螺旋


 向き合う汀を前にして、腕を組んだ守天正武は難しい顔をしている。
「随分と下手を打ったなあ、お前さん」
「いやー……これはさすがにあたしも、言い訳出来ないですね」
 軽く引きつった笑みをごまかすように、口端をかきながら汀は応えた。
 ふぅー、と正武が長々とした息を吐いて一度目を閉じた。黙考を待つ汀も沈黙する。手持ち無沙汰なので左腕をさすった。感触は馴染んだもの。目さえ向けなければ、いつもと何も変わらない左腕だ。
「俺なり誰なり、守天党の人間だったら、なんの問題もなかったんだがな。どいつもその程度の覚悟はできている。しかし……」
 右目だけを開けた彼の表情は、面倒事を憂うそれに違いはないが、窮地に陥っているというよりはむしろ、己が手を出せないやるせなさが強く出ていた。
「人を呪わば穴二つというが、呪いを返せる相手はお前さんが切っちまったからな。無理に解こうとすれば穴に入るのはお前さんとあちらさんだ」
「でしょうね。もう呪いが向かえる先は、あたしとあいつしかいませんから」
「やはり、返すのではなく果たすしかないか」
 汀が小さく肩をすくめた。
「この詫びは後できっちりせんといかんな」
 重たい溜め息をこぼす正武とは対照的に、汀はどこかあっけらかんとした表情で、
「ま、でも大丈夫じゃないですか? やり方さえ間違わなければ難しい呪じゃないですし、それに」
「なんだ?」
「あいつ、あたしを助けるためならわりとなりふり構わないから」
 無感情に呟いた。
 
 
 
 
 あなたの大切な人が危険なのですと言われて、心が逸らない人間がいるか?
 切れ切れの、今にも消えてしまいそうな声で「会いたい」と言われて、自分たちを隔てる距離を煩わしく感じずにいられるか?
 落ち着けと言われて落ち着けるか? そんな他人の声に従えるか?
 焦る思いは手の震えとなって現出して、梢子は震えの治まらないそれを酷使して交通手段を手配した。
 迎えの者が気の毒そうに顔をゆがめるくらい、彼女の顔面は蒼白だった。震えは治まらない。
 だというのに。
「オサオサー」
 きゃっきゃと猿じみた笑顔で出迎えた汀は思い切り元気だった。
「……みぎ、わ?」
「イエース汀。ミギーさんですよ」
「あなたが誰かなんて確認してないっ」
 両手を拳に握って、ついさっきまでとは違う震えを押さえ込む。
「あなた、鬼切りの仕事で怪我して、危険な状態だって……!」
 そう、確かにそう聞いた。汀にではない、それならまだ思考の余地がある。また騙してきたのかと素直に怒れる。けれど今回は彼女の上役、どこにでもいる普通の女子高生を騙して喜ぶ趣味などあろうはずもない、質実剛健な信頼に足る守天正武から連絡を受けたのだ。だから梢子はとるものもとりあえず駆けつけたのに。
 汀は左腕の大半を包帯で覆っていたが、それ以外は特に傷も見えず、動きが制限されている様子もない。身軽な服装で通常通り立っている。これで危険だと言うなら、あとは脳内に埋め込まれた受信機を疑わなければならないだろう。そういえば以前、α-ケンタウリから来た云々などと口走っていたことがあったか。まさか本当にそっちの意味で危ないのか。もしかして任務中に頭でも打ったのだろうか。
 どんどん深刻な表情になっていく梢子が面白かったのか、汀がカラカラ笑った。
「危険な状態よ。ただし、怪我をしたんじゃなくて穢されたんだけど」
「……どういうこと?」
 不意に彼女の面差しに影が差す。両腕で、自身をかばうように抱き、梢子から視線を外した。
「汀?」
「……若が、嫌がるあたしを無理やり……っ」
 がす、と背後から汀の頭を大きな手が掴んできた。
「おい、いたずらに人を貶めようとするなよ。お前さんみたいな乳臭いガキに誰がそんな気をもよおすか」
 良いタイミングでやって来た正武が呆れた様子で汀を諌める。「おおっと、ジョークですよジョーク」「ジョークで犯罪者にされちゃ堪らん」正武は苦い顔で汀の頭を軽く揺さぶった。手加減しているのだとは思うけれど、その巨躯に相応しい力強さは傍目にも明らか、汀が「おおぉぉ」と呻きながら顔をゆがめる。
 それにしても、本当に良いタイミングだった。あのまま汀が最後まで言っていたら、都市伝説くらいの説得力は感じていたかもしれない。失礼な話ではあるが。
 確かめるのも微妙な話題なので尋ねられないが、彼女は正武が来るのに気づいていて、だからあんな冗談を口にしたという可能性も考えられる。
