色とリドルの世界


 彼女は物静かなタイプではない。といっても、饒舌というほど口数が多いわけでもなかった。必要最低限にプラスアルファ、時々、気が向いたら雑談に応じる程度だ。ここで重要なのは応じるという部分である。自分から雑談の種をまくことはほとんどない。良く言えばマイペース、悪く言えば色々と鈍感なので話題となるような時流の物事に疎いのである。
 そんな彼女の口数が増え、なおかつ話題をこちらに振ってくることが、少し前から訪れるようになっていた。時流に取り残されがちな彼女だから、話題は大概、彼女自身に関する……正確に言えば、彼女に関わるものについてだった。
 それは全部が全部、同じ話題だったのだが、桜井綾代は嫌がりもせずに応じていた。
 
 
 
 
 溜め息が聞こえたような気がした。気のせいかもしれない。昼休みの終了間際、食事を終えためいめいの会話で教室は賑わいを見せている。溜め息程度が聞こえるほどの静けさは無い。
 聞こえたと思ったのは、視界の端でまさしく嘆息をしているのだと判る仕草を彼女がしていたから、という可能性も否定できない。同程度の可能性として、彼女についての事柄だけ己の感覚が鋭くなっている、というものもあるけれど。まあどちらにしても大した違いはない。
 席を立った彼女がこちらに近づいてくる。綾代はたった今気づいたというふうに顔を上げて、親友たる彼女を出迎えた。
「どうしたんです、梢子さん?」
 桜井綾代の親友たる小山内梢子は、どこか憂うような、どこか面映そうな表情で「それがね」と表情と同等の声音で話し始める。
「汀が、文化祭に来るって」
 複雑な表情を変えないまま彼女は伝えた。
 喜屋武汀。梢子が振ってくる話題の百パーセントがそれだった。知り合ったのは一年ほど前だが親しくなったのは割合最近である。夏だったから、二ヶ月くらいか。二ヶ月間で十回程度、綾代は汀についての話を梢子としていた。
「そうですか。良かったですね」
「や、別に……。確かに遊びに来たらとは言ったけど、まさか本当に来るとは思わなくて」
「去年は連絡がつかなくて来てもらえませんでしたから、やっと汀さんも一緒に見て回れますね」
「まあ……」
 梢子の口元が波打っている。話したいのはそういうことではないのだ、という口元だった。綾代は穏やかに微笑みながら両手を机の上で組んだ。
「去年の梢子さん、とても素敵でしたよ」
「……うぅ……」
 話を逸らしたように見えて、それこそが本筋だった。喉の奥で唸った梢子は裸を見られたような気恥ずかしさをその端正な面差しに乗せた。
 一年前の文化祭で、剣道部は劇を演じたのだが、そこで部長だった梢子は重要な役回りを負っていた。すなわち王子である。豪奢な衣装に身を包んだ彼女は、生まれ持った容色と小さな頃から培われた凛々しさでもって、それはそれは見目麗しく偉容を誇る王子を体現せしめていた。
 これがなんとも好評を得てしまい、今年も是非再演を、との声が上がった。
 本来、梢子はもう部を退いているので再演しようが出演しなくて良い。しかし「オサ先輩じゃなきゃ駄目なんですよぅ、主にざわっち的な意味で!」という、後輩からの訳の判らない拝み倒しに負けて客演することになってしまった。
 要は、汀が来るのは嬉しくないこともないけれど、舞台上でひらひらの衣装を着て演技しているところを見られるのは恥ずかしい。彼女の表情を分析するとそういうことになるのだ。
 綾代は穏やかな笑みを崩さないまま、なお柔らかく声を発する。
「良いじゃありませんか。きっと汀さんも楽しんでくれますよ」
「……汀の場合、楽しみ方が違うような気がするけど」
「それはそれで一つの楽しみ方ですし」
 自分は出ないから気楽なものだ。そんな恨みが少々こもった目つきで見下ろされた。誠実で実直な彼女にそぐわない、少しばかり子どもじみた非難だった。彼女が関わるときだけ、小山内梢子はそんな目をたまにする。きっと冷静に対応できるほど慣れていないからだ。絶対的に経験値が不足しているのである。だからこうして綾代に助言を求めてくる。
