ファントムペイン


 地下の空気は冷たい。底冷えしそうな冷気が汀の肌を刺している。
 けれど彼女はそれを感じていなかった。もう慣れたのか、己の体温が同じほど下がっているのか、汀には判断がつかない。
 右手がうっそりと重かった。押さえつけられているわけでも枷があるわけでもないのに。
 そうだ、重荷はない。そんなものはない。右手にあるのは繋がりだ。それだけだ。
 
 ぼんやりとした双眸が映すのは、粗末な木の格子と、接ぎを重ねた障子紙のようにベタベタと隙間なく張られた護符のたぐい。空いているのは汀の正面、蝶番で止められた戸の部分だけだった。戸は腰ほどの高さしかないから、近づかなければ外の様子は伺えない。
 力の失せた、色々な力を失ったその目では護符はただの紙としか思えない。
 あんなものに力などないのだ。この身をここに留めているのは右手の繋がりだった。
 ざんばらに伸びた髪が鬱陶しかったが、汀にはもうそれをどうにかする方法がなかった。肩より上に手を上げることにすら苦痛を伴う。
 
 外で音がした。鍵を開ける音、戸を開く音、そこで音は途切れた。
 一連の音と無音で汀が来訪者が誰なのか悟る。
 
 予想通り、隻眼の鬼が片膝を折って覗き込んできた。
 
「よう、汀。息災か?」
 問われた汀は力なく笑う。今ではこんな冗談を言ってくれるのは彼女だけになった。
「なべてことなし、ですね」
「ふむ、それならば良いとは言えんが、悪くもないな」
「コハクさん、近づきすぎるとヤバいんじゃないですか?」
 符に触れてはいないが、少し近すぎるように見えた。鬼である彼女にとってここはけして楽な場所ではない。
 コハクは馬鹿にしたような笑みで鼻を鳴らすと、見せつけるようにずいと一歩、さらに戸へ近づいた。
「見くびるなよ小娘。この程度の結界、わしが恐れると思うかよ」
 この程度とは言ってくれる。守天党の強者が総出で作り上げた結界だというのに。
「やせ我慢は身体に毒ですよ」
「その言葉、そっくりおぬしに返してやるわ」
 肩をすくめて見せたかったのだが、どうにも右手が重くて叶わなかった。
 
 腰を下ろし、真正面から汀を見据える形になったコハクが、膝に乗せた手で頬杖をついて唇をゆがめた。
「……まだ、諦める気にはならんか」
「若の差し金ですか」
「まあな。あの若造、でかい図体折り曲げてわしに頼んできおった。あやつにそうされると、どうにも心持ちが悪くてな」
 少々苦い表情で答え、「食え」持っていた包みを格子の隙間から投げてよこした。
 見事に膝上へ着地した包みを左手で開ける。馴染み深い栄養補助食品とパックタイプのゼリーが入っていた。すでに封が開けられている。汀を思いやってのことだろう。
 粉っぽいブロックを口に入れて噛み折る。ずいぶんと長い時間をかけて、汀は一口目を飲み込んだ。辛い。そろそろこれも受け付けなくなってきたか。
「わしとしては、さっさとおぬしを飢え死にさせてしまえば良いと思うがな」
「はは、ひどいなぁ」
「おぬしが忍びないと言っておるのだ」
「忍なのに、忍びないですか」
「おぬしはもう、そんな立場にないであろう。おぬしは……ただの人身御供よ。それも自ら望んでな。だから忍びないのだ」
 だから、という彼女の呟きは意味が判らなかった。
 
 何度も吐き戻しそうになりながら汀は食事を終える。動いたせいか、右手の繋がりが少しずれた。左手で位置を直す。
 
 繋がりは細く、赤かった。
 赤は内側の空洞を通る液体の色を透かしたものだ。
 常に流れるそれは、別の左手首に潜り込んでいる。
 
「もうやめぬか? 諦めぬか?
早晩おぬしは力尽きよう。そうなれば、待っているのは同じ結末であろう?」
「いくらコハクさんの言うことでも、聞けません」
 それだけは強く、汀は告げた。
 哀れみを右だけ開いた瞳に浮かべて、コハクが溜め息をつく。
「おぬしはもっと、梢子を軽んじていると思っておったがな」
「軽んじてますよ。軽すぎて、押さえとかないとふわふわ飛ばれて目障りなんです」
「己の血で縛り付けておかねば気が済まぬか」
「他に適当な糸がなかったもんで」
 
 汀の傍らで眠る身体がある。
 その全身は禍々しい瘴気に染まっていて、変異した牙が唇をめくり上げて覗く。
 けれどその寝顔は安らかだった。芝生のひだまりで昼寝をしているような、心安らいだ寝姿で、彼女はそこにいた。
 そして、寝姿には似合わず、その身を覆う瘴気には相応しい、右手の剣。
 それは小さく揺れていた。小刻みな振動は結界と反発している影響だった。リィンリィンと鳴り続ける反発音を、汀はいつしか聞き取れなくなっていた。
 
 コハクは忌々しげに《剣》をねめつけると、同じ視線を汀へも向けた。
「結界とおぬしの血、二つで封じても完全には封じ切れん。
おぬしより強い血の持ち主であれば、あるいは……とも思うが、おぬしはその役を他の者に譲る気はないのであろう?」
「そりゃそうですよ。これはあたしの特権ですから」
「しかし、おぬしの血はなんら特別なものではない。《剣》を封じ切れる血の持ち主が見つかれば、代わってやっても良いとは思わんか」
「思いませんね」
 そんな存在が見つかるとも、譲りたいとも思わない。
 これは自分の役目だ。自分が得た役目だ。党においては役なしだったが、ここに来てようやく役を得られたのだ。誰が他人に譲ってやるものか。
 代わったらきっと、正面にいる彼女はその誰かごと梢子を切るだろう。
 
