うつつのしや
気まぐれと言ってよかった。
機嫌が良かったのだ。
台座に横たわる小さな白を見つけたとき、怨敵を切り伏せた刃はすでに血振りを済ませていた。また拭うのも面倒だし、なにより《剣》の嫌な鳴動が伝わってきて、コハクはそちらへ急ぐ必要に迫られた。
「オニワカ」
ひとつ呼んだその先で、巨大な式がコハクの意思を読み取り、彼の手のひらよりまだ小さい白をそっとすくって、傾けた。
白は水に流れる。コハクはそれを一瞥すると、刀の峰で肩を叩きながら消えた白へ手向けの言葉を送った。
「運が良ければ助かろう。助かったところで、あやつに作り変えられたその身では、人の幸福など望めまいが」
くく、とコハクは駆けながら小さく笑う。
同じ境遇にあるらしい彼女への同情はなかった。
自嘲は、多少あったかもしれない。
樹の枝に腰かけた姿勢で、コハクは両目を閉じている。
先ほどまで感じ取れていた気配が消えた。禍々しさそのものな、嫌悪しか覚えない気配、《剣》の力がコハクの感知能力の外へ出た。
まさかあの小娘二人が《剣》をどうにかできたとも思えない。力をほんのいっとき借りることができただけでも奇跡的だというのに、封印など夢のまた夢だ。
となれば可能性はひとつ。護り手を自認しているだけあってコハクと《剣》のえにしは深い。その彼女が感じ取れなくなったというのなら、行き先は他になかった。
「《門》へ堕ちたか。……ならば、わしの役目もこれまでということだな」
今後一切、《剣》は誰の手にも渡らない。鍵が内側に入り込んでしまったなら、外側から開ける術はなくなったと言って良い。もうひとつの方法は己が潰しておいた。
「ふむ……」護るべきものを失った護り手は、小さく唸って右目を開ける。
今までのように眠ってしまえば良いのだろうか。今までと違い、それから目覚めることはないだろう。己を目覚めさせる不快な手は消えてしまった。
死ぬか。薄ぼんやりと考える。
《門》の封印を護るためだけに生きていた身なのだから、それが破られなくなった今、存在意義はなにもない。遠い昔の兄と同じように、自らの刃で果ててみようかと、コハクは冗談半分に思考した。つまり、半分は本気で。
低い低い唸りが響いて、呼んでもいないのにオニワカが姿を現した。式といえども己が御しているのは彼の半分、残りは独立していると言って差し支えない。だからその事象それ自体には驚かなかったが、彼が現れた理由には、少々わずらわしさを覚えた。
軽く眉をゆがめて巨体へ目をやる。
「真に受けるな。厭世はいやというほど味わっておるが、我が兄ほどは絶望しておらん」
再度、オニワカが低く喉を揺らした。式のくせに主を咎める。コハクはそれに不快を覚えない。
「言葉数はないくせにうるさいやつだ」枝から飛び降り、そのままオニワカの肩へ着地。南へと目を向けて足を鳴らした。
「守天の若造に顔見せをしておくか。その先は、追々考えてみるとしよう」
とにかく何か用事を見つけないとオニワカが納得しそうになかったので、時間稼ぎにそう告げる。
オニワカが南へゆっくり足を踏み出した。
盤座で騒いだりじゃれたりしていたあの二人は助かったらしい。当人から連絡があったと、守天の党首、守天正武に告げられ、礼を言われたがコハクは特になんとも思わなかった。あの二人が生きていようが死んでいようが、己にはどうでも良いことだ。
告げられたのはそれだけではなかった。こちらの方が驚きはあったかもしれない。感心と言った方が近いか。
「見た目からして、コハクさんと無関係ではないと思いましてね」正武は他意なく言ったのだろうが、わずかばかり無神経な言葉だった。
「瓏琉が関わっておるのだから、わしに尻拭いをしろということか?」
彼はコハクの口調が変化したことを敏感に察知し、精悍な表情を引き締めた。
「滅相もない。失礼、浅慮でした」
「ふん、まあよい。それで、そやつはどうしておるのだ? 瀕死か、それとも二目と見られぬ姿にでもなっておったか? まさか無傷で生きてはいまい」
「それが、そのまさかです」
コハクの眉がピクリと上がった。鬼の回復力は甚大だが無条件ではない。どこぞに流れ着いた先で人の三、四人でも襲ったか。しかし、それにしては目の前にいる青年の態度が不自然である。もし犠牲者が出ているのなら、彼は鬼を切らずに保護などしないだろう。
疑問の答えは彼自身が問われる前に答えてくれた。
「この近辺で鬼に襲われた形跡のある人間は出ていません。なんとも信じられん話ですが、アレは本当にまったくの無傷で海を漂い続けたと考えられる」
「……卯奈咲からここまで、傷ひとつ負わず、死にもせずここまで流されたというか。この阿呆が、おぬしそれでも守天党の党首か。もっと世のことわりを考慮せぬか」
呆れを隠そうともせずに言うと、正武は弱り顔で肩をすくめた。
「俺に噛み付かれても困ります。よほどの強運の持ち主なのか、何かの加護が働いているのか。とにかく、我々としても扱いを決めかねているところでして」