 助けてくれと頼まれたところで、綾代にはどうにもできない。
 そんなタスクは己の手持ちにない。
「思い出作りには良いと思いますけれど」
「そりゃ、そうなんだけどね……」
 はあ、と今度は気のせいでもなんでもなく梢子が溜め息をついた。
 綾代は、助ける手立てを持っていないのと同様、意地悪をするつもりもなかったので、ただにこやかに彼女を見上げていた。
 どうして汀だけが、彼女の視線だけがそんなに気になるのかと尋ねる、優しくて意地悪な手助けは、しなかった。
 
 
 
 
 とりあえず汀は期待を裏切らず大笑いしてくれた。
 文字通り腹を抱えて、あまつさえひーひーと息を切らせるくらい笑った。
 そうすれば、もちろん梢子は怒る。
「あっ、あなたねえ、そこまで笑うことないでしょう!」
「や、ごめんごめん。カッコいいわよオサ」
 息も絶え絶えに言ったところで褒めている感じはこれっぽちも出ない。
「劇の間もずっと笑っていたでしょう。どれだけ怒鳴りつけてやりたかったか……!」
 ああ、時々不機嫌そうな顔をしていたのはそのせいかと、横で聞いていた綾代は思う。
 つまり彼女は、汀の様子を舞台上から観察していたわけだ。二度目だから多少余裕があったのかもしれない。それが幸か不幸かは判らないけれど。
「やれやれですねー」
 斜め後ろにいた百子が呟いた。その隣にいる保美はドレスの裾を握って黙りこくっている。
 百子ではないが、本当にやれやれだ。
「梢子さん、もうすぐ交代の時間ですし、着替えた方がいいんじゃありませんか?」
「ああ、そうだったわね」
「交代って?」
 汀の問いに綾代が答える。
「クラスの方で喫茶店をしているんです。梢子さんのシフトがそろそろなので」
「へー。オサ、なにやるの? メイド? 逆をついて執事?」
「普通に制服」
「なるほど、女子高生喫茶ってわけね」
「文化祭なんだから当たり前でしょう! 変な言い方しないで」
 制服にエプロンとはなかなか通好み、と妙な感心をしている汀を一つ怒鳴りつけ、さすがに時間が押し迫ってきたので梢子はさっさと着替えに行ってしまった。
 「ほら、ざわっちも着替えてきなよ」「あ、うん、じゃあ」百子に促された保美が梢子の後を追う。
「それじゃ、あたしも舞台の片づけがありますので。ミギーさんごゆっくりー」
 去り往く彼女の、手の振り方は親しげだった。柔軟性が高い。
 残された綾代はどことなく所在なさげな汀の前へ進んだ。それを受けて、汀が視線をこちらに移してくる。
「姫さんは?」
「わたしは特に何も。喫茶店も午前中に終わっていますし。
ですから、よろしければ梢子さんの休憩時間までご一緒しませんか?」
「それ助かる。他に知り合いとかいないし」
 見知らぬ学校の文化祭なんて、案内がいなければ何を見て良いのかさっぱり判らない。普通は家族や友人のもとへ赴くのだろうが、それはもう済んでしまった。ブラブラ歩き回るにしても、そこはいかんせん素人の集まり、目を引くようなものもそうそう無い。
 こういった場所では、見知った相手と適当に話しながら冷やかしに歩くのが最適の過ごし方であると言えた。
 では、と先導して歩き出す。気持ち後方についた汀は、物珍しそうに(どこか動物園を眺める目に似ていた)看板を覗き込んだりしながら、ごくかすかな息を洩らした。
「姫さんと二人ってのは初めてかな」
「そういえばそうですね」
 綾代はそう答えたが、実を言えば最初から気づいていた。彼女と二人きりになるのは初めてだ。
 どちらかが相手を避けていたということもない。そういった意識的なものは、綾代にも汀にもなかった。ただ同じだけ、意識的に近づくこともなかった、それだけだ。
 どこか出店のBGMなのか、それとも演奏会が行われているのか、遠くからクラシックが聴こえてきた。遠すぎて曲目はわからない。
 耳に留めたか、汀が軽く天を仰いで、悪意はないが馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「もっとギャンギャン騒がしいかと思ってたけど、大人しいもんね」