 自分でなければならない。
 
 彼女が恩義を持っている守天党に属し、彼女に切られることを了承しない喜屋武汀でなければ、ここにいてはいけないのだ。
 
 出口の見えないやり取りに苛立ちを覚えたか、コハクの牙がきしりと音を立てた。
「……なぁ、汀。おぬしはあの時、梢子を切ろうとしていたのではなかったのか?」
 汀はその時のことを思い出そうとした。
 ずいぶん前のような、ほんの少ししか経っていないような、奇妙な気分だった。
 髪をわずらわしいと思う程度の時間は経っているのだろうけど、どうも実感がなかった。
 おそらくは何かを絶ってしまったからだろう。
 
 懐かしいな。
 面倒くさかったけど、楽しかったな。
 
 どうしてか、《剣》に憑かれた彼女と切り合った時ではなく、それより前の、不本意ながら集団へ入り込まなければならなかった頃のことを思い出した。
 小さいくせにやたらと元気な少女のこととか。
 大人しくて聡明な少女のこととか。
 ほのかで優しくて、少し嫉妬深い少女のこととか。
 
 謝っておいた方が良かったかな。
 最後に思い出した彼女へそんなことを思って、なるほど、どうも弱っているようだといまさら納得した。
 今も妬くだろうか。
 それとも、誰か他に大切な人を見つけただろうか。
 黙して答えない汀を案じたのか、コハクが手にした日本刀の鞘を地面に打ちつけた。
「汀。気をもて」
「大丈夫ですよ。ちょっと懐かしがってただけ」
 血を抜かれ続けているせいでうっそりとだるい右手を、梢子の髪へ伸ばす。
 《剣》の力がそうしているのか、彼女の髪は伸びもせず、さらりと良い手触りだった。
 するする撫でながら口元へ笑みを乗せる。
 返してやりたいとは、思えなかった。
 
 コハクは頬杖をやめて腕組みをすると、ちらりと脇に置いた日本刀へ目をやった。
 汀が目を細める。
「時間が経ちすぎた。《剣》と梢子の手は癒着してわしでも取れん。
しかし、だ。おぬしもわかっていようが」
 コハクの右目がじっと汀を見据える。表情の変化を待っていたらしいが、それが現れないと知って残念そうな顔をした。
「……梢子の腕を切り落とせば、わしが《剣》を封じることは、可能だ。梢子も《剣》の呪縛から逃れられる」
「お断りします」
「……まあ、そう言うと思っておったがな」
 仕方のないやつだ。彼女の表情はそう言っていて、聞き分けのない子どもの気分がそれほど嫌ではない汀だった。
「切ろうと思ったんです」
「うん?」
「あの時、あたしは確かに、オサを切ろうとしていたんです」
 確かな記憶だった。
 彼女の未来を奪おうと、彼女のすべてを断ち切ろうと、そう決意して臨んだ。
 《剣》を振りかざしてきた彼女へ、どんな顔を見せていたのか、それは判らないけれど。
 削げ落ちた肉体を酷使して、刀を構える真似をする。
「初めて手が震えました」
 コハクが瞑目した。感情は、読み取れない。
「鬼切り部失格だな」
「でしょう?」
 だからこの道を選んだ。梢子ではなく、己の未来を閉ざした。
「ああ、あたし、オサの身体を傷つけたくないんだなあって、そう思ったら、駄目でした」
 我ながら驚きだった。たかだか出会って五日の、なんらえにしがあったわけでもない赤の他人にそんなことを思うなど。
 鬼切り部としてあってはならない弱さだった。だから鬼切り部としていられなかった。
 
 目を開け、顔を上げたコハクは、はっきりと怒りを見せていた。
 
「たわけが! おぬし、梢子より長く生きたくないだけか!!」
 ぴしゃりと言い当てられた汀は笑う。
「ならば、わしに切られよ。先ほど言ったな、もう鬼切り部では、守天党ではないと。
そうであればわしも遠慮はせぬ。吠丸で引導を渡してやる」
「それじゃあ、駄目なんです」
 それでは駄目なのだ。きっかけになるのはいい。
 けれど、それを己が知覚するのは、嫌なのだ。
 
 なんのことはない、ただの我侭だった。
 
 このまま衰弱していって、意識をもやにまぎれさせて、知らないうちに魂を失くして、
 そうして知らないうちに終わってほしい。
 
 汀は最後まで、未来を知りたくなかった。
 
 己の右手と梢子の左手の繋がりが、汀を眠らせてくれなくなって久しい。
 眠りたい。ぐっすりと深く深く眠って、そうしてそのまま終わりたい。
「お願いです、コハクさん。あたしが死んでからなら、何をどうしたっていい。
だから今だけは……あたしとオサの糸を、切らないでください」
「……馬鹿者が。おぬしはもう少し賢いやつだと思っておったがな」
「自分でも、そう思ってたんですけど」
 吐き捨てるような言葉は汀に刺さらず、手前に落ちてべちゃりと潰れた。
 汀には何も届かない。言葉も、優しさも、愛情も、厳しさも、憐憫も。
 変化を促すなにものも彼女の手前で失速して、ただただ腐っていくばかりだった。
 