流れ着いたのは、コハクが来訪する二日前だった。それからずっと目覚めず、人へ仇なしたという確信もないそれの寝首をかくのも躊躇して、結局、ずっと寝かせている。
コハクならどうにかしてくれる、と信じているわけでもない、とにかく何か動くためのきっかけが欲しいのだ。その方向はどちらでも良い。切るにしても切らぬにしても、何もしないよりはマシだ。
諦念ばかりの嘆息をして、コハクが立ち上がった。
「とにかく見せてみよ。瓏琉の尻など拭ってやるつもりはないが、丁度良い暇つぶしだ」
寝ているよりは身のある行動だ、と自分に言い聞かせながらコハクは彼を促した。
離れの一室に通されたコハクは、つまらなそうに、眠っているそれを眺める。確かに傷はない。といっても、首から下は布団に隠れているから見えないけれど、そんなことで正武が嘘をつくとも思えない。
ずんずん進んで吠丸の先で布団をめくった。乱暴である。正武が軽く眉を寄せたが、彼はコハクの背後にいるため見咎められはしなかった。
「わしと同じ白髪白皙か。なるほど、わしが呼ばれるのも道理だな。
しかし、馬瓏琉のやつめ、わしより巧く作っておるではないか。わしとこやつの間に、どれだけ作り変えた」
奥歯に力が入ったが、今更そんなことを言っても仕方がない。それに、もう終わった。眼下の白の次の白はない。
む、とコハクはかすかに目を細めた。白にばかり目が行っていたものの、それを通り過ぎて、色のない影を視れば、どこか追憶を呼び起こすような、慕わしげな気配が、あるような、ないような……。
おぼろげな気配は今にも消えそうで、中途半端なそれを疎んじたコハクは傍らに座り込むと、白皙を軽く叩いて覚醒を促した。
「おい、おぬし。いつまで眠っておる。眠っておってはわしの暇つぶしにならん。さっさと起きろ」
ぺしぺし叩いていると、溜め息交じりに正武が声をかけてきた。
「コハクさん、あまり乱暴にしては」
「うん? 鬼切りが鬼をかばうか?」
「……あなたも鬼でしょう。それと同じことです」
いかめしくコハクを諌めてくるその声。逆鱗に触れるとまではいかないが、神経を逆撫でされる程度の不愉快は覚えた。
言い返されたコハクは不機嫌に顔をしかめて、身体ごと彼に向き直った。
「若造がわしに指図するつもりか。眠っておれば虎瞳は用を成さんが、おぬしにならそうもいくまいぞ」
「っ、コハ……」
コハクが左目を見開いた。金の妖瞳があらわになる。正武は身構えも気構えも間に合わず、まともに瞳の力を受けた。ぐ、と小さなうめきを最後に、その場で硬直する。「阿呆が」不動の巨躯を横睨みにしながら身体を戻すと、蒼と交わった。
まっすぐに見つめてくる瞳を、コハクは面白そうに見返す。左目は閉じた。
「なんだ、目覚めておるではないか」
「……、…………」
「口が利けぬのか。音は知っておるようだな。ならばそのまま口を動かせ、読唇くらいはわけもない」
コハクが少女の唇を注視して、その動きで言葉を読んだ。
あなたは。
「わしか。わしはコハク。おぬしと同じように、この身を作り変えられた鬼よ」
コハク。ひだりめのいろですね。
「ほう、よく気づいたな。その昔、我が兄がわしをそう呼んだ。それ以来、自分でもそう名乗るようにしておる。他の呼び名もあるにはあったが、呼ばれたくない名と、もう呼ぶものがおらん名だ。おぬしもコハクでよい」
なにを思ったのか、少女はわずかに、ほんのわずかに、睫毛を伏せた。
コハクさま。そう、およびするのがよいのですね。では、わたしのことはナミと。
不意にドンと床が鳴った。正武が倒れこんだ音だった。コハクはそちらに目を向けて意地の悪い笑みを浮かべてみせる。
「おお、もう解けたか。早かったな、腐っても党首か」
「こ、コハクさん、いくらなんでもこれは……」
「気にするな。ほんの戯れだ。それより見よ、こやつが目覚めたぞ」
のろのろとだるそうに身体を起こした正武は、己を見やる大きな瞳を見つけて、口元をほころばせた。
「ナミというそうだ」
「ナミ……波か。なるほど、名は最も強い言霊だからな。海と相性が良かったせいで助かったのかもしれませんな」
横たわるナミの頭を優しく撫でると、彼女はくすぐったそうに目を細めた。
美しくか弱いものに擬態するのは鬼の常套手段だが、彼女はそういったたぐいではないと正武の浄眼は視る。カテゴリに入れるなら確かに鬼となるのだろう。しかし彼女の本質はもっと別な、むしろ神聖なものと思えた。
ほのかな恥じらいの表情に正武は温和な笑みを浮かべる。幼子の表情とは思えなかった。おそらくコハクと同じように、外見と生きた年月が合っていないのだろう。
「お前さん、これからどうしたい? 行く場所があるなら送る。ないのであれば、ここを出る場合は見送る、留まりたいならそうするといい」
わたしは。ナミが遠慮がちに唇を動かした。
このみのゆくばしょはあるのでしょうが……。
わたしは、いましばらく、こちらにとどまりたいと、そうねがっています。
少し不思議な返答だったので、コハクと正武は顔を見合わせた。帰る場所があるのに帰りたくないということだろうか。プチ家出?
