのか、区別がつかなくなってくる。
 あるいはどちらでもよかったのかもしれない。言葉は言葉であるというだけで、想いのすべてを表現することなどできないのだから、口から出る言葉など、いっそ天気の話だって構わないのかもしれない。梢子は汀の言葉を聞いていなかったし、汀にとって梢子の言葉など何も利いていなかった。ただ無闇に表へ出るに任せた、まさしく口から出任せだ。
 梢子の肩に肘を置くかたちで手を回し、ふわりと撫でてくる。
「疲れない?」
「……少しだけ」
 そうだ、疲れていた。待ちくたびれてもううんざりだった。だから他者への気持ちを飾り、彼女という存在をなおざりにした。
 一年はそれが表わす時の流れより長い。
 すれ違うどころか袖振り合いもしない二人にあるのは寂然とした孤独感だけで、それを飲み込めるほど成熟してなどいなかったし、かといってすぐに走り出せるほど幼稚でもなかった。
 どちらかがもう少しだけ幼稚だったら、夜討ちもかけられたのかもしれないが。
 言っても仕方ない。
 現実問題、二人は一年をかけてしまった。一年がかりで動いたら道が違っていた。何も変わっていないはずなのに、お互いに見違える部分など何もないのに道変えた。
 諦めないと宣言したとおり、汀は決意など微塵も感じさせない風情で、覚悟などひとかけも見えない表情で言う。
「いいからあたしにしときなさいって。寂しい思いも嫌な思いも辛い思いも全部味わわせてあげる」
「メリットがひとつもない……」
「でもきっと、後悔だけはしなくて済む」
 とうとう梢子は笑ってしまった。裏切りと等しい笑みだった。
 なんて甘美で完備な誘い文句だろう。彼女以外の誰に言われても鼻白む告白の仕方だ。
 判っている。彼女とともにあることを決めたら、それはそれは面倒臭くて艱難辛苦の連続で楽しい思い出よりそうじゃないものの方が大いに違いない。
 だから一度、そうじゃない、安定と安寧をもたらしてくれる道を選んだのだ。
 けれど、だけれど。
 どれだけ辛いことがあろうと、どれだけ嫌なことがあろうと、どれだけ寂しかろうと、最後の最後に「ああ良かった」と息をつけるのなら、最期の最期にそんなふうに息を尽けるのなら、それはもしかしたら、最高の幸福なんじゃないだろうか。
 そこまでではなくとも、もしもどこかで二人の行く末が分かたれても、彼女の言うとおり、後悔はしないだろう。
 振り払った手を今度は取るおこがましさ。
 汀は卑怯者なので、そんな傲慢をそしらなかった。
 
 
 