 それから二人、しばらく無言でいた。
 汀と梢子を繋ぐ赤い糸だけが脈打っていた。
 汀はずっと、梢子の髪を指で梳いている。
 ひんやりとした空気が静かに流れる。コハクが立ち上がったことで凪いでいた空気が流れた。汀は茫洋とした瞳でそれを眺めていた。
「おぬし、生きたくはないのか?
わしのように倦むほど長く生きているわけでもあるまい。
おぬしはもう、先を求めぬのか?」
 哀れみのこもった声が、やはり汀の手前で落ちた。
 怒鳴りつけて、今度はなだめて。本当に子どもを相手にしているような態度だ。
 彼女にしてみれば、こちらなど生まれたてと等しいのだろうけれど。
「先は……。そうですね、未練もありますけど。
でも、仕方ないでしょう?」
 疑問形で汀は言う。「……たわけが」コハクが奥歯を噛み締めた。
 そのコハクが揺れた。汀は訝しげに眉を寄せると何度か瞬きをした。視界は戻らない。揺れはどんどん大きくなっていく、コハクが二人に三人に。
 衰弱のために目眩でも起こしたかと思ったが、それにしては長い。
 揺れるコハクが小さく首を振る。
 
 どうしてだろう。
 どうして彼女は、あんな痛々しい顔をしているのだろう。
 死に向かう汀に対する哀切ではなかった。
 あれは、あの表情は……。
 
「先ほどの、おぬしの頼みだが。聞けぬ」
「…………っ」
 可能性に気づいて眉間にしわが寄った。
 彼女が来てからどれほど経った?
 ……食事を、彼女が持ってきた、封の開いた食事を口に入れてから、どれだけの時間が過ぎているのだ!
「一服盛らせてもらった。なに、命を取るわけではない。ただわずかばかり眠ってもらうだけよ」
「コハク、さん……っ」
「おぬしは守天よ。いかに己で違うと吠えようと、あの若造が認めん限り、おぬしは守天党の名から逃れはせん」
 静かに、凄絶に、コハクが笑った。
 ひどく嘘めいた笑みは、無理やり汀を生きながらえさせようとする決意に満ちていた。
「大人しく諦めていれば、すぐに中和剤を渡してやろうと思っておったのだがな。強情を張ると良いことはない」
 ギリギリと唇を噛む汀の顔面はすでに蒼白。
 梢子の手を握った。強く強く、力の限り掴んでいるはずなのに、不安なほど手ごたえがなかった。
「守天の頭が膝を折ってわしに頼み込んできたのだぞ? 説得だけで済むと思っておったのか?」
 コハクの手元で火花が散っている。結界を乗り越えようとしているのだろう。
 出るに難く作られたこの結界は、進入するだけならそれほど難しくはない。彼女の力なら入るのにそうそう時間はかからないだろう。
 そして、事が済めば(それが何を意味するのか、汀は考えたくなかった)、守天の術者は用済みの結界を解除する。そうなれば、出るのはたやすいどころの話ではない。
 汀はくずおれた姿勢で、それでも視線をコハクから逸らさず、右手を梢子から離さない。
 どちらかをやめてしまえばそこで終わる、とでも言うように、コハクを睨みつけて、梢子を掴み続ける。
 無駄な抵抗だと、判ってもいたのだけれど。
 火花が止む。コハクが両手から煙を上げながら、細くて鈍く光るものを抜き出した。
「のう、汀。おぬしはもっと育て」
「……嫌だ……!」
「そうか」
 コハクが腕を振り下ろした。
 汀の右手首が爆ぜて、赤くて細いものが二つに分かたれた。
 舞い上がる埃と風圧と砕けた床の欠片に目を痛め、涙を流しながらそれでも汀は瞠目したままそちらを見ていた。
「――――オサ!」
 嫌だ。
 こんな未来は、知りたくない。
 
 こんな痛みばかりの眠りなど、ほしくはないのに。
 
 
 
 
 見知った天井があった。暖かで、穏やかな天井だった。
 いっそ天上に昇ってしまいたかったと願う心とは裏腹に、その天井はあまりにも平和すぎた。
 加えて知りすぎているほど知りすぎている気配がすぐ傍らにあって、さらに汀を失望させる。
「起きたかよ、汀」
「……見たら判るでしょう」
「それだけ弱っても口は減らんなぁ、お前さん」
 溜め息交じりに、言葉だけはおどけたような呟きを、守天正武がこぼす。口調が重々しすぎて、とてもじゃないが笑えなかった。
 天井を見ていた目を正武へ移す。彼は居心地の悪そうな顔で佇んでいた。
「オサは」
「……お前さんの覚悟が出来たら会わせてやる」
 汀は嘲笑じみた笑みを口元だけに浮かべて「覚悟?」と問いかけた。
 いったい、何をするのにどれだけ覚悟が必要だと言うのだ。
 挑みかかる視線を受けて、正武は小さな嘆息を自身の膝へと落とす。
「いらんか」
「いらないですよ」
「……お前さんに《剣》の件を頼んだ時は、まさかこんなことになるとは思わんかったな。
俺が見誤った。すまん、汀」
 膝に両手をついて、深々と頭を下げる正武。汀は、あなたのせいではないと慰めることも、お前のせいだとなじることもなく、ただじっと、彼の姿を見ていた。
 正武がゆっくりと頭を起こす。彼の双眸は苦悩していた。
 「お前さんを死なせるわけにはいかなかった」守天党の党首としてか、もっと個人的な情によるものなのか、彼は誠実な口調で告げる。
 こういうのを選んだ方が楽なのになぁ、と汀はぼんやり、こちらを見つめてくる彼を見返しながら考えていた。
 別に惚れられているわけでもなく、こちらも親しみやすい上司以上の感情を持ってはいないが、もし誰かを選ぶのであれば、彼のような人間を選ぶべきなのかもしれなかった。
 その方がきっと簡単だったし、きっと幸福だったろう。
 たとえば今、彼が手を差し伸べたら汀は取るかもしれない。
 けれど彼は絶対にそうしないのだ。そういう人間だから選ぶに相応しい。
 選ばないし、選べないけれど。
「オサに会わせてもらえますか」
「……おう。案内する。一人で立てるか?」
「大丈夫です」
 ふらつきながらも上体を起こし、それからゆっくりと立ち上がる。
 自身を見下ろすと、全身の筋肉がこそげ落ちていた。よくここまでみすぼらしくなれるものだと汀は逆に感心する。
 右手が目に入った。
 白い包帯が巻かれている。
 赤い糸はどこにもなかった。
 
