レスト


 立春も過ぎたというのにひどく寒い。吐く息は当然白く、誰もが汽車のようにポッポと断続的な塊を吐き出している。今はもう止んだが少し前までみぞれが降っていた。おかげで空気も半分凍って、歩くたびにむき出しの頬へ突き刺さる。
 ほんの数日前は夏かと思うくらい気温が高かったはずだが、今となっては幻のようだ。三寒四温とはよく言ったものである。
 梢子は両手をポケットに突っ込んで、首をすくめながら校門を目指す。ポケットには使い捨てカイロが入っている。帰り際、綾代がくれた。心頭滅却すれば、とは言うけれど、そんなおためごかしをせせら笑うように寒気は全身へ浸透してくる。カイロを握り締めていなければ足元から凍って動けなくなってしまうに違いない。手のひらは人体のラジエータなので、こうして暖かいものを握りこんで熱を逃がさないようにすれば全身の熱が保たれる。綾代の好意は大変理に適ったものだった。
 首をすくめているので梢子は心持ち俯き加減になっていた。溶けかけのみぞれで油断すると滑りそうだ。だから余計に視線は足元へ集中する。気づかなかったのも仕方ない。
「うわ、無視? シカト?」
 仕方ないのに、直前に横を通り過ぎた人物が非難めいた呟きを落とした。
 顔を上げるより先に、梢子は声でそれが誰なのか察した。
 目線を上方へ修正すればさらに確かな情報が飛び込んでくる。
 ダルマだった。
「……ずいぶんと重装備ね」
 たっぷり膨らんだダウンコートとグルグルに巻かれたマフラー。コートが厚いのか、内側に何枚も着込んでいるのか、腰から上が彼女自身よりふた周りほど丸くなっていた。コートの裾から伸びた脚とそれを守るブーツが、後から付けたみたいにひどく頼りなくてアンバランスだった。脚なんて飾りですよと言わんばかりだ。
 ダルマな汀はマフラーに埋もれている首をさらに押し込んで唇まで隠すと、「天気予報見た時は目眩がした」しかめ面で苦々しく言った。
「で、なにしてるの?」
「人待ち顔に見えない?」
「半分隠れてるから判りにくいわね」
 相変わらず頭文字Sだなー。溜め息交じりの独白を梢子は首を傾げることでいなす。
 まあ別に、「君に会いに来た」と言って欲しいわけでもなかったのだけれど。
 汀の髪が濡れている。寒さのあまり舞い降りるみぞれを払う気も起きなかったのだろう。手のひらで払えばラジエータは熱を放射する。彼女の判断はあながち間違いでもない。
 このままでは風邪を引いてしまうだろうと、梢子がバッグから部活で使っているタオルを取り出して汀の頭にかぶせた。そのままわしわしと拭いてやる。
「傘も持たずに来たの?」
「癖でね。両手は空けておきたいから」
 そういう彼女の周囲に長物は見当たらない。ワイヤーなら仕込んでおけるだろうが、拭かれて乱れた髪を直す両手はまったくの徒手。これでワイヤーなど使おうものなら親指以外の八指がさようならだ。本当にただの癖らしい。
 誰もが足早に通り過ぎている。右足を前に、次は左足を。その二つの動作だけに集中しているようだ。メトロノームに似た規則正しさ。
 梢子はそのリズムを聞くともなしに聞きながら、ぐすりと鼻をすする汀を斜めに見上げた。
「来ているなら、連絡してどこかで待っていたらよかったじゃない」
 現代社会の利器たる携帯電話を持っているのだから、わざわざこんな日に吹きさらしの中で待っていることもないだろうに。
 汀がくったくなく笑った。「驚くかと思って」まだ性を持たない、少年期のさしかかりにいる男の子みたいな透明さで言う。透明さが梢子の腑から何かを抜いて、おかげで特段笑いたい気分でもなかったのに笑えてしまった。
 ただ梢子を驚かせるためだけにずっと待っているような、そんな幼稚さとは無縁に見えるが、これでいて百子と気が合う程度には稚気を持ち合わせている汀である。けれど嘘かもしれない。どこかに違う理由があったのかもしれない。どうなのだろう。判らない。
 判らないけれど、彼女の頭にはみぞれが乗って、覆うもののない両耳は真っ赤になっている。
 梢子はポケットのカイロを寸時握って手のひらを温めると、汀の耳に押し当てた。「お」汀がどこか感じ入ったように呟く。
「はは、あったかい」
 沁みるぬくもりに目を細めて、ああ、と溜め息のように洩らす。こぼれた白は宙を舞って梢子の鼻先に触れた。
「ものすごく冷たくなってるんだけど。どれくらい待ってたのよ」
「ん? 三十分ちょっとかな」
「馬鹿」
 誰もが一刻も早く暖かな我が家を目指している時に、彼女はここで、ただじっと立っていたわけか。三十分と言うけれど、それにしては頭にかぶさっていたみぞれの量が多い。