 正武のアイアンクローから逃れた汀は、不満そうに唇をへの字に曲げて彼を見上げた。
「それに乳臭いとは言ってくれますね。かなりのハイスペックですよ、あたし」
「自分で言うなよ。見た目ってのは他人の評価で決まるだろう」
「少なくともオサには大好評です」
 「なっ」さらっと言われて思わず引きつり気味の声が出た。しかし否定しきれないのが悲しい。猫みたいにくるくると表情を変える瞳とか、シャープだが硬すぎない頬のラインだとか、しなやかに長い手足だとか、引き締まっているくせに柔らかな腰とか……おや、困った褒めどころしかない。
 「ねー、オサ?」汀が猫の目で覗き込んでくる。「……別に」手のひらで頬を冷やしながら言っても、都市伝説ほどの説得力すらなかった。初対面からこっち、態度はともかく外見においては汀に欠点を見出せない梢子である。
「とにかく、守天さんじゃないなら何があったのよ?」
「……俺のことはもう言及しないでほしいんですが」
 心なしかしょんぼりした正武に、梢子は慌てて頭を下げた。
 汀と正武が視線を交わす。隣の彼女は飄々とした表情で、正面の彼は苦々しい顔つきだ。二人を交互に見ながら梢子はどちらかが口を開くのを待っている。
 上役である責任と、当事者である責任は、前者の方が重かったらしい。
 正武が重い口を開いた。
「先日、汀が任務中に呪いをかけられましてね。当の鬼は切ったが、呪いはそのまま残ってしまった」
「穢されたって、そういうこと……?」
「そういうこと。まあ、見ての通り、今のところ大した影響はないけどね。日常生活は問題なく送れるし、鬼切りの方も雑魚なら余裕で相手にできる。ていうか、相手にもならないかな」
 余裕綽々で魍魎を屠っていた姿を思い出す。あれだけの動きが出来るなら、他にも問題はないように思えるが、もっと強い鬼が相手の時は問題になるくらいの影響があるのだろうか。
「汀、腕出せ」
 正武の指示に、汀は左腕の包帯を解いて肌をあらわにした。「……っ」梢子が思わず息を呑む。
「これが呪い。見ても判らないだろうけど、わりとえげつない呪言が書かれてるわよ。訳すと十八歳未満閲覧禁止は確実」
 それは一見すると刺青に見えた。くすんだ黒の色合いといい、奇妙にうねった模様……文様かもしれないが、その形といい、最近若者がファッション感覚で入れているものとよく似ている。
 汀の左腕を這うそのラインは、見つめていると奇妙に具合が悪くなった。
 持ち前の我の強さか、それともこういった事象に慣れていないための浅はかさか、汀の左腕に触れようとした梢子を正武が阻んできた。汀も同時に腕を引いて避けている。
「みだりに触れようとすると、痛い目を見ます。こいつは……ちょっとばかり厄介でしてね」
「特にオサにはね」
「どういうこと?」
 心構えをしておけと前置きしてから、汀が腕を出した。「火傷しないと火の恐さは判らない、これはそういうことだから」随分と脅かしてくるので、梢子は知らず知らず唇を噛んで、鳩尾に力を込めてから、汀の腕に手を伸ばした。
「――――っ!?」
 触れる、と思った瞬間、火花が散った気がした。
 気がしただけでそう見えたわけではない。感覚としては静電気に近いか。受けたダメージは数倍違うが、一瞬の、鋭い痛み。
「なによ……今の」
「だから呪いだってば。特定の相手に触れようとするのを拒む呪い」
 百子がプレイしていたポータブルゲームにこんなのがあったような気がする。相手に攻撃された時、それを防いでさらにダメージを与える魔法があった。
 しかし、己は別に攻撃などしていない。どちらかといえば、触れたものがすべて金になってしまう王様の逆バージョンみたいなものなのだろうか。
 王様は願ったが……汀は呪われた。
「なんで、私?」
「対象はランダムなんじゃない? ほら、オサって運悪いからこういうのに当たりやすいとか」
 そこはかとなく失礼なうえに反論できない感じのことを言われて納得しかけたところで、正武がそれに反駁をした。
「ごまかすなよ汀。対象になる人間には条件があると判明してるだろう」
 うえぇ、汀が小さく唸った。「ここでそれ言っちゃいますか……」隠していたテストの答案を見つけ出された時みたいな様子の汀に、梢子が小さく首を傾げる。
 正武は自身の首筋を軽く撫でてから、片目を眇めて話し出した。