 
 
 
 正武に案内されて、梢子の眠る部屋へ入る。彼女の傍らには刀を抱えるようにして座り込むコハクの姿があった。
 汀を見止めたコハクがつまらなそうな視線をよこしてくる。
 その視線が汀の目を追い、横たわっている梢子へ向けられた。
「梢子なら、じきに目覚める。おそらくそれが最後だろうな」
 それが終われば、訪れるのは最期。
 正武がコハクへ歩み寄って、その耳元に何かを囁いた。「判っておる。わしとてそこまで無粋ではないわ」こちらは別に隠そうともせずに応じていた。
 コハクと連れ立って正武が部屋を後にする。横を通り過ぎる時、ぽんとひとつ頭を叩かれて、それは謝罪とか慰めとか無意味な親愛とかを含んでいた。
 
 残された汀は静かに梢子へ歩み寄る。
 近づくと、梢子の周りには死が漂っていた。
 先ほどまでコハクが座っていた位置に腰を下ろして、背を丸めて寝顔を眺める。
 呼吸は穏やかだった。表情も平穏だ。指先で頬に触れると柔らかかった。温かいのかどうかはよく判らない。
 
 確かめたいことがあって、汀は彼女にかけられた布団をめくり上げた。
 顔から首、肩を伝って右半身を視線が降りていく。
 息を殺してゆっくりゆっくり、さながら傷つき眠る獣のそばへ近寄るように、汀は彼女の身体を眺め下りる。
 それが止まった。
 かすかに息をつく。
 
 梢子の右腕は肘から下を失くしていた。
 
 ああ、やっぱりと、なんの感慨もなく汀は思う。
 確かめなくても知っていた。彼女の周囲に忌々しい死はあっても禍々しいものはない。
 
 彼女の身体が傷つけられてしまった。
 
「……オサ……」
 本当ならとうに過ぎていたはずのことなのだと、判っていても悲しかった。
 こうしたくなかったから、自身の未来を捧げて彼女を捕らえたのに。
 梢子のまつ毛が小さく震える。汀は布団を戻そうかと迷ったが、結局そのままにした。
 ゆるゆる彼女のまぶたが上がって、天井より先に汀を捉えた。
「……汀?」
「おはよう、オサ」
 梢子はぼんやりとしている。それはそうだろう。彼女の記憶がどこまで残っているのか知らないが、見知らぬ場所に寝かされて、起きたら隣に汀がいる。状況を理解しろという方が無理だ。
「髪、伸びてる」
「ちょっと気分転換にね」
「なんだかやつれてるみたいだし」
「んー、ダイエット?」
 「なぁに、それ?」梢子は小さく苦笑して、馬鹿なことをするなと諌めてきた。
 本当にその通りだ。馬鹿なことをして、未来を知りたくないと駄々を捏ねて、結局、なにもできなかった。
 
 切ないほどに今だけが平和で、ハッピーエンドは遠すぎて。
 汀は泣きたくなった。
 
「ここ、どこ? みんなは? というか、今日って何日?」
 当然の疑問に汀は微笑で答える。
 「汀?」問うてくる眼差しがやりきれなくて、彼女の両目を手のひらで覆った。
「ねえオサー。今だけは、ミギーさんのことだけ考えてくれないかなー?」
「汀のこと? 正直、ちょっと飽きてるのよね」
「え?」
 手のひらで目隠しをされたまま、梢子はわずかに悪戯っぽい笑みを口元で示した。
「眠っている間、ずっと汀と一緒だったの。どうしてか汀は私を離してくれなくて、しょうがないから汀といてあげてたわ」
「しょうがないからって、あんたねえ」
 思わず拗ねた口調になってしまった。同時にあの冷たい地下がよみがえる。
 彼女は、あの冷たさを覚えているのだろうか。
「汀、いい加減手をどけなさい」
 言いながら梢子は目隠しを外させようと右腕を持ち上げた。
 結果が思った通りでなかったのだろう、戸惑いがちに唇が開いて、それを受けた汀がゆっくり手を外した。
 己に訪れた変化を視認した梢子がわずかに目を瞠る。
「……これ」
「盤座で、オサは《剣》に憑かれた。《剣》をオサから離すには、そうするしかなかった」
「汀が?」
「いいえ。コハクさんよ」
 その返答に、梢子は複雑な表情を浮かべた。
 良かったと思ったようにも、残念だと思ったようにも見えた。
 腕を下ろした梢子がかすかな嘆息を洩らす。
「これじゃあ、もう竹刀は握れないわね」
 瞬間。汀に激情が走る。
 固く握った拳を床に押し付けて、身体の内側に渦巻くなにかに耐えた。
「そうよ! だから、だからあたしは切れなかった!
あんたと鳴海夏夜をつなぐものを、あたしは切りたくなかった!」
 そして迎えた結末はなんだ? 無だ。なにも無い。
 
 もっと早くこうしていたら彼女の命は無くならなかったかもしれない。
 もっともっと早く、あの盤座で彼女を切っていたら、彼女は夏夜と同じ場所で、二人一緒に眠れたかもしれない。
 