戸惑い、頭を掻きながら正武は小さく首を傾ける。
「まあ、俺としちゃあ、それでもかまわんがね」
コハクさまは、どうされるのですか?
「わしか? さて、どうするとも決めておらんのが正直なところだ。
誰が待つわけでもない永の眠りについても良いが、少々退屈にすぎるしな」
それなら、こちらでひとよをすごされてはいかがですか?
言われてコハクは思案顔になる。
寿命を持たない己にとって、人世は一夜と等しい。夢を見るか現を視るか、どちらが退屈か考えれば、おのずと答えは導き出された。
「そうだな。ほんの間、守天の世話になるのも悪くはない」
「そいつは、こちらとしては願ったり叶ったりですね」
「まだ働かせるつもりか?」
「働かざるもの食うべからずってのは、俺が党の連中にいつも言っていることでしてね」
ニヤリと笑う正武に「狸が」と憎まれ口を叩いてから、
「では、食客とならせてもらう。なに、おぬしの言う通り、食った分は働いてやる」
けれんみなく宣するコハクだった。
不思議なことに、あの後もう一度眠りについたナミは、目覚めると違っていた。
正武が見出した成熟の表情はどこかへ消え去り、幼子の、本当に単純な喜怒哀楽をほのかに浮かべるだけになっていた。
言葉も同様だった。もう唇の動きは音を形作ることはなかった。風車に息を吹きかけるのと同じ意味合いの呼気ばかりが、その口からは出された。理由はあるのだろうがそれ自体が結果とはならない。風車がなければ、その吐息は何にも影響しないのだった。
コハクはそんな彼女と二人、守天党が管理する森の社へこもった。食客なのだから本屋敷にいれば良いでしょう、という正武の誘いを断ったのは、人の多さから来るわずらわしさを忌避したせいと、ナミを人の中に置いておくことに、そこはかとない不穏を覚えたからだった。不満でも不安でもなく不穏である。もちろん嫉妬だとか独占欲だとかではない。コハク自身、なぜそんなものを覚えたのか、理由は判然としなかった。
盤座で騒いだりじゃれたりしていた二人の一方、鬼切りの方とは何度か顔を合わせた。偶然にも(卯奈咲へ行っていたのだから、当然ながら、かもしれない)彼女はナミを知っていた。預かっていると知った彼女は驚いたようだが、特に何かアクションを起こしたという話は聞いていない。来年の夏くらいに、土産話にはするかもしれませんけど、とよく判らないことは言っていた。
時折守天党から連絡を受けて鬼退治の手助けをする以外、日々はなべて平穏だった。
目的は未だ見出せていない。
「おい、飯だ。さっさとそれをしまえ」
手慰みに与えたお手玉に苦戦するナミへ、届けられた食事を運びながら声をかける。彼女はボトボトと落ちるお手玉に悲しそうな顔をしていたが、食事を見つけると途端に笑んで赤い玉をまとめて部屋の隅へ押しやった。
守天党の者が届けてくれた食事は一人分である。コハクの分はない。代わりに人差し指大の小瓶がその手にあった。本来であればナミもこちらを得るべきだと思うのだが、どういうわけかあんな効率の悪い補給方法を選んでいる。
小瓶の中身、紅いばかりの液体を一気に嚥下したコハクは、ナミの正面へ腰をおろすと、その食事風景を見るともなく眺めた。綺麗な所作だ。それだけは幼さが見えない。当初はそのあまりにも幼い風情から、もしやかいがいしく食事の世話などしてやらなければならないのかとうんざりしたコハクだったが、その心配だけは杞憂だったので少し安心した。
「わしなどはもう、食には飽き飽きしておるがな。おぬしはまだ、そうそう生きておらんか。
――――美味いか?」
「…………? ……」
魚の切り身を一切れつまみ、差し出してくるナミである。「いらんいらん、おぬしが食え」眼前の箸をけむたがると、彼女はわずかに首を傾げて、自らの口を開けて見せた。食えということらしい。この幼さだ、誰かが面白がってそんなことを教えたか、ただ単に面倒を見る過程でそんなことをしたのだろう。
ナミは箸を引かない。つまりコハクが引かなければならないということだ。煩悶の末、コハクは獣じみた動きで箸に噛み付き、その先にあった切り身を奪い取った。ナミが満足そうに笑う。
「たわけ。もう二度とこのような戯れをわしに仕掛けるな」