「なんと言うか……守天党は別に惚れた腫れたを禁じているわけじゃないんですが、外部の人間とそういうことになるケースは、割合としては低い。任務中に関わった人間とも、事が済んで以降は連絡を絶つのが常でしてね。それは鬼切り部が表舞台に出るのを防ぐためと、こういった場合に備えて、という意味もあります」
「はあ……」
「守天党は《剣》を封じるために作られたが、それも基をただせば我が国の民を守るため。守るべき民を巻き込んでしまっちゃ本末転倒だ。
ところが汀はそのすべてをやらかしてしまったというわけでして」
 どうも表現が婉曲的すぎて理解しにくい。
 つまり、汀は任務が終わってからも鬼切り部と関わりのない人物と連絡を取り合って、惚れた腫れたを外部の人間と行って、そのせいで面倒事に巻き込んでしまったということでいいのだろうか。
「……え?」
 ここにいる三人のうち、いやそんな限定をする必要もなく、この屋敷内にいる人間で、外部の者は一人しかいない。
「あの……、呪いの対象って……」
「若、後生だからそこは」
「ありていに言えば汀が惚れてる相手です」
 汀の切実な懇願をぶった切り、正武はなぜかしみじみとした口調で答えた。
 いや一応言われるまでもなくそういう関係なので今更他人の口から聞かされたとてどうということもないはずなのだが、なんだかこう、物凄く恥ずかしい。
 手のひらで頬を冷やしながらちらりと隣を見やると、彼女も微妙に頬が赤らんでいた。良かった、彼女がまったく動揺していなかったら自分だけがあたふたしているようで更に熱を持つところだった。
「ま……そういうこと」
「じゃあ私、これからずっと汀にさわれないの?」
 今まで、彼女に触れた際の様々な記憶と感情が沸き返る。色々な、本当に色々な触れ合いが。
 なぜか汀が横目でこちらを見ながら小さく嘆息した。
「オサ、そういう顔してると若が困る」
 言われて正武を見ると、彼はあらぬ方を向いていた。そろそろこの、なんでも顔に出てしまう己をなんとかしたい。
 オホン、とわざとらしい咳払いをした正武が梢子と汀の中間あたりに視線を戻して、「小山内さんをこちらにお呼びした理由ですが」話を本筋に修正した。
「磁石を思い浮かべてもらうと判りやすいでしょう。本来の二人がS極とN極だったとすれば、汀は左腕に無理やり、もっと強力な逆極の磁場をかけられた状態です。そうすると、二人の磁場は同一となり、お互いが反発し合うようになる」
「……はあ」
 小学校の高学年あたりで、そんな勉強をしたような気がする。あまり実生活に近しくないものなので、なんともあやふやではあるが、磁極の反転というのはぼんやり記憶にあった。
「じゃあ、その強力な磁場を外しても汀の磁極は戻らないんですか?」
「そういうことですね。汀にかけられたのはそれほど強い呪いではないが、とにかくしつこい。そこで」
 正武が親指と人差し指で「コ」の字を作って、それをくるりと上下反転させた。
「左腕の磁極を、更に逆転させるって方法を取りたいわけです。
呪いは汀の逆極ではなく、小山内さんと同じ極という基準で働いているので、小山内さんの持つ磁極が反転すれば、呪いもそれに追随する。そこで呪いは成就します」
 たとえば梢子がS極で汀がN極だったとしよう。
 現在、呪いが強力なS極を持っているので、汀のN極も無理やり反転させられてS極となっているため、梢子と反発する。
 梢子がN極となった場合、呪いはN極となり、汀もN極に戻る。
「……それ、磁極が変わるだけで、結局同じことなんじゃ」
「それが同じじゃないのよ。磁石はあくまでたとえなんだから、実際問題としては、呪いの基準になってるオサが変わることの意味が重要になってくる」
「意味?」
「だから、オサがあたしを嫌いになることが呪いの目的ってこと」
 「なにそれ!?」確かに現状を反転させればそういうことになるだろうが、なんというかその目的、小さいくせに大迷惑だ。
「どんな鬼と戦ったらそんな呪いかけられるのよ……」
「不倫の挙句、相手に離婚を迫って奥さんに殺された女の怨霊。ほんと、逆恨みよねー」
 同じ目にあわせてやる、という執念か。ますます迷惑な呪いだった。
 それで正武の「成就」という言葉になるのか。いとしい者を奪うことが、その鬼が望む最大の成果だったのだろう。
「で、でも、急に嫌えって言われても……」
「ああ、別に本当に嫌う必要はないから。言霊ってあるでしょ? オサの言葉を増幅して呪いの成就に使うだけ。嘘じゃさすがに難しいけど、あたしに対する不満とか適当に言ってくれたらこっちがうまいことやるから」