 けれど、けれど……汀はどちらも嫌だったのだ。
 彼女のなにも自分の手では奪いたくなかったし、誰かに彼女を奪われたくはなかったのだ。
 
 一度強く、奥歯を噛んでなにかを堪え、汀は呆気に取られている梢子を睨みすえる。
「オサ……。あんたもう、助からない。《剣》に魂も魄も侵されすぎてて、誰も……あたしも若もコハクさんも、あんたを助けてあげられない」
「ああ、そうなのね」
 梢子は汀の言葉に痛ましげな眼差しをしたけれど、それは自分自身にではなく、傍らでうなだれる汀へ向けられていた。
「道理で起きてからずっと、全身に力が入らないはずだわ。あの合宿からずいぶん経っているのね」
「……ん」
「汀」
 汀、と梢子は優しく名前を呼ぶ。愛しささえ、あると思えばある声だった。
 身体が動かないから、梢子は声で汀を抱きしめる。
「泣かないで、汀」
「別に泣いてないわよ」
「そう。私の気のせいかしらね」
 衰弱しているせいで視界がゆがむ。「あたしはあんたの右腕を切りたくなかった」繰り返し、汀は叶わなかった願いを口にする。
 沈鬱な思いはさらに視界をゆがめさせて、それでも汀は瞳をまぶたで覆わない。
 一秒はすでに金と等しい。終わるしかない、閉じるしかないこの先を惜しんで、何もかもけして見逃さずにいようと、汀は世界を睨み続ける。
 梢子が汀の手を、左手で取った。
「大丈夫よ。ほら」
 どこか得意げに、仲良しの友達へこっそり宝物を見せてあげる小さな女の子みたいな口調で、梢子は告げる。
「右手がなくなって、竹刀を握れなくなっても、私の左手はあなたとつながっているでしょう?」
「……オ、サ?」
 まさか覚えているのか。あの地下の蜜月を。
 それとも、ただの偶然か。
 梢子の親指がゆるりと手の甲を撫でている。温かかった。繋がっている右手と左手は、確かにどちらも温かかった。
 無意識に汀はその手を握り返し、両手で包み込んでいた。
「ねえ汀。泣かないで。私は、ここに……あそこにいてくれたのがあなたで良かったと思っているんだから」
「けど……あたしは……!」
「らしくないわよ。お願い、いつもみたいに笑っていて」
 まったく、無茶な要求をする!
 怒鳴りつけてやりたい気分になりながら、汀は彼女の首筋にかじりついた。
 最も望んでいなかった結末。あの日、選べなかった結末。
 死に水なんて取りたくない。どこかへ逃げ出してしまいたい。いっそ彼女をここへ放り出して正武でもコハクでも誰でもいいから押し付けてしまいたい。その方が簡単で楽で魅力的だ。そんなことは出来ないし選べない。もう嫌だ。何もかもがうまくいかない。最初の一手で逃げ出した汀にはもう逃げ場も活路も無い。
「ちょっと、汀、苦しい」
「あ、ご、ごめん」
 忙しなく身体を起こそうとしたが、それをさえぎるように彼女の左手がうなじへ回された。
 死臭が濃くなる。
「――――っ」
 左手はすぐに離れる。解放された汀は水を浴びせられた猫みたいに目を見開いて、その場に留まっていた。
 彼女は悪戯に笑っている。
「お釣りかしら。ずっと一緒にいてくれたことの」
「……それ、夢の話でしょ?」
「そうね、夢だけど。でも私は嬉しかったのよ。汀がいてくれて、汀といられて。
不思議なものよね。どうしてあなただったんだろうって思うけれど、同じくらい、あなたじゃなければ駄目だったような気もするの」
 ああ、あれは本当に蜜月だったのだ。
 恋人ではない、えにしで結ばれていたわけでもない、ただただ、赤い糸で繋がれた、運命の二人が二人きりで過ごした、甘い甘い蜜月だった。
 そうだ、あの頃、己は確かに幸福だった。
 眠る彼女の隣にいられたあの頃は、誰の目にどう映っていようと、なにものにも代えがたい幸せなひと時だった。
 だから奪われたくなかったのに。
「でも、今度眠る時は、汀はいなくていいわ」
「どうして。オサが嫌だって言ってもいるから」
「駄目よ。聞き分けなさい」
「同い年のくせに偉そうなこと言うな」
 やれやれ、という風に梢子が目を細めた。延ばされた指先が汀の目じりをなぞり、唇の端まで下りて口角を無理やり引き上げる。
「そんな辛気臭い顔されてたら、おちおち寝てもいられないわよ。
……ねえ、汀、笑って。私はあなたの笑っている顔が好きよ」
「……ばーか。オサのばーか」
 それでも汀は、えづきそうな喉を押さえながら、必死に努力して、ようやくほのかに微笑ってみせた。
 笑顔を確かめた梢子は満足そうに息を吐いて、汀の唇に触れていた手を下ろして、目を閉じて。
 もう二度と開けなかった。
 
 
 
 
 海風がなぶる髪が目にかかって鬱陶しい。
 夜明けの海は静かで厳かだ。入ろうとは思わないが、眺めている分には悪くない。
「ここにいたか」
 背後から声をかけられて汀が振り向く。「また逃げ出しおって。この軟弱者が」呆れた声に言い返す気も起きなかった。そんなことは言われるまでもなく自身で痛感している。
 逃げて逃げて、海まで来たらさすがにそれ以上進めなくて、汀は結局、一晩中ここに佇み続けた。
 遠くでたなびいていた煙はとうに消えている。あれは梢子だった。
 彼女が世界に融けたという証を、汀は遠くから見ていた。目を逸らすこともできず、かといってそばで見届けることもできなかった。
「《剣》の封印も済んだからな。わしはもうそろそろ眠るが、おぬしに一つ土産をやろうと思って探しておったのだ」
「土産?」
 下から掬い上げるような動作でコハクが小さなものを投げてよこした。
 片手で軽々と受け取った汀はそれへ目を落とす。
 小さな巾着袋だった。振るとカサコソ音がするので、なにか軽くて小さなものがいくつも入っているようだった。
 袋の口を開けて中を覗くと、白くて細長いものが見えた。
 
