しゅうげんのゆめ


「こちらもようやく涼しくなってきたな」
 風に当てられながらコハクが言う。
 両腕を逆の袖に通した姿勢で立つ青年が「ふむ」というように頷いた。
「北の地に比べれば、まだまだ暑気は強いですが」
「それでも風が出るだけ良いだろうさ」
 海風がじかに入り込んでくる。湿った、生ぬるさのある風だったが、ないよりは良い。
 風に乾いたか、コハクは左の異瞳を一度閉じた。
 この地から争乱は遠く、伝わってくる兄の情勢もここしばらくは静かだ。いずれ争乱へ身を投じる必要は出てくるだろうが、今は少しだけ、休まっていた。
「そういえば、オヤスはどうした?」
「さて、暑気に当てられて眠っているか、女御とおられるのか」
「無用心だな、従兄殿。不埒者にかどかわされていたらどうする」
「その時は私が腹を切りましょう」
 にこやかに青年は答える。己の家によほど自信があるか、あるいはコハクを、彼女の能力を信頼しているかだろう。
 コハクとしてもそういったことが起きていないと判っているから、先ほどの脅し文句はあくまで脅し、牙を剥いて笑っただけだ。
 折りよく、とたとたと可愛らしい足音を響かせて、少女というにもまだ幼い、小さな姫御が二人へと駆け寄ってきた。コハクは振り向いて牙をしまい、青年は袖から腕を抜いて微笑んだ。
「九郎様、九郎様」
「どうしたオヤス、なにか良いことでもあったか」
 コハクがそう尋ねるのも当然で、安姫は満面の笑みを浮かべていた。
 さて菓子でももらったか、とコハクが待ち構えると、小さな姫は体躯の変わらぬ白皙へ飛びついて、
「九郎様、オヤスは九郎様と祝言を挙げとうございます」
 コハクが噴出した。そのまま激しく咳き込む。
「九郎様?」安姫はきょとんとしながら、コハクの背中をさすった。
 青年は腹を抱えて大笑している。
「はっはっは! これは良い。三日夜の餅を用意させておかなければ」
「従兄殿! 馬鹿を言うな!」
「いや、お似合いではありませぬか。私では少々、姫様には大きすぎますからね」
 そうして並んでいると、まるで女雛と男雛のようだ、と青年はさらにコハクをからかう。
 「それくらいにしておけよ、従兄殿……!」牙どころか虎瞳まで剥いたコハクが肩をわななかせた。
 コハクの剣幕に、安姫が不安そうな表情を浮かべた。
 なにか不興を買ってしまったのか、という表情だった。その顔がまたコハクに苦々しい思いを抱かせて、さらに安姫の不安を煽る。
「九郎様、お嫌ですか?」
「……嫌も良いもない。そのようなこと、できるはずがないではないか」
「けれど、侍女の方々は、九郎様ならきっと夫になってくれると……。
こちらには側付のおのこはおりませんし」
「む……む?」
 そこでようやく、コハクは己の勘違いに気づく。
「あ、ああ、遊びごとか……。それならそうと先に言えば良いだろうに」
 気恥ずかしさもあって思わず憎まれ口を叩くコハク。
 青年はまだ笑いが治まらないようで、くつくつと喉を震わせている。
 こやつ、わかっていてやったな、とコハクが奥歯を噛み締めた。「大きすぎる」という言葉の意味も、なるほど夫婦役としては釣り合いが取れないから、確かにその通りだ。
 んん、と咳払いをして平静を装い、安姫に向き合う。
「わしはそのような児戯に付き合うほど暇ではない」
「……お忙しいのですか?」
「まあ、そうだな。戦の情勢も調べねばならんし、我が兄上に助力する準備もせねばならんからな」
「そうですか……」
 しょんぼりと頭を垂れる姿に、少々後ろめたさを覚えるコハクだった。
 本当は言うほど時間に追われてはいないのだ。断ったのは単純に照れ臭かったからである。見た目がどうあれ、内面は既に成熟している。
「適当な側仕えに頼めば良いであろう?」
「けれど、わたしは九郎様が良いのです」
 暑気のせいか、安姫の頬が淡く色づいている。出逢った時の男なりを不意に思い出し、これでごまかせていたものか、とコハクは心中で呆れ混じりに呟く。
 あの時は、ごまかせていたのかもしれないけれど。
 今は、もう無理だろう。
「しかしだな、わしは……」
 「では」コハクの言い訳を遮るように、青年が口を挟んでくる。
「私が世の流れを調べておきましょう。なに、こちらはコハク殿でなくとも良いのだし、頼ってくれていいのですよ」
「……従兄殿……従兄殿……!」
 押し付けがましい親切に、コハクが唸り声に似た口調で青年を呼んだ。彼は確実に面白がっている。
「ほんの半刻ばかり、付き合って差し上げたら良いでしょう」
「九郎様……」
「……ええい、どいつもこいつも……!」
 こちらは一人、あちらは二人。圧倒的に分が悪い。
 刀を持てば話は別だが、そういうわけにもいかない二人だ。
 コハクは金の瞳を閉じると、ふいと顔を二人から背けた。
「仕方あるまい」
 コハクの了承を受けて、安姫の顔が輝く。
「では九郎様、こちらへ」
「ああ、そう急ぐこともあるまい。待て手を引っ張るな。別に逃げはせん」
 とたんとたん、先ほどより嬉しそうな足音と、身軽さ故かまったくの無音。
 そんな違いを出しながら去っていく二人の姿を目で追って、青年は口元を緩めた。
 