咀嚼しながら苦々しく言う。味など判らない。感じてはいるのだろうが、それについて何かを思う、感想を抱くことができない。
目の前の白皙も、いずれこうなるのだろう。生き物の肉ではなく、血にしか味を感じられなくなる日が、いつか訪れるのだろう。
それまで、せいぜい人の真似事をしていたら良い。
ナミが食事を終えれば、もう後は消閑に努めるしかない。コハクは剣の鍛錬でもするかと、吠丸を手に表へ出た。ここには天狗も兄もいないし、ナミには期待するべくもないが、オニワカはいるから相手には困らない。
コハクの後ろをついてきたナミは少し離れた場所へ座り込み、コハクとオニワカの打ち合う様を眺めている。面白いのだろうかといつも不思議に思った。楽しそうでもつまらなそうでもない。ただ無表情にこちらを眺めているだけだ。
鞘に収めたままの吠丸を下ろした。ナミへ顔を向ける。視線に気づいた彼女が応えるように呼気を放った。
「退屈であれば、守天から人を呼ぶが。汀はどうだ? おぬしも見知っておるだろう」
しかし彼女は首を横に振った。好意を無碍にされたことに立腹するでもなく、コハクは「そうか」と短く応じて頷く。きっと断られるのだと思っていた。
「剣術に興味があるか? どれ、一度振ってみよ」
吠丸を揺すって鳴らす。立ち上がったナミがとことこ側寄って、コハクから受け取ったそれを両手で持ち上げた。
とすんと鞘の先端が地面へ打ち付けられる。振り下ろしたのではなかった。重さに耐え切れず落ちたのだ。
コハクが眉を段違いにしながら笑った。
「まあ、そうであろうな。鬼とはいえ、おぬしの膂力は人と大して変わらんようだ。竹光ならともかく、真剣ではそうそう扱えまい。やっとうには向かんよ」
ナミは、体格の変わらないコハクにできて己にできないのが不思議なようだった。蒼い双眸に不可解の色を浮かべて、地面に立てた吠丸を凝視している。再度持ち上げようとしたがコハクがそれを横からもぎ取った。
「鯉口は縛めてあるから抜けはせんが、どこぞにぶつければ痣くらいはできるぞ」
「………………?」
「わしはそのような不手際はせん。何百年こやつを振るってきたと思っておる」
すでに、言葉はなくてもなんとなく意思の疎通ができている二人である。
ほんの戯れが、コハクが常に放っている毒気をすっかり抜いて、彼女はたるんだ表情で吠丸を腰へ戻した。
「興を殺がれたな。稽古はこの程度にしておくか。オニワカ、戻れ」
片膝を折った姿勢で控えていたオニワカが景色に紛れ、完全に消えた。
ナミがきびすを返して歩き始めた。どこへ行く、と尋ねもせずにコハクはそれに続く。もう何度も繰り返した行動だ。いい加減慣れた。
たどり着いたのは社の更に奥、二人の足跡が作った小道の終着点、一本の樹の根元だった。
「おぬし、ここがよほど気に入りと見えるな」
やや呆れ気味に言う。その樹には花がなかった。少し前にすべて落ちてしまって、葉も色を失くしかけている。ここへ来たばかりの頃は、まだ鮮明な紅い花がいくつもついていたのだが。
「卯奈咲の森であれば常咲きの一本があるが、これはそのようなものではない。翌年を待たねば花はつけぬ」
「…………、……」
ささめく笑みで、ナミはコハクを見つめ、それから樹の幹へ手のひらと頬をつけた。
「……まあ良い」
コハクは彼女の隣へ座り込んで、幹に背中を預けると目を閉じた。おりしも午後二時、昼寝時である。汀あたりがいれば「お子様はお昼寝の時間ですよー」とか軽口を叩いてコハクに叱られたかもしれない。幸い、ナミが断ったおかげで今ここには二人だけである。
彼女も左隣に並んで腰を落ち着けると、コハクの真似なのか両目をつむった。
しばらくのち、コハクは目を開けないままで、小さく問うた。
「ナミ、おぬしは椿が好きか?」
風に紛れそうな吐息。
「……そうか」
いつの間にかコハクは、言葉を介することなく、ナミの意思を解するようになっていた。
白日の眠りは心地良かった。
コハクとナミ、姓のない、生しかない二人は、人の世でしばしの昼を味わった。
ナミの手に掲げられた花冠がコハクの頭上へ乗せられた。
避けるかどうか迷っているうちに乗せられてしまった可愛らしい冠に渋面を作りつつ、コハクが満足そうなナミへ視線を向ける。
「よさぬか。このようなもの、わしには似合わん」
コハクはそっと己の頭部へ手をやると、乗せられたそれを取り上げてナミの頭へ移した。