「不満、ね……」
 ふむと脳内の棚を探る。
 あれ、なんか結構あるぞ。
 
 
 
 
 術式の整えられた部屋に通され、示された陣の中央へ正座する。
 眼前には同じように正座した汀がいる。左腕を除けば姿も表情も平常どおり、ニヤニヤとした軽薄な笑みでこちらを見ている。馬鹿にされているような気がするが、こちらの緊張をほぐそうと気遣って、いつもどおりにしているのだと前向きに解釈したい。
「ささ、オサ、遠慮なくなんでも言いなさい」
 梢子から少し離れた左右には、見たことのない男女が一人ずつ。守天党の術者なのだろう。正武はいない。それほど難しい術ではないので、党首たる彼が時間を割くようなものではないそうだ。親しみやすいので忘れがちだが、彼は一党を統べる立場にある人間だ。汀一人にかまけてはいられない。
 凸の形に並んだ銘々は奇妙な緊張感を共有しながら(汀はちょっと怪しいが)、術へと取りかかった。
 シャラン、と両脇から鈴の音が届く。始まりの合図に梢子が口を開いた。
「……えぇと」
「なんでもいいわよ」
「じゃあ、嘘つき」
「うんうん」
 塵ほどの抵抗もなく汀が頷いた。大丈夫みたいだ。
「卑怯者だし、すぐに私をからかって遊ぶし、電話しててもいきなり切るし」
「それはあたしのせいじゃないじゃない。若がこっちの都合考えないでかけてくるからでしょ?」
「私には関係ないもの」
 緊張感は消えなかったが、汀があまりにもいつもどおりなので、梢子の方もすぐに舌の滑りが良くなった。とにかく思いつくままに音を舌へ乗せる。
「時々冷たくて、そうだ、卯奈咲で綾代とは番号交換したくせに私には教えなかった。
いや、そもそも最初のあの態度はなに!? 喧嘩売ってるようにしか思えなかったんだけど」
「や、あの時は剣鬼のことが……」
「剣道だって、一年やそこらであんなに強くなるし! 急に現れて、人を勝手に振り回して急にいなくなって、またなんの前触れもなく現れて! 私は、私はあなたのせいでずっと滅茶苦茶で、やっと落ち着けたと思ったらこんなことになるし!」
 どんどんヒートアップしていく。「お、オサオサー。もうちょっと冷静になってくれると嬉しいかなー?」愛想笑いを浮かべながら汀が遠慮がちに拝んでくるが、その程度で梢子は止まれなかった。
 鼻の奥がツンと痛む。きっと、今の自分は綺麗じゃない。色々な意味で。
「全然会えないし! 遠いとか鬼切りとか判ってるけど、私はもっと会いたいのに汀はなんだか全然平気そうで、これじゃあまるで……」
 ぐい、と袖で目元を乱暴に拭うが、次々に涙は継がれて止まらない。
「私が……わたしだけが――――っ」
「ストップ」
 右腕が延ばされて、突き出した手のひらが梢子から汀の表情を隠す。
 それが下ろされた時、梢子はうっすらと、儚い衝撃を覚えた。
 いつしか汀のおもてから笑みは消えていた。薄く開いた唇から、細く息が吐き出される。
「オサ、今日のところはここまでにしましょう。このまま続けてたら呪いが解けるより先にあんたの血管が切れるわ」
 汀が無理に止めたせいで、舌が急激に硬直して、喉が詰まって、是も非も答えられなかった。
 
 
 
 
 正武が梢子のために用意した部屋で二人きりになってからも、梢子はまだ腹の中で渦巻くものが治まらないようで、鬱陶しそうに何度も涙を拭いながら汀に背を向けている。
 背中は、顔ほどではないけれど嘘をつけず、噴出した汀に対する不満と、それをぶつけてしまったことに対する後悔、さらに未だ子どもみたいに拗ねている自分自身への憤りが混ぜこぜになった自己嫌悪が色濃く出ていた。
 汀は両膝を立てて、その上に腕を乗せた姿勢で彼女の背中を見ていた。
「……オサー。こっち向いて」
「…………」
「あたしは別に怒ってないし。ていうか、ちょっと反省した。うん。
いやー、まさかそこまでオサに愛されてるとは」
 ピクリと梢子の背中が震える。これはどちらだろう。正と負、どちらの感情か、動きが小さすぎて読み取りにくい。
 膝に乗せた両手を組み、そこへ顎を置いて、淡く目を細める。
「ね、こんな状況だけどせっかく会えたんだし。顔くらい見せてよ」
 できる限り優しく呼びかけると、彼女に何かプラスのものが生まれたのか、おずおずと膝を回して、梢子が汀の方へ半分だけ向いた。真正面から向き合うにはまだ何かが足りないようだ。