 
 
 ほんの半刻と彼は言ったが、実際のところ、そんな時間では収まらなかった。
 かといって一刻で済んだわけでもない。日が沈み、夕餉を済ませて、それでもまだ続いていた。
 コハクは正直、もうどうでもよくなっていた。
 
「九郎様、めおとは、しとねを共にするものだそうですよ」
「判ったわかっ……なに?」
 しかしこれはさすがに予想外。てっきり、眠る頃には終えていると思っていたのだが。どうやら夫婦遊びは翌朝まで続くようだ。
 その先も続くようなら逃げようと、コハクはこっそり決意する。
 
 侍女に枕を並べてもらい、二人揃って横たわる。
 周囲は本当に子ども遊びとしか捉えていないから、こちらを見る目は和やかなものだ。それが少々不満なコハクである。戦の地では、天狗だ鬼だと恐れられているというのに。
「夜が明けたら、わしはおぬしの夫を抜けるぞ。従兄殿に任せきりにしておくわけにもいかん」
「はい」
 さして不服な様子も見せず、安姫はあっさり頷いた。
 拍子抜けはしたが、やはり彼女も最初から今日だけの遊びというつもりだったのだろうと、コハクはささやかに安心する。
 コハクの髪を、安姫の手が掬った。夜の薄闇にその白が際立つ。
「綺麗な髪」
「……ふん。養父を思い出させて、わしはあまり好いておらんがな」
「わたしは好きです。月の光を固めて梳いたような、白い髪。それに、九郎様の左目も」
 そっと、指先が下まぶたをなぞって、金色を縁取る。
「お月さまに、似ていますね」
「月には生がない。……わしには、確かに似合いかもしれんな」
 自ら光を発することなく、営みがあるわけでもなく、ただそこにあるというだけの。
 それは人の営みから外れた己に似ているかもしれない。
 さらさらと、安姫の指の間から、月光がこぼれる。
 その光に包まれたいのだとでも言いたげに、彼女はコハクへ寄り添った。
 コハクは拒まずにいた。
 夫婦の真似事をしているから、夫が妻を拒むわけにはいくまいと、好きにさせた。
「お願いを、しても良いでしょうか」
「なんだ、言ってみよ」
 コハクの月がわずかに大きくなった。
 胸元へ丸まっている小さ姫は、寝息のように願いを届けた。
「……世が明けたら、わたしのもとへ、来てくれませんか?」
 それは可愛らしくて切実な願いだった。
 世はいつまでも夜のままで、いつ明けるとも知れない。
 コハクはもちろん、安姫だって、いつその夜に取り込まれるとも知れない。
 願えばいつか叶うと、そんな楽観などできない願いだった。
「……そうだな」
 けれどコハクはそう答える。
「いずれ世も明けよう。その時は……おぬしがわしを覚えていたら、迎えにいってやっても良い」
「九郎様はわたしを忘れてしまうのですか?」
「さて、どうだろうな。忘れずとも、その頃にはおぬしを見ても判らぬかもしれん。
人ならざる身のわしと違って、おぬしの身は育つであろう?」
 冗談のつもりでコハクは言ったのだった。
 きっと彼女なれば、どのような姿になっても見つけられるだろうと、根拠もなくそんな自信を持っていた。左目にそんな力はないけれど、異形の力に頼らずとも、彼女が彼女であると判断できると思っていた。
 安姫の表情がかすかに強張ったが、夜の闇にコハクはそれを見逃した。
「では、わたしも九郎様と同じになります。
ざんの肉を食べれば、人の身でも不老を得られると聞きました。
それなら、九郎様もわたしを見分けられるでしょう?」
「ああ、やめておけ、やめておけ。人の世に人ならざるものが紛れようとすれば、色々と面倒なことになる。
たとえおぬしを見つけられずとも、おぬしの血を継ぐものになら、いつか出逢えるだろうよ」
 安姫は口をつぐんで、それきり何も言わなかった。
 コハクもそろそろ眠気が勝ってきたので、会話はそこで途切れた。
 
月は闇に隠れる。
 
「それでも、わたしはあなたといきたいのです」
 
どこか遠くで、誰かの声がした。
 
 
 