「梢子の骨よ。左手のな」
「――――っ」
 
 思わず取り落としそうになった。嫌悪からではない、急にその袋が重くなった気がしたのだ。
 両手で捧げるように持っているそれの中身を、再度確かめる。
 
 これがあの手か。己の右手を握って、頬に触れてくれた、あの温かな手か。
 
 袋の中に詰まったそれは、あまりにも冷たく、乾いていた。
 
 汀は袋へ指を入れると、手ごろな大きさの一片を摘み上げた。
 迷いもせず口へ入れる。「なっ、汀! おぬし何をしている!」予期せぬ行動にコハクが慌てて駆け寄った。
 コハクが止める間もなく汀はガリガリとそれを噛み砕いて喉へ押し込む。
 冷たく乾いたそれは引っかかりながら喉を下りて胃へと落ちていく。
 「……うぅ!」異物を送り込まれた胃が激しく痙攣する。汀は手のひらで強く口を押さえ、その場にうずくまって耐えた。
「馬鹿者! いくら好いた相手といえ、骨を食うやつがあるか!」
 口を覆っている手をはがそうとするコハクに抵抗しながら、汀はじっと嵐が過ぎるのを待った。
 身体の内側が暴れ回っている。辛くて辛くて涙が次々流れた。ついに額を地面へつけて悶え転がる。コハクは吐き出させるのを諦めたのか、暴れる汀を押さえつけた。
 
 しばらく待っていると次第に嵐は引いていき、やがて平常へと戻った。
 胃が凪いだのを確認した汀は慎重に身体を起こす。腕で乱暴に涙を拭って、コハクに向かって笑ってみせた。彼女は呆れていた。肩で息をする汀を異形でも見るような目で見ている。
「まったく、無茶をする……」
「や、思ってたよりきつくてあたしもビックリです。もっとすんなりいけるかと思ったんですけどね」
 ぜえぜえとあらぐ息を整えてから、手を離れていた袋を拾い上げた。
「おい、汀。まさかおぬし、それをすべて腹に入れる気ではあるまいな」
 慌てたようにコハクが腕を掴んできたが、違うという意思表示に首を振った。いくらなんでも中身全部を食えはしない。
 手のひらで何度か袋を弾ませて、汀は澄んだ視線を海へ向けた。
 ためらいもなく手の上にあったものを海へと投げ込む。
「……ふん。せっかく持ってきてやったものを」
「すみません。でも、もういいんです」
 あれはもう、己が自由にしていい存在ではない。
 せいぜい、目を盗んでひとつだけつまみ食いする程度の、そんな子どもみたいな権限しか、己には与えられていない。
 いや、本当はその程度の権利すら、持っていないのかもしれない。
 盗み食いを許されるのかどうか、判断できる者はどこにもいないけれど。
 いつかどこかで、彼女に返せと言われたら困るな、と汀はやや自嘲気味に思う。
 
「さて、土産も渡したことだ、わしは帰らせてもらうぞ。
息災でな、守天党の鬼切りよ。あの若造にもよろしく言っておけ」
「はい」
 吠丸を肩に乗せたコハクが立ち去りかけて、「あぁ、そうそう」ふと何かを思い出したのか振り返った。
 「おぬし、育ちたくはないと言ったな。喜べ、そちらの願いは叶えられたぞ」
「へ?」
「肉体を直接、管で繋いで血を与えておったろう。血と肉体、魂と魄だ。梢子に宿っておった《剣》の力がおぬしにも流れておったのよ」
「……なっ」
 そういえば、初めの頃は《剣》の力に当てられて、毎日嘔吐していたものだが、いつの間にか平気になっていた。
 感覚自体が麻痺しているのだと思っていたが、少しずつ、自身を侵食されていたのだとしたら……。
 思わず汀は自身の両手をまじまじと見つめる。爪が伸びていた。
「いやでも、あたしは普通に……」
「梢子の腕を切り落とす時に、少々へまをしてな。暴発した《剣》の力が最も近しい存在となっておったおぬしへ一気に流れ込んだのよ。
まあ、といっても《剣》からすればほんのひとかけ。鬼に成りきったわけでもなし、守天の術者に毒を抜かせれば……そうさな、二十年も経たず人へと戻るであろう」
 コハクが牙を剥いて笑った。「よかったではないか、汀よ」揶揄とも怨嗟ともつかない彼女の言葉に、汀は両手をわななかせた。
「……それ、あたしはこれから二十年弱、このピチピチナイスバディのままってことですかー!?」
「嬉しそうではないか」
 ふ、と汀の顔から表情が消える。
「嬉しいわけないでしょ。はらわた煮えくり返る思いですよ。けどあいつが笑ってろって、あたしの笑ってる顔が好きだなんて最期に言うから……。
だったら、道化てでも笑うしかないじゃないですか」
「ああ、よせよせ。そのような義理立ては意味がないぞ。
怒りたい時は怒り、泣きたい時は泣き、笑いたい時だけ笑っておれば良いであろう。
あやつとて、おぬしを縛りたくてそのようなことを言ったわけでもあるまい」
 コハクがつまらなそうに欠伸をした。
 汀がむしろ縛られたがっているのだと見抜いたからだった。
 
 
 