 なにをしてるんだか。呆れ笑いを浮かべると、今度は梢子の吐息が汀の額を撫でていった。彼女は苦笑いで応えた。
 押し当てているだけだと腕が疲れるので、するりと撫でた。
 緩いカーブ。耳朶の厚みと軟骨の感触。くぼみの深さや耳の裏側のさわり心地、全部知っている。
 汀の耳から赤みが引いたあたりで手を離すと、毛皮を剥かれた白兎みたいに痛々しかった耳はすっかり、梢子の見慣れた姿を取り戻していた。
 それで精神的な調子も戻ったのか、寒さで強張っていた汀の表情が緩む。
「はー、生き返った。正直、ほとんど感覚なくしてたのよねー」
「……そうなる前に自分でなんとかしなさいよ」
「慣れてないから対処法がつかめなくてね」
 しようのない汀だ。この程度ならありえないが、凍傷から壊死を起こすことだってあるというのに。いつでも己が温めてやれるわけでもない。今度イヤーマフでも送りつけてやろうか。向こうで必要になる日は来ないだろうけれど。
「いつまでもここにいたら風邪を引くわ。とりあえず、そのへんでお茶でもする?」
「ああごめん、タイムリミット」
「え?」
 トントン、と自身の左手首を指で叩く汀に、梢子が小さく首を傾げた。ちなみに腕時計ははまっていない。ただのジェスチャである。
「これからもっと寒いところに行かなきゃならないわけ」
 肩をすくめようとしたようだが、もとより首がすくんでいたのでうまくいかなかった。微妙に肩が揺れた後、汀は首を振る。
「鬼切り部の仕事? なんで汀がそんなところに」
「どっかであたしのことが鬼切り頭の耳に入ったみたいね。なんとビックリ直々のご指名。そうなると、さすがにあたしも若も逆らえないのよ。一党取り潰しなんて簡単にできちゃう人だから」
 オニキリノカシラというものに聞き覚えはなかったが、カシラとついているからには偉いのだろう。汀の口ぶりからすると、鬼切り部を統べる存在なのだろうか。
 党首に対してすら、時に不遜な態度を取るらしい汀が大人しく首に綱をかけられる存在。なんとなく不思議だ。どんな人物なのだろう。威風堂々とした偉丈夫か、それとも荘厳で老獪な大刀自。そんなイメージ。きっと汀程度なら片手で捻られるに違いない。
「これから今回のパートナと合流して現地に向かうわけだけど。実はこの時間もけっこう無理言ってもらってたり」
「だったら、やっぱり連絡くれたら良かったのに。そうしたらもう少し早く帰った」
 しかめ面を隠しもせず、梢子は目線で汀の胸を突く。
 汀は苦い顔で口をもごもごさせた。
「想像だけど」
「ん?」
「こういう寒い日に、炬燵の中へ潜り込む感じ」
 山のような宿題を出されて、自分の部屋でそれを片付けなければならないのに、リビングでぬくぬくと蜜柑の皮を剥きながらテレビを眺めている情景。無意味に蜜柑の筋をやたらと綺麗に取ってみたり、リモコンでチャンネルをグルグル変えてみたり、結局元の番組の続きを見たり。そういう光景が持つぬくもりとちょっとした後ろめたさ。
 それを避けるために、汀は寒風吹きすさぶ中で佇んでいたのだ、と主張する。
 彼女の言う「想像」が、南国育ちだから炬燵に潜り込んだ時の感覚が判らないということであるのか、もっと長い時間を二人で過ごした場合に覚える想いのことであるのかは判然としない。わざとそういう言い方をしたのかもしれない。梢子は彼女のそういうところが基本的にあまり好きではなかったが、気分によっては可愛らしいと思えるケースもあった。今回は後者だ。
「じゃなかったら、登山中にうっかり座り込んじゃう感じ」
「なんでもいいけど」
 要するに長くいすぎると離れたくなくなるから、会えるか会えないかも不確かな、会えても余裕のない状況を自ずから作り出したのだろう、というようなことを頭の中では考えたが、梢子の口から出ては来なかった。
 だってそれは、自分がいかに愛されているかという証明を行うのと同じ意味合いだ。
 恥ずかしいだろう、そんなのを口にするのは。
 少しだけ抗議の意味を込めて、汀の目と目の間、眉間の下あたりをつまむ。彼女は反射的に目を閉じた。梢子からのアクションはなにもない。いくら誰もが下を向いて足早に歩き去っているとはいえ、人目がまったくないわけではないのだ。
 こんな場所では、キスの一つもできはしない。
 手を離して、離したそれを頬へ添える。
「次はちゃんと連絡してきなさい。待ってるから」
 梢子は『次』があるのだと信じて疑わない。