 汀は思わず彼女の目元へ手を伸ばして、寸前で気づいて止める。「ハハ……」自嘲気味の苦笑が洩れた。
「目の前にいるのにさわれないって、ミギーさんにとってはけっこう拷問よ?」
「……うそ」
「うわ、ひっど」
 なにやら愛を疑われている。
 術の余波で熱を持つ左腕をさすりさすり、にじり寄って彼女の正面で三角座りをする。彼女は正座を崩さないまま、視線だけを汀から逃がした。
「あたしに障るだけなら、無理やりにでも触るんだけど。なかなか考えてるわよね。まさしく、オサを人質に取られて手も足も出せない状態なわけだ」
「私は……」
「オサがいいって言っても、あたしは触らない。
どうしてか判る?」
 彼女は沈黙を守ったけれど、答えは汀に届いていた。
 0.1ミリの壁。強固なそれを破る術を今の汀は持たず、だから、心持ち眉を下げた笑みのまま、ただ彼女を見つめている。
 彼女の手が伸びて、溜め息をついて、下ろされた。
「……言いすぎた。ごめん」
「別に。オサに怒られるのはいつものことだけど、拗ねられることってあんまりないからね。
なかなかレアで逆に得した感じ」
「なに言ってるの」
 ようやく梢子がほのかに笑う。汀も表情を緩めて彼女へにじり寄った。
 膝をついて、手を床に置くことで自身を支え、触れるギリギリ、0.1ミリの壁とゼロ距離になる。
 視線の先で彼女の感情が揺れた。
「若が人使い荒いせいで、最近会えなかったじゃない」
「……ん」
 少しだけ不満そうな応答に微かな苦笑を浮かべた汀は、手を持ち上げたい欲求に抗いながら言葉を続ける。
「わりとストレス溜まってたのよね」
 避けられるはずの呪いだった。肉弾戦だけでなく、そういったものに対抗する術も、汀はいくつも持っていた。
 けれど、胸に宿ったしこりが重りとなって、反応がわずかに遅れた。
「会いたくないわけじゃない」
「……なんだか、その言い方って」
「ああ、はいはい」
 偽りを好まない彼女はなんだかんだと我侭で、普段は羞恥心がそれを隠しているのだけれど、ごくたまに、ちょうど今のようなタイミングで表面を覆っているそれが剥がれることがある。
 それが発生する条件を汀は熟知していたが誰にも言わずにいた。嘘でも偽りでもない、内緒だった。
 誰かに知られたところで、汀のほかに条件をクリアできる存在はなかったのだけれど。
 0.1ミリの壁を保ったまま、汀は小さく首をかしげた。
「オサにもっと会いたい。これでいい?」
 きゅっと梢子の眉が寄った。しかしその一瞬前、確かに口元が緩んだのを見逃さない汀である。
「な、なんだか私が無理やり言わせたみたいじゃない」
「いや言わせようとしてたでしょ、明らかに」
「別に、そんなこと……」
 言葉を真っ向から裏切っている表情を認めて、汀は満足そうに笑ってから身を起こした。
 知らず知らず力の入っていた梢子の肩がリラックスする。「オサが違うって言うなら違うのかもね」嘘が下手な彼女を前提としたからかい。剣呑な視線が飛んできたが、汀はころんと寝転がることでそれを避けた。
 呪の這う左腕を枕にして梢子を見上げると、彼女はどうしていいか判らないといった表情で視線を受け止めてきた。見つめる先は深くも暗くもない。浅はかで純粋。けれど彼女は言葉にしない。気づいていないわけでもないだろうに。そこまでこちらに言わせるつもりか。
 しどけなく寝転がった姿勢で汀は梢子を見つめている。
「ねーねー、オサ」
「なに?」
 浅はかで純粋でたかだか0.1ミリの壁に阻まれている欲求。
「オサに触りたい」
「…………」
「オサの全部に触って滅茶苦茶にしたい。オサに滅茶苦茶にされたい。
ねえ、どうしようか、オサ?」
「……馬鹿」
 それは二人の身体を構成する螺旋が発する本能で、そしてまた、螺旋の発するはずのない感情だった。
 現代科学が解明しえた螺旋は全体のわずか五パーセント、他の九十五パーセントは『ジャンク』と呼ばれるブラックボックスである。
 その九十五パーセントのどこかに感情が起因しているのか、それとも螺旋はなんの関係もなく、ただただ、二人が二人であったこと、小山内梢子と喜屋武汀であったことが原因なのか、解答をくれる誰かはどこにもいないけれど、現実、そして真実、そんな本能と感情は存在していた。
 そういえば左腕を這う呪言は絡みつく螺旋に似ている。途切れ途切れの黒いラインは、二匹の蛇が絡み合う構図を意匠化したものに見えなくもない。