 
 海風が汀の短い髪を舞わせる。
 平日の真昼間だというのに、周囲は釣り人が等間隔で列を作っていた。
 ここは釣り人であれば大概が知っているポイントだから、当たり前だった。
 そして汀もその列を作る一人だ。
「あ、また食い逃げされた」
 軽い手ごたえに竿を上げてみると、予想通り、見事に餌だけを取られている。
 最初に糸を垂らしてからずっとこんな調子だ。雑魚一匹かからない。しかし汀はもとより大物狙いなので良いのである。
 とはいえ、ここまでかからないと飽きてくるのも事実。早朝から陣取って、釣り糸を何度海へ放ったか判らないが、一度もその先に魚がついていないとなればさすがに面白みがない。
「ポイント変えてみるかー」
 今は昼を回って午後二時過ぎである。久しぶりの休日を半分無駄にしていたが、あまり気にはしていない。
 竿を引き上げようとした時、視界の端を白い何かが通った。
 瞬時にその正体を見極めた汀は釣竿を手首のスナップで巧みに操り、それへ針を引っかけて自身の手元へいざなった。
 白いものは帽子だった。少し離れたところで懸命に走っていた少女が、目標をこちらへと変えて駆けてくる。
「それ! 私の!」
「や、別に取ったりしないから。はい、飛ばされないように気をつけなさいよ」
 帽子の持ち主である、小学生くらいの女の子へ針から外したそれを手渡す。
 少女はけんか腰で詰め寄ったことを恥じたか、もじもじと顔を伏せて「ありがとう」と小さく言った。
 その表情に汀の腹がちくちくと疼く。原因は判らない。気にするような表情でもないのに。
 不調を意識しないよう、こっそり呼吸を整えて、汀は少女の頭へ手を置いた。
「ここらへんの子じゃないわね。旅行に来たの?」
「うん。お父さんとお母さんと一緒に来たの。お姉ちゃんはここの人?
私、初めて来たんだぁ。綺麗なところだね。大きくなったらここに住みたいなぁ」
「遊びに来るにはいいところかもしれないけど、住んだらわりと不便よ。なんだかんだ言って、ただの田舎だし」
 なんとなく不満そうな表情で、少女は汀を見上げる。羨ましがっているのだろう。
 きっと、とても綺麗なものを持っている者が「大したことない」と自慢しているように見えたのだ。汀としては本心だったのだけれど。
 少女はなかなか立ち去ろうとしない。汀の方も追い払ったりはしない。
「お嬢ちゃん、いくつ?」
 沈黙を嫌って適当に尋ねると、彼女は両手を広げて見せた。
「九歳」
「……へえ。確かに九歳だわ」
 少女の両手を見下ろしながら納得の声を上げる。
 
 いっぱいに広げられた両の手の片方は、指が一本欠けていた。
 
 少女がきょとんとした目をこちらへ向けて、小さく首をかしげた。
「……驚かないの? みんな、見せるとビックリするのに」
「別に? その程度じゃ驚かない程度には、いろんなもん見てるし」
「ふぅん。大人が見ると困ったり優しくなったりするのにな。お姉ちゃん、変なの」
 汀が軽く苦笑いする。ませた子どもだ。己の欠点を利点に変えるずる賢さを、彼女はすでに持っているらしい。
 将来が楽しみなような、空恐ろしいような少女だった。
「お母さんのおなかにいた時から、ここの骨がなかったんだって。だから私はこれが普通なの。
でもみんな可哀想って言うわ。おばさんとか、大きくなってお嫁に行くとき困っちゃうねとか言うし。そんな先のことなんてわかんないよね。
そんなの気にしない人がお嫁さんにしてくれるかもしれないじゃない」
 その言葉に、なるほど、と心中で拳を打つ汀だった。
 確かにその指がなければ、困ることもあろう。
 大した問題ではないと思うか、大問題だと嘆くかは、まあ人それぞれだろうが。
 少なくとも格好はつかない。
 少女が話題の箇所を指先で何度も撫でさすり始めた。かすかに口元が歪んでいる。むずがっているような表情だった。呼応するように汀の腹部も疼痛を訴える。
「本当に気にしてないんだよ?
なのに……なんだろう、ちょっともやもやする」
「痛いの?」
「んー……。痛いっていうか、引っ張られてる感じ」
 なだめようという意図のもとに少女の手を掴んで引き寄せる。
 身長差があるから、汀が手を引くと、それは腹部へと近づく。
 痛みが増した。もしかしたらと思ったがやっぱりだ。
 予想通りで予想外な事態に、汀はうっすらと焦燥を覚える。
 「痛いよぅ」少女の訴えが耳に届いてすぐに手を離す。彼女は指の欠けた手をかばうようにもう一方の手で覆うと、上目遣いに汀を見上げてきた。
「……なんで? お姉ちゃんのせいなの?」
「そう……みたいね」
 まさかだ。もう、とっくに消えているものと思っていたが、まだ残っていたのか。
 それとも消えているのに残滓が疼くか。
 どことなく腑抜けた面持ちで、隠されている彼女の手を意識する。
 
 彼女はいくつだと言っていた?
 
 そして、あれから何年経った?
 
「はは……なにそれ」
 呆れてしまって、笑うしかない。
 汀はその場にしゃがみこんで頭を抱えた。「お姉ちゃん? どうしたの?」唐突な行動に肝を潰したか、少女が少々上ずった声で尋ねてきた。
「いやー、ごめん。あんたの指、あたしが食べちゃったみたい」
「え? どういうこと?」
「説明しても判んないだろうから言わないけど、どうもそういうことっぽいわ」
 もう無いくせに。もういないくせに。
 こんな柔らかな痛みを、己に与えるのか。
 