 汀の心も身体もなにひとつ変化せず、同じかたちで己のもとへ帰ってくるのだと、そう信じて不安すら覚えない。
 だからさっきの抗議はそういう意味だ。疑うな、案じるなと汀を責めているのだ。
 疑って、不安がって、それでも逃げ出せないから、ただ一瞬の安らぎを求める汀の弱さを梢子は指先で捻り上げる。
 甘えて動かなかったら怒鳴りつけて追い出すし、怠けて逃げ出したら地の果てまで追って捕まえる。
 だから、恐がる必要なんてないのだ。
 汀の耳が少しだけ熱い。誰の熱だろう。二人の熱か。
 見下ろしてくる視線は柔らかく、しかしどこか苦いような、切ないような雰囲気もあって、コーヒーゼリィみたいな目だった。
「……ん」
「第一寒いし」
「それは確かに。ほんと、このまま立ってたら凍りそう」
 思い出したように汀がぶるりと震えて、ずり落ちたマフラーを口元まで上げた。首が消えて、ますますダルマみたいになった。
 ポケットのカイロを取り出して差し出す。まだそれほど時間は経っていないので充分温かい。
「あげる。少しはマシでしょう」
「わ、サンキュー。感謝、ダンケシェン」
「なんでドイツ語?」
「ジュテーム」
「それは違う」
「違わないけど?」
 カイロがなくても本調子なようだ。梢子は手にしていたカイロを戻すふりをする。
 汀が慌てた様子でその手を掴んできた。
「わわ、オサ、ならぬ堪忍するが堪忍ですよ」
「そこまで怒ってない」
 それを言えば、汀の方こそ「ならぬ堪忍」をしなければならなくなるのだが。
 無事にカイロを受け取った汀は、両手のそれを頬に当てて至福の表情を浮かべた。弛緩しきった、ちょっとレアな顔だった。
 うわ、可愛い。梢子はうっかり出そうになった呟きを口の中で押しつぶす。もごもごと呟きを戻していたら、汀が不思議そうに首を傾げた。
「さっきのオサと同じ温度だ」
「まあ、私が今まで握ってたわけだし」
「ああ、じゃ、オサの熱か」
 これもまたレアな、詩的な台詞だった。知的な彼女はいつも論語をそらんじるようにロジカルな物言いをするから、転じて、こんなふうにリリカルな言葉の選択をすることが少ない。
 そのせいなのかなんなのか、その熱を汀が頬へ当てているという情景に、どこか面映いような……言葉を選ばなければ、性的な恥ずかしさを覚える梢子だった。
 たとえるならケーキを食べていて、指についたクリームを舐め取る仕草を見たときのような恥ずかしさ。
 悟られてはたまらないと、梢子はわずかに顔をしかめる。
「へ、変な言い方しないで」
「変かなー? ま、正確に言えばカイロの熱がオサに移ったんだろうけど」
 満足したのかカイロをポケットへ入れると、手を片方だけ外に出して、梢子の目じりをそっとなぞる。
 棍を握り続けているせいか、彼女の手は少しだけ表面が硬い。けれどその硬さが梢子の表面を傷つけることはない。いつだって。
 周囲は寒さに口をつぐみ、二人の横を通り過ぎていく。音は二人に絡むことなく、ただ彼女たちの吐く呼気だけが、白く世界と交わった。
「汀、時間は?」
「実はマジでギリ」
 言いつつ、汀に焦った様子は微塵もない。南の人は総じて大らかだから時間にルーズなのだとどこかで聞いたことがある。汀も例外ではないのだろう。
「なら、もう行きなさい。オニキリノカシラだっけ? 偉い人に叱られるわよ」
「はいはい。わりとファジィな人らしいから、少しくらい遅れても大丈夫だとは思うけど、一応下っ端としての礼儀は尽くしておきますか」
 なにより寒いし。もう何度目か判らない言葉を落とした汀が両手をポケットに収めた。
「じゃ、もう行くから」
「ええ」
「……出発するんですけど」
「判ってる」
 汀は苦々しく口を引いて歯を見せた。オサの頭文字S。こちらは二度目の呟き。
 以前は生真面目さ故に彼女を糾弾して、それを指して言われていたが、最近はこんなふうに、じゃれあいのようなやり取りの中で聞くパターンが増えてきた。許している証だ。心とか、距離感とか、色々なものを。
 唇を尖らせてぐずぐずしている汀を可愛らしいと思いながら、梢子は嘆息まじりに微笑んだ。
 なんだかんだ言って、やはり、ちょっと汀には甘い。
 恐がり怯える彼女が望むもの。お守りみたいな、なんとはない拠り所になるもの。
 
 『次』。
 
「行ってらっしゃい」
 
 はらりと汀の口元がほころんだ。
 
「行ってきます」
 
 戦士の休息。まったくもってそういうふうに、汀が笑う。



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