 光線がまぶたを透かして入り込んでくる。コハクは顔をしかめながら目を開けた。
「ああ、おはようございます、コハクさん」
 落ち着きのある、低くも高くもない声。懐かしさを感じた。そんなものを感じるほど久しぶりの声でもないのに。
「うむ……。夜が明けたか」
「明けも明けて、もうお昼ですよ。いくらなんでも寝すぎです」
 やれやれ、というふうに彼女は肩をすくめる。その格好は近代的であるが日常的ではない、軍隊のような戦闘服。プロテクタを下につけているせいか、シルエットが少々厚い。
 アーミーブーツが下草を踏み分けて、樹の幹に寄りかかっているコハクへ近づく。
「食べますか? もうすぐ禍神の依代がある場所に着きますし、体力つけておいた方がいいですよ」
「いらぬ世話は無用だ」
 腰に提げていた小型のナイフを取り出し、自らの腕に当てようとした彼女をコハクが止めた。
 知りすぎているのも考え物だ。わりに自己犠牲の精神が強いからか、鬼に血を与えることに抵抗がなさすぎる。
 じゃあ、とナイフを戻した彼女は、手際よく野営の道具を片付けて、まとめた荷物を背負った。
「随分と慣れたな」
「そりゃあ、それなりに経験してきましたし」
 彼女の腰にはナイフのほかに、コハクが提げるのと同じ日本刀。無銘だが物は良い。
 使い始めた当初はその重さに苦労していたようだが、コハクが教えてやると水を吸い込むように上達していった。今ではもう、剣に関してはそれなりの評価を得ている。
 党首にも覚えが良い。気が合うというより、何かの波長が合うような感じだった。
 どちらも「なんとなく懐かしい」と相手を評していたから、どこかに何かの縁があるのかもしれない。
 少し歩けば、もう人の通る道がある。二人とも身体にはりついた木の葉を払い落として、目的地を目指して進み始めた。
「コハクさんが寝てる間に、先行してた汀から連絡がありました」
「ほう。で?」
 彼女が要領よく状況を説明する。冷静さは彼女の長所だ。
 それと同程度に、他人の危機に対して熱くなりやすい欠点も持っているけれど。
 一通り説明を受けたコハクは思案を始める。遠い昔、二人で一人だった頃、策謀は己の担当ではなかったが、特別苦手というわけでもない。
「では、一度汀と合流するか」
「はい」
 「それにしても、だ」コハクが彼女へ向けて言う。彼女は視線をこちらに向けた。
「誘っておいてなんだが、おぬしが受けるとは思わなんだな」
「……なんか無責任なことを言われたような……」
「能力は認めていたが、気質がな。そういったことを好まぬように思えたが」
「そうですね……。それは、そうなんですけど」
 彼女は少し迷ったのか、視線を中空に浮かべて、ある種の虚脱を含んだ微笑をした。
「コハクさんといきたかった。それが理由かもしれません」
「……ふん」
 そのにおい立つ告白は、どこか懐かしかった。
「それに、コハクさんの寝顔も見られますし」
「なんだ、わしの寝姿に見惚れておったのか?」
「いえ別にそういうわけじゃ」
 彼女がブンブン首を振った。「なんだか幸せそうな寝顔だったから、つい」言い訳にならない言い訳だった。
「初めて会った時も、椿の精かと思うくらい、綺麗でしたけど」
「まだ言うか。……しかし、椿と『ば』の字が入っているのが気に入らん。馬瓏琉のばと同じではないか」
「じゃあ、ばを抜いて月の精にしておきます?」
「そちらの方が幾分か良いな」
 ニヤリと牙を見せながら笑うと、彼女も笑った。彼女は存外ロマンチストなのである。
「左目が月みたいだから、そっちの方がいいかもしれませんね」
「夢でもそのようなことを言われたな」
「夢を見てたんですか? 良い夢でした?」
「そうだな……。ああ、良い夢だった」
 両目を細めて、小さく頷く。
 夜明けを待っていた頃の、一握りの平穏。
 あそこにいた誰もが、今はもういない。
 けれど、今は彼女がいる。
 これからも、きっといるだろう。
 
――――のう、オヤスよ。
 
 一人、心の中で語りかける。
 
――――わしはいつかおぬしを見つけられるか? 夢ではなく、あの頃のように安寧をおぬしと共に過ごす日が、わしに訪れるのか?
 
――――おぬしは……今もわしを求めておるのか?
 
「コハクさん? どうしたんです?」
「む。いや……どうもせん」
「ならいいですけど。コハクさんがいてくれないと困るんですから、あまりボーっとしてないでください」
「生意気を言いおるな。なに、夢がわずかに残っておっただけよ」
 コハクは左目を閉じた。
 世は明けて、酔いを誘う宵の夢は閉じ込められた。
「しかし、夢はもう終わりだ。往くぞ」
「はい、コハクさん」
 コハクは音もなく、彼女は力強い足音を立てて、野を駆ける。
「毎回言ってますけど、危なくなったら逃げてくださいね」
「毎度言っておるが、おぬしを誘ったのはわしだ。面倒は最後まで見てやる」
 
 記憶が苦味となって、コハクの左目を痺れさせる。
 また会えるとも、もう会えぬとも判らない別れだった。
 あの別れを繰り返したくはない。
 
 左目の甘味と苦味が混じり合う。
 
 閉じた月に残るのは、今はもうない、切ないばかりの愁幻の夢。



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