「見よ。おぬしの方がよほど似合うではないか」
ふにゃりと、花のように彼女が笑った。
「〜〜〜〜っ」
「どうした? ああ、熱かったのか。しようのないやつだな……」
熱々の汁物に舌を直撃され、涙目で口を押さえるナミに瞠然としたコハクは、すぐに事情を悟って呆れた。
「見せてみよ。……ふむ、少々火傷しておるな。そのまま開けておれ」
赤みを増した舌の平へ、自身の舌先を当ててやる。これくらい、血の一滴でも口にしていればすぐに治るだろうにと、苛立ちに似た感情を覚えた。
舌を引けば、ナミの火傷は跡形もなく消えている。
すすり泣く音が聴こえた。(声は無い。当然ながら)
どこぞへ出歩いていたナミが、しゃくりあげながら木々の隙間を抜け出でてくる。コハクは彼女の両腕に抱えられたものを見た。それは小さな生き物だった。だった、というのは過去形の意味だ。
「子兎か。傷はないようだな。悪いものでも食ったのであろう」
肉食動物に襲われたにしては五体満足なそれの口元には、わずかに吐瀉物と見られる汚れがあった。
「死んだ兎を見て泣くか。……おぬしにとって、未だ『者』は『物』ではないのだな」
憐れみのような、羨望のような感傷を覚えた。
コハクが懐から護符を取り出して、椿の樹の根元へ放った。それは地面へ着いたと同時に小さく爆ぜた。衝撃で地面に穴が空く。
「…………、……」
「弔ってやるがよかろう。
わしは、そのような『物』のために、土いじりをする気にはならんがな」
ナミは理解できない表情でコハクに見入っていたが、目線と首の動きで促すと、両腕に抱えていた子兎をそっと穴へ横たわらせた。
土をかぶせているナミを見ながら、もしもあの子兎を鬼として甦らせたら彼女は喜ぶのだろうかと、そんな益体もないことを考えた。
コハクの左隣にはナミの姿。危なげなく森を散策するコハクとは対照的に、彼女は時折、突き出た樹の根に足を取られかけていた。
そのたびに気配を読んで支えてやらなければならない。さすがに嫌気が差す。
「おい、なぜいつもそちら側を歩く? いちいち気配を読むのが面倒だ。こちら側におれ。吠丸を抜く時も邪魔になるであろう」
言ってもナミは聞かない。
「もしやおぬし、わしの左目の代わりでも果たしているつもりか?」
そう問うと、どこか自慢げな笑顔が返事として届いた。
やれやれ、とコハクは嘆息する。左目を閉じているせいで狭い視界は、とうの昔に慣れていて特に困ることもない。むしろナミがそちら側にいると、他の生き物の気配が隠れてしまってやりにくい。
まあ、ここら一帯は結界が張られているから人外の危険はほぼないし、動物程度ならナミがそこにいても問題にならない。
コハクは諦めて彼女をそのままにする。
ある日コハクは困っていた。
「いつもの呼び出しだ。食った分の働きはせねばならん」
コハクが纏う朱色の狩衣、その裾を掴む小さな手があった。こんなことは初めてだ。今までは素直に送り出していたのに。少しだけ驚いているコハクである。
そして、弱々しいその手を振り解けない己にも、驚いていた。
「…………」
「案ずるな。そこいらの鬼に後れを取るようなわしではない。明日には帰ってくるのだから、大人しく待っておれ」
「……、………………っ」
切実に、ナミの呼気はコハクへ訴える。
幼さがない。まただ。初めて意思を交わした時と同じ成熟がナミの表情に表れていた。けれど言葉は出ていない。どういうことなのだろう。
コハクは困惑しながらナミの手を取って狩衣から離させた。自分でも信じられないほど遠慮に満ちた力の込め方だった。
「ほんの一日よ。何も心配はない。聞き分けてくれ」
「…………。……」
掴んでいた手の力が抜けて、それを察したコハクが彼女の手を解放した。重力のまま落ちる手と、うなだれる首。納得していない。けれどこれ以上コハクを困らせたくもない。呼気すら操る必要もなく、ナミは己の意思をコハクへ伝える。
コハクの手が、今度はふわりとうねる彼女の髪を撫でた。
「……では、行ってくる。待っておれ。……待っていてくれ」
「………………」
結局ナミはコハクを留められず、最後、名残惜しそうにコハクの頬を包み込んだ。
ひどい後悔だった。まさかこんなことになるとは思いもよらなかった。歯軋りはやまない。