 ならば、それを持つ己は、能弁な交渉者か。悪くないが受け入れる気にはならない。
 こんなものは、ジャンクとしてさっさと捨ててしまうに限る。
 己が抱くのは卑しさだけで、癒しなどは持ちたくないのだ。
 むしろ、神への贄を気に入られた羊飼いから呪いを受ける嘘つき、そちらの方が自分らしくて良い。自身の持ち物ではなく、誰かに押し付けられた結果なのだし。
 清廉な正直者が、穢された嘘つきへ頬を寄せる。逃げ道をふさぐかのように両腕を頭の側へつき、もどかしげな表情をそのおもてへ乗せた。吐息が絡む。双方ともに自制心が絡む吐息を乱して、睫毛を伏せた半分程度の眼差しはどこか決闘を思わせた。
 梢子の手のひらが汗ばんでいる。親指を握りこんでそれを隠す。成り行き任せで痛い目を見るのか、そんな学習能力のないことをするのか、けれどまた結果が幸福をもたらすことを期待するか、それとも冷静に避難するのか。
 あるいは、なりふり構わず救済を目指すか。
「その……汀」
 梢子がためらいがちに口を開いた。「ん?」汀は喉の震えだけで応じる。
「痛かったら、言ってね」
 軽く誤解されそうな台詞だった。
 汀はくつくつ喉を鳴らして「大丈夫」と気楽に答える。
「オサにだったら痛くされてもいいし。ていうか痛いのはオサの方だし」
 だから早く。視線で急かすと、彼女はせき止められていた息を一気に吐き出して、ぐっと身体を丸めるように汀の身体を抱きこんだ。
 二人の間から火花が散る。青白いそれは視認できるほど強く明るかった。梢子の食い縛られた歯の隙間から噛み殺しきれなかった呻き声が洩れ出た。火花の余波を受けながら汀は荒れ狂う左腕を押さえつける。逆の手で彼女を抱き寄せ、その耳元へ唇を寄せた。
「……オサ、あたしを好き?」
 乾いた衝撃の間隙を縫った問いかけはやっとのことで梢子へ届いた。彼女は苦しげな表情で片目を開ける。そこには苛立ちと拒絶があった。
「嫌い」
 きっぱりと告げるその声に迷いはない。
 
「こんなふうに私を拒む汀は、大嫌い。顔も見たくない」
 
 「ビンゴ!」瞬時、汀が嬉しげに吠えた。左腕の暴走がいや増す。同極の反発。さあ『果たした』だろう。さっさと出て行けば良い。未来永劫神に届かない呪詛を吐き続けていれば良い。どうせこちらには届かない。神に愛されたのはこちらだ。哀れな羊飼い程度に彼女は奪わせない。
 最後に強く弾けて、左腕が軽くなった。細長い煙が立っている。絡み合いながらなびくそれは昇華の証拠だった。汀は何度か手を握ったり開いたりして感触を確かめる。嫌なものはない。完全に抜けたようだ。
 ぐたりと梢子の身体から力が抜けた。それはそうだ、こちらは余波程度で済んだが、彼女はかなりの衝撃を受け続けたはずだ。肉体的にも、霊的にも。しばらくは起き上がることもできないだろう。
「お疲れ。いやー、見事に解けたわ。まさかここまで上手く行くとは思わなかった。
これもオサの愛のなせる業かしらね」
「……ばか」
 倦怠感に溢れたその口調は、疲労のせいか呆れたのか、ちょっと判別がつかなかった。
 汀が両腕を彼女の背中にまわす。手のひらから伝わる雪解けの柔らかさと、その奥に潜む息づく大地。0.1ミリの壁は崩壊し、束縛もなく、そよぐ温風が汀の頬をかすかに撫でる。
 わずかに視線を下げて梢子の様子を確認するが、特に目立った傷はない。内部はひどいことになっているのかもしれないが、まあ一眠りすれば回復するだろう。
「――――もう二度と、こんな思いはしたくない」
 睡魔とつばぜり合いながら梢子が小さく呟く。独白のつもりだったのだろうかと思ったが、とりあえず、「そう」と相槌を打った。彼女がどんな意味でその言葉を吐いたのか、興味を覚えたけれど尋ねたら離れてしまいそうだからやめた。
 やんわりと髪を撫でてやると喘いでいた呼吸が落ち着いて、次第にまぶたが下りてきた。未練がましく汀の手を掴んでくる。汀は宥めるようにその手を握り返した。彼女にしては珍しい甘え方だったので少しだけ面白かった。
 どうしようもなく休息を求める身体と精神が急速に眠りへ落ちていく。握り合った手がほどけていく感触で汀はそれを知覚する。
 とろとろまどろむ梢子へ、くすぐるように触れるだけのキスをすると、彼女はぼんやりしたまま応じてきた。意図を示唆するものはなかったが、愛おしさはある行動だった。
 彼女の身体を抱きくるみ、寝かしつける仕草で背中を撫でてやる。