「さしあたって、どう伝えるかが問題よね……」
 表彰式で居並ぶ選手たちの中、隣同士の二人は小声でぼそぼそ会話している。不謹慎だがここを逃したら直に会話できる時間がとれそうにないのだ。汀はすぐに地元へ戻ってしまうので、きちんと決着をつけるためには今のうちに方法を決めておかねばならない。
「や、普通に言えば?」
「一年前から好きだった相手と再会できたからそっちにします、って?」
「事実よね」
 そのとおり。真実は往々にして残酷なものだ。「そりゃ、そう言うしかないでしょうけど」言い訳という語が辞書にない小山内梢子である。
 八強の選手たちが横並びで賞状を受け取る光景を眺めながら、汀は口調だけに笑みを含んで囁く。
「不義理すぎてふんぎりがつかない?」
 梢子は少しムッとしたけれど、やはり表情には出さずに否定した。
「私が悪いわけだから、責められるのは仕方がないわよ。ただ、汀がいないところで言っても信じてもらえるかどうか」
「ああ、まーね」
 言い訳とか嘘とかが抜けている辞書の持ち主たる梢子のこと、本当に本当のことだけしか相手には話せないだろう。本心で恋い焦がれていたのは、交流期間が正味五日でその後一年間まったく接点のなかった同性です、と。
「リアリティなさすぎて、逆に信憑性上がるんじゃない?」
「頭から信じてもらえないわね。なんていうか……真面目な人だから。常識人というか」
「なるほど。目で見たものしか信じないタイプってことね」
「うん、そんな感じ」
 そばにいたころは頼もしくさえ思えた性質であったが、こうなってしまえば単なる障害にしかならない。一笑に付されて終わる光景がありありと浮かんでしまう梢子である。
「『百聞は一見にしかず』を体現しているような人なのよね。何度言っても、じかに見ない限り信じないんじゃないかしら」
 三位まで賞状の授与がつつがなく終了し、二人の出番になる。
 晴れの舞台ではあるのだが、どうしても少々ぼんやりしてしまう。今後のことを考えると頭が痛い。
 ぼんやりしている間に賞状を受け取って、列に戻ろうと歩き始める。頭痛が治まらなくて視界がぼやける。汀の姿だけがクリアだった。その彼女がふと表情を緩めた。
 なんだろう?と訝しみながら歩を進めていると、こちらに一歩近づいてきた。周囲が少しだけざわめく。
 おめでとうの握手でもしてくれるんだろうか。そんなのんきなことを考えていたら、汀に手を取られて、軽く引き寄せられた。
 既視。友好的でありながら、こちらはけして油断できないその表情を、以前見たことがある。
「み……っ」
 嫌な予感が爆発的に膨れ上がった梢子は慌てて手を振り払おうとした。が、遅い。
 ひゅん、と彼女の呼気が流れ込んできた。
 空気が凍る。
 一瞬後、ざわめきが津波のように大きくなった。「ざわっちしっかり! だだ、誰か、この中にお医者様はいらっしゃいませんか!!」遠くで百子の悲痛な声が響いたが、遠すぎて梢子の耳には届かない。
 二人とも無言だった。当たり前だ、この状況でどうやって口をきけというのだ。
 二人だけが静寂を保って、けれどそれ以外は鮮やかすぎるほど鮮やかに何かを言っている。
 半ば無理やり汀を押しのけると、大きく肩で息をする。己がどんな顔をしているかなんて鏡を見なくても判る、耳まで熱くて羞恥で心臓が止まりそうだった。合宿でされたのとは意味が違いすぎる。
「ななな、なにをするの!」
 汀はひょんとした、泰然自若とした風情でいる。
「代替手段、かな。一人に百遍繰り返されたって信じられないことを、百人に一回ずつ聞かされたらどうなるか」
 どちらの方が信憑性を覚えるかということ。一人が「カラスは白い」と言ったところで検証の必要も感じることなく笑い飛ばせるだろうが、百人が口々に「カラスは白いものだろう?」と強弁してきたなら、信じるかどうかはともかくとして己の確信が揺らぎもするのではないか。
 しかも、ここにいるのは選手と応援の生徒、それから顧問に家族などの私人、百人どころの話ではない。
「どうせ大会も最後だし、ほとんどはこれっきり付き合いもない連中でしょ。べつに噂を広めたってそれ以上のことなんか起こらないわよ」
「そういう問題じゃなくて……!」
「じゃ、ミギーさんのちょっぴりお茶目な悪戯ってことにしとく?」
 それは。
 それは、嫌だ。
 せっかく手に入れられた『彼女の本当の気持ち』を、ないことにしてしまうのは嫌だ。
 片手で顔を覆い、逆手では拳を握りかためて、彼女の胸をぽこんと叩く。ささやかな抗議行動を、彼女はなぜか幸福そうな眼差しで受け止めた。
 今すぐ逃げ出してしまいたいが、式の最中ではそうもいかない。「ほ、ほら、静かにしなさい。みんな列に戻って。小山内さんと喜屋武さんも!」業を煮やした各校の顧問たちが、自校の生徒たちを抑え込んだ。
 ざわめきは収まらない。梢子の胸の内のざわめきも治まらない。隣の汀を盗み見ると、軽く口元を緩めて「してやったり」という顔をしていた。なんという憎たらしい表情だ。
「どうしてあなたは、いつも私を困らせるの」
「オサをからかうと面白いからかなー」
 面白いというだけで公衆の面前でキスなんかするのか。博識なくせに常識がないのか。
「そんなことをして楽しい?」
「すごく楽しいわね。これからしばらく、オサが今日のことを思い出して悶々とするかと思うと笑いが止まらない」
「……悪趣味だわ」
 流し目じみた視線でこちらを捉えた彼女は続ける。
「オサが、あたしのことで頭がいっぱいになるかと思うと、嬉しくて堪らない」
「…………」
 やはり悪趣味だ。そんなことの何が嬉しいのだろう。悪食と言っても良い。博識で悪食な喜屋武汀である。
 梢子は来賓のありがたい説話を聞き流しながら、深い溜め息をついた。
「……私も、たいがい悪趣味だわ」
 熱烈な告白に、汀がくつくつと笑った。
「じゃ、『これからよろしく』?」
「まだ早いわよ」
 そうだ、問題はなにも解決していない。
 していないのだけれど。
「もう少ししたら、ちゃんと言えると思う」
「ふぅん」
「だから」
 まずは当面の問題の解決に乗り出す。
「携帯電話の番号、教えなさい」 



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