「一応、良家の方も通うそれなりの学校ですから。それほど羽目を外す人はいないんですよ」
「姫さんタイプが多いわけか。百ちーあたりは退屈してそう」
 話題の彼女は自ら面白くしていくので、実はそうでもないのだが、少なくとも流れてくる音楽には不満があるだろう。
 一通り見て回ると昇降口に近づいていく。そういう順路が作られているのだ、来客が迷ってしまわないように。合理的で実体的な配慮である。
 出口に到着したとはいえ、ここではいさようなら、とはならない。当たり前だ、綾代が請け負ったのは時間つぶしである。梢子が戻る前に帰らせてしまってどうするのだ。
「どうしましょうか。戻って梢子さんの仕事振りでも見てみますか?」
「それは面白そうで魅力的なお誘いなんだけど、その前に一つ訊いていい?」
「なんでしょう?」
「どういうわけか、あたしら目立ってない?」
 彼女の言葉どおり、周囲からはチラチラと遠慮がちな、しかし隠しきれていない視線が届けられている。その全てが綾代と同じ制服に身を包んだ少女だった。見知った顔も一人二人見つける。
 綾代は眉をいつもより下げた。微笑みは絶やさない。
「汀さん、お綺麗ですから」
 だから注目を集めてしまうのだろう、という綾代の説明に、汀は納得しなかった。
「あたしが目立ってるんじゃなくて、あたしらが目立ってるわよね。明らかに二人セットで見られてる感じ」
 汀は視線の意味を正確に読み取っていたので、綾代の慰めは効果がなかった。
 一方は背が高くてショートカットの活発そうな美人で、もう一方は小柄な、楚々としたお嬢様といった風情の美少女。
 まあ、なんというか……『らしい』といえば、らしい。
「……女子高なものですから。すみません」
 苦笑混じりにそれだけ言うと、今度は納得してくれた。「姫さんに謝られることじゃないけど」呆れ口調の言葉に怒りは見えない。こういった……ある種の文化的なもの(文化祭だからその存在自体は間違いではないか?)に慣れていないせいで困惑しているのだろう。
「女の子に騒がれるのはお嫌いですか?」
「男でも女でも苦手かな。あたし、闇に隠れて生きる人だから」
「それは……難しそうですね」
 これだけ人目を惹く外見を持っていて、太陽みたいな明るさを持っていて、闇に埋もれようとするのは大変なのではなかろうか。
 有象無象の衆目に恋人同士と誤認されてしまった二人は困ったが、さりとて大声で「ただのお友達です」と叫ぶわけにもいかない。ワイドショーで芸能人がよく使うコメントと同じそれに説得力など皆無だ。事実だというのに。
 第一、そんなことをするのは恥ずかしい。
 文化祭の後で、根掘り葉掘り訊かれてしまうのだろうな、と思うと、さすがの綾代もちょっとばかり気が重くなった。
 根掘り葉掘り訊くべき相手は、本当は他にいるというのに。
「もう少し静かなところでお茶でもどうですか? 寒いかもしれませんけど」
「人目の無い場所で逢引? 姫さん相手なら悪くないかなー」
 茶化す彼女の目の奥は笑っていなかったのだけれど、綾代はそれに気づかなかった。
 
 
 缶入りの紅茶を手に、少し奥まった位置にあるベンチへ腰かける。このあたりは関係者でなければ立ち入れない区域に指定されているので、ほとんどひと気はない。
 紅茶を一口嚥下した汀が、疲れの見える嘆息をした。
「馴染まないなー」
「汀さんの学校は共学だったでしょうか」
「ああ、そういうことじゃなくて、このお祭り騒ぎがね。こういうの、あまり慣れてないから」
 学校行事に積極的ではないのだろうか。まあ、猫っぽいので、クラスや部活動で一致団結して取り組むような活動は苦手そうではある。
 そう、こんなふうに、二人程度で気ままに過ごしている方が馴染むのだろう。
 相手が綾代であればなおさらだ。
「にしても、さっきのはまいった。話には聞いてたけど本当なんだ」
 特に嫌悪は見えないが、さりとて好意的でもない口調で呟く。
「わたしと恋人になるのはお嫌ですか?」
「悪いけど、そこまでナルシストじゃないわけ」