「ねえオサ、あたしのことどう思う?」
 冗談半分に尋ねる。
 返答は安らかな寝息だった。
 
 
 
 
 彼は一瞬止まって、それから一歩後ずさった。「いや、すまん、邪魔した」緊張した唇が遠慮がちに告げて、そのまま引き返そうとしたが、大切な事に気づいてその足を止める。
「汀。お前さん、解けたのか?」
「ああ、若。見ての通りです。オサにお礼しといてくださいよ」
 熟睡している梢子を抱きくるんだ体勢で答えると、正武は「そうか」と幾分ホッとした表情で頷いた。彼はその場に留まったまま二人を交互に見比べて、どちらにも大事はないと判断したか、さらに表情を緩めた。
「それほど厄介な術じゃなかったから心配はしていなかったが、それにしても早かったな。汀、小山内さんに無茶をさせたんじゃないだろうな」
「あたしがするなって言っても無茶するやつですからねー。それなら、さっさと終わった方が得でしょ。どうせ、あたしが何言ったって聞かないし」
 呆れ混じりに溜め息をついた正武がじとりと汀をねめつけた。「あまり甘えるな」危機感のない言葉だった。汀の覚えていた飢餓感に比べれば、それこそ甘い忠告だ。
 だらしなく寝転がった汀の視線の先、斜めに傾いだ大柄な青年へ見せつけるように、こちらへ身体を預けている彼女の髪へ口付ける。彼は唇を引くと喉の奥で小さく唸った。
 判った判った、というように胸まで手を上げてくる。
「俺が悪かった。もう野暮は言わん。だからそういうことは二人きりの時だけにしておけ」
「んひひー。乳臭いガキに照れてるんですか? 若、けっこう純情?」
「……本気でそう思ってるなら、牽制なんぞするんじゃない」
 正武は苦りきった顔で目を逸らす。まったく、独断専行や命令違反ならいくらでも説教できるが、さすがにこれは口出しするわけにもいかない。馬に蹴られてしまう。
 蹴られたところで跳ね返せるくらいの頑丈さは持ち合わせているものの、やはり蹴られたら痛いだろう。そんな状況は御免こうむりたい。そのため、党首を前にしてダラダラと寝転がっている彼女の姿勢についても言及できない正武だった。身を起こせ、と言ってしまえば、それは安らかに寝入っている彼女と離れろという意味と同義になる。ただでさえこのところ鬼が活発で、西へ東へ走らせていて、さらに呪いのせいで触れられない時間が長引いたのだ。そんな無神経な発言をしてしまったら、冗談ではなく馬の一頭や二頭けしかけてきそうである。
「小山内さんもお疲れだろう。今晩はこちらに泊まっていってもらえ」
「当たり前じゃないですか」
「お前さんが……いや、決めてもいいのか」
 そろそろ汀と会話するのが疲れてきた。気遣いによる気疲れである。
「では、俺は党の連中に伝えてくる。お前さんたちは……まあ、ゆっくりしてろ。しばらくここには誰も寄越さんようにしておく」
 どうにも調子を狂わされてしまった正武が、力なくそう言って、部屋の戸を閉めた。結局、彼は一歩たりとも中に入ってはこなかった。賢明な判断である。
 静寂を取り戻した室内で、梢子が小さく身じろぎをした。会話に意識を引き上げられたのだろうか。汀は優しく彼女の背中を叩く。浮上しかけた意識はすぐに沈んで、それでも無意識の愛情が腕に表出してきゅっと抱きついてくる。
「ほんとに……ヘタレのくせに無茶するわよね」
 呪いに逆らい、神を従え、過去に決別して。
 滅茶苦茶だ。純真な純心は一本気のように見えてバラバラで、元は綺麗な形をしていたのだろうけれど、色々欠けたり折れたりして、すでに彼女はジャンクと言えた。
 梢子をジャンクたらしめた汀はそれでも幸福そうに笑う。
 逢えない時間とか、伝わらない言葉とか、可愛い嫉妬だとか、相手への不満だったりとか。
 そういうものは汀も壊す。ジャンクとジャンクを組み合わせて出来上がるのは、単純な恋だった。
「反省しても改善しないのは、あたしの悪いところかなー」
 手遊びに彼女の髪を指先へ巻きつけながらひとりごちる。彼女が初めてぶつけてきた、単純な恋を火薬にした弾丸。それは確実に汀を撃ち抜いたのだけど、血は流れず、だからおそらく、治りもしないのだろう。
 甘えるなと言ってきた正武の言葉を思い出す。なるほど、これは甘えか。
 不満がどれだけあろうと彼女は赦す。そう判っているから。
 あまりといえばあまりな、本当に滅茶苦茶な恋心だった。自身に触れてこない汀を完全に拒絶するほどの、無茶というより無体な純情である。