 どこまで縛り付ければ気が済む。
 どれだけ縛り付けられたら君が棲む。
 
 ただの偶然か、それとも彼女の執念だったのか。
 汀はまぼろしのいたみを共有する少女を、眩しいものでも見るような目つきで視界に収めた。
 そっと少女の欠けた手を取る。
「痛い?」
「……ちょっとだけ。でも、なんだかあったかい」
「そう。あたしもよ」
 少女の欠けた根元をゆるりと撫でると、彼女はくすぐったそうに身をよじった。
 そこには実体が無い。だから何者も何物も触れられない。風は隙間を通り抜けるし指輪はどこにもかからず落ちるし温かな誰かの指は絡まない。
 ただ汀だけが、汀の腹部に残るまぼろしだけが、それに痛みと熱を与える。
 汀だけが、『彼女』へ干渉できる。
 怒りも悲しみもなかった。
 少しだけ、してやられたという悔しさはあったけれど。
 笑いたかったので、汀は笑った。
「ねえ」
「なに?」
「十七歳になったらまたおいで。その時もお嫁さんになりたかったら、あんたに指を返してあげる」
「なにそれ?」
 少女が訝しげに首をかしげた。
「ま、本当に指が生えてくるわけじゃないけど。返すっていうか、解放するって言った方が近いのかもね」
「……お姉ちゃん、さっきから何言ってるかわかんない」
 それはそうだろう。本当は、汀は彼女と話しているのではない。
 彼女ではない彼女へ、半ば喧嘩を売るように訴えているのだ。
 掴んだ手を引き寄せて、欠けた部分をぺろりと舐める。「ひあぁ!?」少女が仰け反った。
「ばっちぃ! なにするの!」
「見ての通り、ツバつけた」
 運命ではなく、約束でもなく、宣言ですらない。
 それはなんとなくの、「とりあえず」な予約だった。
 軽く涙目な少女へ悪戯に笑いかけて、汀が立ち上がる。
「けど、もしそうじゃなかったら……あんたがその手をそのままにしていたいなら」
 予約が、有効なままだったら。
 ひょいと少女を抱き上げる。少女は目を白黒させて、バランスを取るために汀の首へしがみついた。
 小さな子どもは軽い。軽すぎてどこかへ飛んでいきそうだ。
 とはいえ、そうなったとしても、まさか釣り針を引っかけるわけにもいかない。
 
 そうか。あの帽子は身代わりか。
 やはり少し悔しいが、嬉しかった。
 
 汀は少女の肩口へ右頬をうずめて静かに謳う。
「その時は、あんたの未来をあたしがもらう」
 指輪の填まらない指を気にしない誰かと過ごす未来を閉ざして。
 彼女の十七歳のその先を、すべて奪い取る。
 少女は当然ながら意味が理解できず、汀の頭につかまったままきょとんとしていた。
「そんな先のことなんかわかんない」
「ほんと賢いわねー、あんた。ちょっとムカつくわ」
「でも、もしそうなったらお姉ちゃんの言うとおりにしてあげてもいいよ」
 どこか挑戦的な視線が汀へ刺さる。汀は負けずに笑い返した。
 今日初めてかかった獲物は大物の予感がしたが、まだ幼すぎるので離してやることにする。
 育ちきる頃には、己の時も動き出すだろう。
 驚かせることにはなるが、それはそれで面白い。
 それとも、懐かしさを感じてくれるだろうか。今を思って、今ではないいつかに引かれて。
 腹部の疼痛は治まらない。一定のリズムでやって来るそれは、鼓動に似ていた。
「十七歳かー。ずっと先だね。お姉ちゃんのことなんか忘れちゃうかも」
 頼りない腕が汀のうなじで交差している。
「そんなに自分の記憶力に自信がないの?」
「違うよっ。未来なんか誰もわかんないから、そういうこともあるかもって言ってるのっ」
 ぷん、と頬を膨らませる少女。「はいはい、そうね」いなすように答える汀だったが、適当すぎてお気に召さなかったのか頭突きを食らった。子どもらしく遠慮がない。くおぉ、と汀は小さく呻いた。痛みで涙が浮かぶ。
 あまりに痛がるから、少女が反省したのか不憫に思ったのか、頭突きした箇所を撫でてきた。
「あ、あんたねえ、これはさすがにミギーさんでも怒るわよ」
「……ごめんなさい」
 殊勝に謝ってから、「ミギーさん?」と呟く。
「そ。喜屋武汀だからミギーさん。昔の知り合いがあたしにつけたあだ名」
「……汀」
 名を呼ばれた汀が息を呑んだ。
 それはただ、こちらの言葉を繰り返しただけなのだろうけれど。
 
 なんてことだ。
 
 こんなにも、同じ調子で呼ばれるとは思わなかった。
 
「汀さんっていうんだ。不思議な名前。ねえ、私もミギーさんって呼んでいい? それとも汀さんの方がいい?」
「どっちも却下」
「えぇ? じゃあ、なんて呼んだらいいの?」
「それは、十七歳になったら自分で決めて」
 汀の声がくぐもっているのは、少女の胸元へ額を押し付けているからだ。
 彼女は笑っている顔が好きだと言っていたから。
 だから隠した。
 少女は汀の様子に気づかず、どこか楽しそうに頷く。
「それじゃ、十七歳までに考えておくね。でも私、あだ名とかつけるの苦手だから、普通に名前で呼んじゃうかもしれないけど」
「別にそれでもいいわよ」
「でも汀さんじゃ駄目なんでしょ? 大人だから、汀ちゃんっていうのも変だし、呼び捨てでも怒らない?」
「ん」
 「よかった」嬉しそうにはにかむ少女の声が耳元で転がった。
「ほんとはね、名前を聞いた時、呼び捨てが一番しっくりくるなって思ったの。
でも汀さんは私よりずっと年上だから、そんなふうに呼んじゃいけないかなって」
「あたしは気にしない。好きなように呼びなさい」
「えへへ。じゃあ、ちょっと十七歳になった時の練習ね」
 照れくさそうに身をくねらせたかと思うと、すぐに落ちないよう体勢を直して、汀、と、不思議なことに愛しささえ、あると思えばあるような呼び声を届けてきた。
 
――――ああ、こんなにも、温かな。
 
 未来なんて誰も判らないと彼女は言うけれど。
 この時、汀は確かに未来を知った。
 きっと、君にまた会える。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 汀。
 
 
 
 
 
 
 大丈夫よ。
 
 
 
 
 
 
 
 私の左手はあなたとつながっているでしょう?
 
 
 
 
 
 
 



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