 ふふんと悪戯に笑う汀だった。彼女も今の状況が判っているようだ。
 彼女と彼女は正反対であり、同一であった。
 シンパシィとは違っていた。
 右手と左手の関係性に近いもので、同じ形なのに同じ向きで重なり合うことはなかった。
 お互いに、反対を向いていなければ重なり合えなかった。
 紅茶の缶が熱い。綾代はまだプルタブを上げていない。膝に置いて、両手で支えるような形にして、冷めるのを待っている。
「最初に、さ」
「はい」
「姫さんと番号交換したじゃない?」
「そうでしたね」
 今はもう繋がらない、伝わらない番号。
 新しい番号も登録されているけれど、それは一番に交換したものではなかった。
「あの時は姫さんがいいと思ってた」
「第一印象が良かったのでしょうか。それは、ありがとうございます」
 こくりこくりと、汀が紅茶を飲み下す。
「読みやすそうだって思ってね。多分、あたしと同じタイプだって直感した」
 その直感は正解ではなかったが大外れでもなかった。当たらずとも遠からず、その言葉が一番しっくりくると、彼女は言った。
 秋の涼やかな風にさらされて、手の中にある缶はどんどん熱を奪われていく。持っていても平気なぬるさになってから、綾代は爪を立ててプルタブを持ち上げた。熱いうちに飲んだ方がおいしかったとは思うけれど、熱を奪われてぬるくなった紅茶はそれでも、甘くて優しい。
「同じというのは」
 こくん、一度喉を鳴らしてから綾代が口を開く。
「梢子さんを一番に置いているところ、でよろしいでしょうか」
 問いかけに汀は首を横に振った。
「そんな結果論じゃなくてさ」
 少しだけ意外な言葉だった。彼女にしては珍しい『本質的』な言葉だ。まさか認めるとは思わなかったので、綾代は反射的に彼女の横顔を見つめた。視線に気づいた汀が面白くなさそうに唇を尖らせる。その表情で、綾代は彼女が、隣にいるのが綾代だから認めたのだと知った。信頼でも親愛でもなく、それは親和だった。
「では、自分を一番に置いていないところ、ですか?」
 隣の彼女が表情を緩める。それは肯定を意味していた。
 汀の紅茶は熱いうちにすべて彼女の中へ収まった。
「もっと言えば、秘密主義なところもかな。
あたしは言葉で弾幕張って煙に巻く秘密主義だけど、姫さんは壁の内側に閉じ込めて見えなくする秘密主義」
 どう?と視線で問われる。綾代はほのかに笑って小さく首を傾げて見せた。肯定と受け取ったか否定と受け取ったか、どちらでもよかったのか、汀は表情を変えずに視線を外した。
 膝に肘をつき、缶の上部を両手で持って、それを顎の辺りで固定した汀が、ふぅと軽い息をついた。
「けど最近は違う部分も判ってきてね。たとえば姫さんの方が判りにくいとか複雑だとか、諦めが良いとか」
「そんなことはありませんよ。わたしはただ、弱いから易しい道を選んでいるだけなんです」
「あー、そうね。姫さんは優しい道を選んじゃうタイプだわ」
 ちょっとお互いの認識に齟齬があるような気がしたが、些末な違いと思えたので綾代は追究しない。
 話しているうちに、綾代の紅茶はすっかり冷めて甘さを増していた。飲み頃を過ぎてくどくなりかけている。しかし綾代は一気飲みなどすることなく、自分のペースでそれを消化していった。
 少し離れたところで少女が駆けていった。何か忘れ物でもしたのか、アクシデントでも発生したのか。通りしな、こちらに気づいてちらりと見やってきた。少女は不思議そうな顔をした。どうしてこんな場所で話しこんでいるのだろうと疑問を抱いたのだろう。けれど顔見知りなわけでもなく、また急いでいたので彼女はそのまま通り過ぎた。
 少女を見送った綾代は目を遠くへ向ける。
 胸の痛みを覚えなくなって久しい。
 消えてしまったわけでは、ないのだけれど。
 彼女のように色鮮やかな想いでは、もうなくなってしまったのだろう。
「でも」
「ん?」
「わたしは今の立場も、結構気に入っているんですよ」
 秘めた想いを表に出すことはない、彼女のほかに気づく者もいない、仄かすぎていつ消えるとも判らない秘密だったけれど。