汀がコハクを止めようと必死に追いすがってくる。コハクはそれを一顧だにしない。
「コハクさん! いくらあんたでも、その傷で動くのは危険ですって!」
「黙れ。わしは帰らねばならん」
「ナミーにはこっちから伝えておきますから! だから、お願いだからこっちで療養を……」
足を止めないまま、延びてきた腕を払いのける。脇腹がずいぶん痛んだ。それ以外にも、痛みや麻痺がそこかしこから響いてくる。満身創痍だ。油断していた。馬瓏琉を切ったことが原因か。王より強ければ他に己を討てる者は無いと驕った。驕りは現実との差異を生み出した。慢心相違だ。
もう一人の白皙は、この状況を予見していたのだろうか。だからあんなにも、コハクを止めたのだろうか。
ならば己はそれを打ち破らなければならない。予見を現実にしてしまえば、あれはどれほど自分自身を責めるだろう。
そんなものは気の迷いだと、笑い飛ばしてやらねばならない。
「一日で帰るとわしは言った。いくさ場以外、わしは嘘偽りを言わぬ」
「だったら、ナミーをこっちに呼べばいいじゃないですか。そうすれば嘘にならない」
「それは帰るとは言わぬであろう」
屁理屈を述べるコハク。
違う。あれをここに連れてきたくないだけだ。人はあれを。
あれを……?
あれを、どうしたというのだろう。汀の話では行き会った誰からも可愛がられていたという。こちらでもそうなることは想像に難くない。
それなのに、なぜこんなにも、人を近づけたくないのだろう。
「コハクさん!」
「……うるさいやつだな」
コハクが目線を汀へ向けた。傷だらけの全身、そこだけがぎらつく右目。それから、左目。
「汀。わしの目を見よ」
「――――っ!」
異瞳の力を発揮すると、途端に汀の目から焦点が消えた。
棒立ちになった汀をそのままにコハクは家路を急ぐ。
早く家に帰らねば。
そう考えて、家、という単語に口元が笑んだ。
そんなものを得たのは八百年で初めてかもしれない。
待ちわびていたナミは一瞬たりとも嬉しそうな表情を見せてはくれなかった。
目が合う前から悲しそうで、目が合ってからも悲しそうで、コハクが笑っても悲しそうだった。
「…………、………………」
咎める気配はない。ただただ、悲しそうだった。
コハクは笑みをしまってナミと正対する。
「……すまぬ。しかし約束は果たした。それで赦してくれぬか」
「…………。………………、――――」
気丈を装って立ち続けるコハクの肩をそっと押さえ、ナミが座らせてくる。ここで意地を張っても仕方ない、コハクはそれに従った。
朱色に赤色が混じった狩衣の帯を解かれて肌を露出させられる。脇腹の創傷、爪傷だったが、それを見つけたナミが更に悲しそうな顔をする。コハクは眉間にしわを刻んだ。痛む。
「おぬしのせいではない。おぬしが悪いわけではないのだ。わしが油断しておっただけなのだから、そのような顔をせんでくれ……」
ひと呼吸のたびに傷と、他の何かが痛んだ。
傷は深い。正直、汀が手助けしてくれなければ胴を分断されていてもおかしくなかった。鬼の身だとはいえ、首を落とさなければ死なないほど強くはない。命を拾えたのは僥倖だったと言うしかない。
ナミの手が、そぅっと脇腹の傷に触れる。彼女が何をしようとしているのか察したコハクがそれを瞬時にとどめる。
「ナミ、よせ。これほどの傷、治すにはおぬしの力を使いすぎる。放っておけ。案ずるな、死にはせんよ」
手を掴んでやめさせると、彼女は一度顔を上げて、「…………」何かを告げてからコハクの腹部へ屈みこんだ。
ぴちゃりと、生温かいしめったものが傷口に触れた。コハクは思わず顔をしかめる。沁みたわけではなく、そのほんのりとした温かさ、それがなんであるか知っているせいだった。
「……よせと、言っておるだろうに」
すでに言葉は意味を持たず、口先だけのものとなっていた。癒されていく感覚。傷つき疲弊した身体は、それに抗えない。
その時コハクは己の失態を自覚していた。以前、こんなふうに彼女の火傷を癒してやったことがあった。それの真似事を彼女はしているつもりなのだ。子どもはすぐに真似をする。差し出された箸先と違って、これはどこの誰とも判らない誰かに悪態をつくわけにもいかない。子どもは事の大小を測れない。火傷を負った舌とえぐられた脇腹では程度が違う。これは明らかに失態だった。