 髪で遊んでいたせいか、「んん……」梢子がかすかに呻いてうっすら目を開けた。
「起こした?」
「眠いんだから、鬱陶しいことしないで」
「……ひどっ」
 第一声がそれか。なんという愛想のなさ。いや、それは初対面の時もそうだったか。基本的に彼女は愛想がない。
 疲れが抜けきっていない梢子は彼女らしからぬ怠惰な風情で、一度上げた顔を汀の胸元へ戻した。それを受け止めながら、汀は彼女の耳元で、ねだるように囁く。
「オサ、今日泊まっていくでしょ?」
「いいけど」
「あたしも一緒でいい?」
「いいけど」
「いやらしいことしていい?」
「馬鹿」
 寝ぼけていてもそこはさすがに理性が働いた。
 きゅむきゅむと梢子を抱き寄せてじゃれつくと、彼女は鬱陶しそうな、けれどどこか嬉しそうな様子で、「くすぐったい」と文句をつけてきた。
 汀はそれに構わずじゃれ続ける。
「ありがとう。オサのおかげで助かった」
「別に、大したことはしていないけど」
「したじゃない。なんか色々言われたしー?」
 「それは……」梢子が言いよどむ。後悔はあるのだろう。こちらがけしかけたのだから、そんなに気にするようなことでもないのだが。ちょっと面白かったし。
「それにしても、まだ姫さんにだけ番号教えたの根に持ってたわけね」
「や、その……売り言葉に買い言葉だったのは判ってるんだけど。……し、仕方ないじゃない……」
 ごにょごにょ言い訳をしてくるのに汀は音もなく笑って、梢子の直線的に落ちる前髪をかきあげた。
 あらわになった額へ唇を当てる。そこから鼻先へ降りて、一拍を置いてから唇へ。
「番号は姫さんにも教えたけど。
こういうことするのはオサだけなんだけどなー」
「あの時はしてくれなかった」
「あの時からしてほしかったの?」
「そ、そういうわけじゃ……」
 番号交換は流れとか必要に迫られてとかがあったけれど、『こういうこと』には流れも必要もなかった。ただ恋だけがあった。彼女もそれを判っているのだろう。しかし言葉にするのは恥ずかしいのだ。ロマンチストのくせに恥ずかしがりやさんなのである。
 「ニヤニヤするなっ」頬を紅潮させながらこちらの頬を引っ張ってくる。ちょっとからかいすぎた。そういえばこれも不満点として挙がっていたか。どうも治せる気がしない。
「一応、あの時もしたじゃない」
「い、一応、ね」
「あれはオサ以外の誰かにしたっけ?」
 うぅ、と唸り声。問答無用の特別扱いに梢子は反駁の手段を失くす。
「も、いい。最初から口で汀に勝てるとは思ってないし」
「じゃ、何なら勝てるの? 剣道でも後れは取ってないと思うけど」
 その他諸々、拮抗している部分はあっても明確に劣っている部分というのは、こちらとしてはちょっと思いつかない。
 視線が揺れて、逃しどころを見つけられなかったか額ごと落ちた。
 うん?と訝っていると彼女はそのままの姿勢で、
「……気持ち、とか」
 小さく言った。
「なるほど、それは負けてるかもしれないわ」
「なっ」
 負けを認めたのに、それはそれで不満なようで、梢子は硬い声を洩らすと苛立たしげに汀の服の裾を強く掴んだ。
 汀は子どもっぽい抗議行動に笑みを誘われながら、碧い双眸をやんわりと細める。
「確かめてみる?」
「……なにを?」
「あたしの気持ちがどれくらいか。オサに勝ってるのか負けてるのか」
 まあ正直に言えばそのへんも負けてるとは思わないが、本気で拗ねる彼女がちょっと楽しいというか可愛いので。
 ああ、そうそう。
 可愛らしさは、勝てる気がしない。
「あ、今ってひょっとして『愛してる』とか言うタイミングだったりする?」
「……言わなくていい」
 知ってるし。消えかけた語尾にニヤニヤ笑ったら鼻をつままれた。
 手を外させて、笑みを少しだけ消す。視線の意味を変えたら彼女も同じだけ意味を変えた。
 そういう流れを生む必要に迫られていた。
 頬を撫でて、親指でまぶたをなぞって閉じさせる。顎を上げて彼女の唇を捕まえると、そのまま身体全部で引き寄せた。
 絡み合う癒しと卑しさ。
 深く深く染み込む甘さと浅ましさは、縒り合わさって一本になる。
 それはジャンクとジャンクが作り出す、単純な恋という名の螺旋だった。
 
 この想いだけは、翳る気がしない。



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