 綾代の心に寂しさも切なさもなく、本当に、気に入っていた。居心地が良かった。
 それは透明な恋で、色はなく、ただ光の屈折だけがわずかに存在を暗示する、その程度の想いだった。
 特に不満は無い。
「お二人を見ているのも、楽しいですし」
「なにそれ、野次馬根性?」
 苦笑と共に、汀が肩をすくめた。傍で眺める色恋沙汰なんて楽しいに決まっている。それがじれったくてもどかしくて色めいているなら、なおさらだ。
 闇に隠れていたいらしい彼女はしかし、綾代の視線を拒まなかった。自分自身の視線など普段は意識しない。
「それともマゾヒズム?」
「いいえ。野次馬根性です」
 にっこりと笑って答える。
「ならいいけど。姫さん、あんたはもうちょっと自分を大事にした方がいいわよ。自分を守るために引くのはともかく、相手を傷つけるのを恐がって引くんじゃ、なんの得もないじゃない。
あんたなら、オサも断らなかったと思うけどね、ミギーさんは」
 二度目の『本質的』な言葉だった。初めてにしては良い割合だ。今後、二人きりで話すとき、もっと高い割合で引き出せたら面白いと、綾代は内心期待する。
 つまりそれは野次馬根性と友情と自愛だった。
 断らなかった、と過去形で言ったのは、現在はそうでないという意味合いを含んでいた。
 いつだったらそれは現在形だったのだろう。
 二ヶ月前か、一年と二ヶ月前か。
 一年と三ヶ月前だったら確実だった。
 リミットはすでに過ぎているのだから、今更言っても詮無いことではあるのだけれど。
 ようやく空になった缶をベンチに置いて、悪戯に、綾代は笑う。「そうではないんです」笑みには少々、苦味が混じっていた。
「汀さんと同じ部分、です」
「え?」
 きょとんとする彼女へ、立てた人差し指を唇に当てるポーズをして見せた。
「わたしも、梢子さんに言って欲しかっただけなんですよ」
 優しさとか自己犠牲とかではなくて。
 切望でも熱望でもなくて。
 ただ単純に、求めていた。
 嘱望だったのだろう。
 『そうなったらいいな』程度の期待だったからリミットに気づかなかった。
 彼女のようにもっと色めいてあの人を渇望したら、叶ったのだろうか。
 汀が息を吐いた。重みはあったが、溜め息よりは軽い。
「もしかしたら姫さんは、ずっとオサの隣にいられるのかもね」
「それも良いですね」
 挑発じみた台詞を微笑みでやり過ごすと、彼女は降参の笑みを浮かべた。
 認識と分析、意識と布石。そのどれもかわされた汀は投了の合図に大きく伸びをする。
「今日はここまで」
 教師のような呟きの直後、足音が聞こえてきて、やがて話題の彼女が姿を現した。
「こんなところにいたの? 探したわよ」
 話しこんでいるうちに梢子の休憩時間がやってきていたらしい。綾代が手首を返して時計を確認すると、二人きりになってから四十五分がすぎていた。
 空き缶片手に立ち上がる。汀は猫を思わせる悪戯な表情になっていた。本質はない。あるだろうが見せていない。
「オサ、あたしのこと探してたの?」
「……綾代を、探していたの」
 綾代の名前を強調しつつ言い返す梢子である。ああいう言い方をするということは、彼女は汀の台詞を「あたしに会いたかったの?」と解釈したのだろう。それでいてなお無自覚というのもなかなかすごい。
 なるほど、ずっと側にいて嘱望する程度では、敵わないはずだ。
 会えない時間と熱望くらいなければいけなかった。
 未来に期待するのではなく、現在に行動しなければならなかった。
 色褪せたタイムリミットを追想する綾代は微笑みを絶やさない。
「一年の子にあなたたちを見かけたって聞いて、ようやく見つかったわ」
 溜め息混じりに呟く。察するに先ほど通りがかった少女だろう。綾代を探して誰彼構わず聞いて回っていたのかもしれない。少々申し訳ない気分になった。
「わたしに何かご用でしょうか?」
「綾代のご両親が来ているわよ。時間があるなら顔を見せておいた方がいいと思うけれど」
「……午前中も来ていたのに」