それとも判っているのだろうか。
判っていてなお、コハクの傷をふさごうとしているのか。
コハクの右目はぎらつきを失って、左目はとうに閉じられていて、薄ぼんやりとした視線は何も映さず、だから腹部を這う感触だけがコハクが受けるすべてとなった。
ゆるりと、床に落ちるナミの白髪を指でくしけずる。
「おかしなものだな。ほんの少し前は、暇か死か二つに一つと思っておったが、今では死を厭うておる。
暇も……おぬしがいれば、そうそう退屈でもない」
仄かな温みが、脇腹をたどっている。ある種、屈辱的な感触だった。他の誰かであれば、同じ意味でも嫌がったかもしれない。
「儀式の贄とされかけていたのだから、おぬしは根方の連なりであろう? ならば、あの阿呆のたくらみを根絶やしにするべく、おぬしを切るべきであったと思うのだがな……。なぜ、あのような気まぐれを起こしてしまったのか」
戦において、気まぐれを起こしたことなどない。そんな揺らぎは敗北に直結している。いつだって情けはかけなかったし迷いもしなかった。
ナミを見つけた己が、それまでの己と違っていたとは思わない。連綿と続いてきた自分自身、その流れに乱れはなく、仏心など出してはいなかった。
それならば、原因はこちらにあるのではなく……。
「なぜだろうな。おぬしはどこか懐かしい。わしの知らんはずのおぬしを、すでに知っておるような、奇妙な感覚だ」
初めは馬瓏琉に作り変えられた者同士の共鳴みたいなものかと思っていたが、それにしては理屈の合わないことが多すぎる。あの忌まわしき陰陽師を源流とするには、彼女に覚えるものが慕わしすぎる。
もっとずっと遠く……彼女が生まれているはずもない時代から、彼女とのつながりが存在していたような、それこそ理屈に合わない感覚があった。
人にその身を預けることに抵抗を覚えたり、強いて小瓶の血を飲ませることをしなかったり。
どれもナミを基にしては理屈のないものばかりだ。今も判らない。これからも判らないだろう。
彼女の髪を撫で梳きながら、コハクは穏やかに言う。
「しかし、おぬしが何者であれ、あの時おぬしを切らずにいて良かったと、そう思っておる」
気まぐれで、暇つぶしのはずだった。
飽きたらまた独り、眠るか別の暇つぶしを探しに出ようかと思っていた。
ずっと孤独な白皙だった。人と交わることはあっても、並び歩くことはなかった。
コハクは孤白だった。
過去に一度だけ、そうではない時期があったけれど。
コハクにその名をつけてくれた存在。同じ連なりの我が兄と過ごしていた時期は、独りではなかった。弧白ではなかった。
「ああ……、おぬしもこの左目を、琥珀と言ってくれたな」
符合にコハクが小さく笑った。慕わしさはそのせいだろうか? 忌々しい陰陽師ではなく、己の兄を彼女に重ねてしまったから、彼女の存在を懐かしく感じるのだろうか。
いつしか痛みはずいぶん和らぎ、コハクはほう、と一つ息をついた。
「もうよい。これ以上力を使っては、今度はおぬしが危うくなろう」
「……、…………?」
「うむ、わしならもう心配いらん」
伏せていた顔の顎や頬に、刷毛で塗ったような赤が散っている。コハクが懐紙を使ってそれをぐいぐいと拭った。「〜〜〜〜」ナミは目を閉じて、うにぃっと唇を曲げながらそれを受けた。乱暴な手つきを嫌がっているわけではないようだ。目をつぶったのは単なる条件反射である。
幼い姉妹のように親しい仕草は、口元の血を拭うという行為からは随分とかけ離れたなごやかさで、けれどとても自然だった。
ぽふりと、コハクの膝にナミの頭が乗る。先ほどはああ言ったが、彼女にそれほど消耗の気配はない。コハクの血を得て相殺されたのかもしれない。その事実に心ひそやかな安堵を覚えるコハクだった。
甘えるばかりの白髪と白い頬を、同じく白い指先がたどった。
「椿だがな」
「…………?」
こちらへ向けられる目線を穏やかに受け止めつつコハクは言う。
「ここの椿はもう花をすべて散らしてしまったが、ここより北へ赴けば、まだ花が残っているかもしれんと、汀が言っておった。
……どうだ、わしと共に花見へ行かんか。椿探しに国を巡って、飽いたら帰ってくれば良い。その頃にはあの樹にも新たな花が結ばれていよう」
それは目的というには曖昧すぎたかもしれない。
旅というには軽々しすぎたかもしれない。
ただ椿を目指して道々往くだけの、終わりなどない、巡り巡るだけの行脚である。
それでも、彼女が椿を見たいのなら。
ただ眠って、時が来たら起きて、事が収束すればまた眠って。
そういう堂々巡りよりはまったく良い。
一人ぼっちの堂々巡りから、二人一緒の同道巡りへ。
コハクはそれを望んだ。
「おぬしがここでゆっくりと生を送りたいと言うのであれば、わしはそれでも一向に構わんのだがな」
「…………、……っ」
どういった心境でいるのか、ナミは感極まったような風情で、笑った。
首を横に振り、それから縦に。コハクが告げた直近の言葉を否定して、その前の言葉に頷いた。
「……そうか。ならば、行くとしよう」
ナミが身体を起こす。その目には無邪気。時折見せる成熟に心惹かれるコハクだが、この無邪気も嫌いではない。
傷はほとんどふさがっている。この調子なら、今晩にも発てるだろう。日の下では、自分たちの姿は目立ちすぎる。出るのは夜が良い。導となる光はなくても構わない。どうせ無目的な行脚なのだ。
守天党には伝えておいた方がいいだろうか。何も言わなくてもあの党首は気にしなさそうではある。なにせ、変事がなければ何百年と放っておくくらいなのだから。何かあれば勝手に動くか探しに来るだろう。
日暮れを過ぎ、夜更けを待って表に出る。月は雲に隠れていて、森の奥深くに光はない。
コハクは夜目が利くので苦労はないが、ナミはどうだろうかと不安になって首を回した。彼女は左隣へぴたりと添っていた。触れるほど近い。というか歩くたびに互いの着物が触れ合って衣擦れの音を立てている。
袖擦り合うも他生の縁、という慣用句はコハクの脳裏に浮かばなかった。
するするという小さな音を聞きながら、一度足を止める。
「おい、こちら側へ来い。闇間は気配が融けて読みにくいのだ。それに……」
自身が発しかけた言葉を、口に出す直前になって理解する。軽く呆然とした。
嘆息して小さく首を振った。「…………?」ナミが不思議そうな顔で見つめてくる。
コハクは無意識に憮然としていた。自分自身にだ。あまりにも女々しくて自分が情けなくなった。いくさ場で雄々しく刀を振るっていた己がなんだか遠くに感じられる。
「…………、……?」
言いかけた言葉が気になるのか、狩衣の裾を引っ張ってくる指先。それに諦めを覚えて、コハクは閉じていた口を開く。
「……そちらにいては、おぬしの姿が見えぬ」
片方だけ開いた瞳が見るのは現。
現の視野には、彼女が映っていてほしい。
ナミがわずかに首を傾げた。それから、とてとてと回り込んでコハクの右側へ移動する。白が舞う。コハクの右目ははっきりとそれを捉えた。
「それで良い」ぶっきらぼうに首肯すると彼女は嬉しそうに笑った。
「さて、どこまで行けば椿を見られるのだろうな」
「……。…………、………」
「そうだな。見つからぬのなら、どこまでも行けば良い話だ」
彼女の声無き声が、コハクの向かう道を決めた。
コハクは自分たちが追いかける椿のいくつかが、隣を歩く彼女に宿る誰かの手によって植えられたものだなどとは知らないし、無邪気な幼子も知らないだろうし、時折現れる彼女の成熟も告げはしないだろう。
彼女に覚える親しさの理由も、今後知ることはないのだろう。
理由は知らないが、彼女が見せる成熟に惹かれ、普段の無邪気も嫌いではないコハクだ。
付き従う式は異議を唱えない。そこに意義があったからである。
風に流されたか、空の雲が切れて、月が半分姿を見せた。
コハクがわずかに右目を細める。
「良い月だな」
「………………?」
「おぬしの顔が良く見えると言っておるのよ」
からかい口調で言ったものの、ナミは特に照れも喜びもしなかった。多分、言外の意味をまったく判っていない。
当てが外れて、無邪気の扱いはなかなか難しい、と鼻から息を洩らすコハクだった。
しかし、こんなふうに思い通りにならないことがあった方が、退屈はしなくて済むから良いのかもしれない。
「では、往って来るか」
「…………」
こくり、幼く無邪気な頷きを返したナミが、下生えを踏み分けて歩き出す。
コハクもそれに続いた。
月明かりの下の二人が歩くのは、いつまでも続く、現の子夜。