 はぁ、と思わず溜め息が出る。この時間だ、おそらく文化祭が終わったらすぐに帰らされてしまう。クラスのみんなと打ち上げをする約束があると、事前に伝えていたのに忘れてしまったのか。それとも帰宅時間が遅くなるのを案じたための予防線か。
 「例の猫っ可愛がりなお父さん?」「そういうこと」短い会話を汀と交わした梢子が、綾代の肩を優しく叩いた。
「私からも残れるようにお願いしてみる。最後なんだし、やっぱりみんな揃っていたいものね」
「ありがとうございます、梢子さん」
「ううん。綾代がいないのは私も寂しいし」
 軽く肩をすくめながら梢子は言う。綾代が得られた、越えられたラインはそこまでで、けれどけっして不満ではない。
「では、行ってきますね」
「ん、行ってらっしゃい」
「ありがとね姫さん。おかげで有意義な時間が過ごせた」
 それは重畳。綾代は汀の言葉に頷いた。
 注意深く呼吸してみたが、存外苦しくはなかった。すべての色は透けて抜けて、向こう側ばかりが見える。
 一年と三ヶ月前よりもっと前から在った想いは、色を失くしてしまった。
 この想いは透明で見えないけれど、見えないだけで無いわけではない。
 これからも在り続けるだろう。
 トン、と一歩を踏み出す。
 彼女の隣へ回り込み、肩に手を置いて少しだけ背伸びする。
「わたしは、あなたが好きです」
 こめかみに近い位置、角度によっては頬へ口付けているようにも見える姿勢で囁いた。
 それは言うなれば内に秘めた秘密で、冷めきった紅茶のように優しくなくて意地悪な手助けだった。
「っ、な……」
「姫さん、ちょ、なに……」
 戸惑い棒立ちになる梢子と、思わず耳元を押さえてこちらを凝視してくる汀。
 上げていたかかとを下ろした綾代は、汀の肩から手を離して緩やかに口元をほころばせた。
 梢子の位置からであれば、囁いた言葉は聞こえないし、唇の動きも見えなかった。
 だから彼女が誤解してもおかしくはない。
 演技は得意じゃないので、確率としては五分五分、汀の本質を引き出すより難しかったけれど、それなりに上手く出来たと思う。
 幸いにも、梢子はしっかり勘違いしてくれたようで、我に返った次の瞬間、汀に掴みかかっていった。
「み、汀ー!」
「えっ、なんであたし!?」
「あなた、綾代になにをしたの!」
「ちょっと待った、今のどう見てもあたしがされた方でしょ。なんであたしが怒られるわけ?」
「それは……」
 ごもっともな意見に梢子が喉を詰めた。掴みかかっていた手が離れて所在なくさまよう。思考もさまよっているだろう。
「ど、どうせ、あなたが綾代に何か吹き込んだんでしょう」
「ものすごい誤解で冤罪よそれ」
 汀が半眼でこちらを見やってくる。どういうつもりだ、と詰問してくる視線。綾代に答える気はない。答えはもう出ている。
 彼女がどちらに嫉妬したか、という答え。
 だから綾代はわざと謎めいた笑みで「では、ごゆっくり」と会釈をした。
「汀、綾代に何をしたの。全部白状しなさい」
「そう言われても、本当に何もないし」
「何もなくて綾代があんなことするはずないじゃない」
「じゃあ、オサには見えない何かがあったんでしょうよ」
 耳元で『本質的』なことを囁かれただけなのに、汀はいい迷惑である。とばっちりと言って良い。
 梢子は何度か口をパクパクさせて、そろそろと首を回すと綾代へ問いかけた。
「ちょっと綾代、あなた、まさか本当に……?」
「どうでしょうか」
 自分を第一にしない桜井綾代はそんなふうに答えて、先ほどの会釈よりも丁寧に頭を下げた。
 教室へ向かって歩き出したところで、「あ、姫さん」汀に呼び止められる。
 振り返ると彼女は『本質的』に目を細めていた。
「あたしも」
「……ありがとうございます」
 二度あることは三度あるというが、それにしても良い手応えだ。
 この短時間で彼女の本質をこれだけ引き出せたのなら、ずいぶん成績優秀だろう。
 情熱的な色とりどりの世界を見つめながら、綾代は透明に微笑んだ。



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