君のとなり/夢のおわり


「海石榴」
 
 
 
 
 
 衣替えも済んで暦のうえでは初秋となる時期だが、近年の温暖化の影響か気温はまだまだ高い。厚手の冬服では少々暑いくらいだった。教室の窓はすべて開け放たれているものの、あまり効果は期待出来ない。朝一番の今でそうなのだから、昼を過ぎればさらに暑くなるだろう。それでも制服を着崩す生徒がいないのは、さすがお嬢様学校といったところか。さすがに上着を脱いでいる何人かはいるけれど、襟元を緩めたり袖をまくったりしている存在は皆無だ。
 制服の着こなしは問題なし、ただしそれが教室にいる面々の挙動と一致しているかといえば否である。
 そこかしこで作られたグループの間にはどこか浮き立った空気が流れていた。期待と不安の入り混じった独特のそれ。毒々しいまでの華やかさはないが、いつもより空気の粒子が大きくて光を反射しているような。
 小山内梢子はその中で奇妙な据わりの悪さを感じている。空気が違う原因は判りきっているし、そうなる理由も頷ける。けれどどうにも……自分とは相容れない空気だという感が拭いきれない。
 ここでみんなに混じってはしゃいだりできたら『堅物』などと言われることもなくなるのだろうが、二十年弱の人生で踏み固められた性格の土台はそうそう崩れるものではない。だから梢子はなんとなく落ち着かない気分を抱えたまま机に頬杖をついて担任が現れるのを待っていた。それから、彼女が連れてくるこの空気の原因を。
 始業ベルが鳴る。途端、思い思いに過ごしていた生徒たちがマスゲームさながらの統制をもって自分の席へ戻った。ガタガタと椅子を引く音。それはどこか規則的で単音の音楽にも似ている。最後の一音が空中へ吸い込まれるのと同時にドアが開いて担任教師が姿を見せる。
 一同は固唾を呑んだ。次に現れる人物を一秒でも早く視界に収めるべく、ドアの向こうを見据えて目をそらさない。
 そして感嘆の息が大多数の口から洩れる。
「みなさん、おはようございます」
 葵花子先生は枕として挨拶を置き、まったく自分を見ていない視線の向きを変えさせた。
「みんなもう知っていると思うけれど、今日から新しいお友達がこのクラスに増えます」
 背後の黒板へ『喜屋武 汀』と楷書する。教室の中にちょっとした動揺が走った。名前の読み方が判らなかったのだろう。梢子も読めなかった。苗字の方は、確か南のほうにこんな地名があったような気がするけれど、はっきりとした読みは思い出せない。
「喜屋武汀さんです。みなさん仲良くしてあげてくださいね」
 「うーん、転校生の紹介っていったら、やっぱりこれよねえ」なぜか一人悦に入っている葵先生に呆れまじりの視線を向ける生徒たちだった。
「喜屋武です。よろしくお願いします」
 こちらもまた『転校生の自己紹介といったらこれ』と言わんばかりの没個性な言葉と共に頭を軽く下げる。それを契機にして梢子は再度転校生を注視した。
 女の子としては長身である。横の葵先生と比べるに百七十センチ近くはありそうだ。手足も長く目鼻立ちもはっきりと整っている。緊張のせいか表情に乏しいが、それがかえって造形の秀麗さを際立たせていた。クラスメイトたちが溜め息をついてしまったのも納得である。
「?」
 ふと、目が合った気がして軽くうろたえた。ジロジロ見られて不快だったのだろうか。しかし自分だけではなくクラス中が彼女に注目しているのだから、己の視線だけが気になったということもあるまい。所在無さから教室に視線を巡らせていて、たまたまぶつかってしまっただけだろうか。
 どこか違和感を覚えたのだが、なぜかは判らない。
 汀はすでに視線を軽く床に落としている。なんだったのだろう、と腑に落ちない思いを持て余しながら、梢子は仕方なく葵先生へ目を転じた。
「それじゃあ、喜屋武さんの席はあそこの空いているところね」
「はい」
 するりと汀が歩き出す。おや、と梢子はわずかに目を瞠った。彼女の歩き方が異質だったからだ。すり足に近い、重心移動の滑らかな足さばきだった。『歩く』というよりは『歩を進める』といった方が正しいような動きだ。
 なにか武道の覚えがあるようだ。それも、『たしなむ』などというレベルではない。そのわりには両手の関節などは綺麗なもので、見える限り手のひらにもたこなどはない。拳法とかの演舞系だろうか?
 汀が着席したのは梢子の右隣である。着慣れない制服の襟をしきりにいじっていた汀は、こちらの視線に気づいて首を巡らせてきた。
「よろしく」
 驚くほど親しげに、彼女は笑った。
 それは初対面でも物怖じせず人と接するタイプだから、というのとは違っていた。
 まるで……そう、最初から自分と相手との最適な距離を知っていて、そこまでためらいなく進んできた。そんなふうに。
 遠くから少しずつ近づくのでもなく、まず接近してそれから離れるのでもなく。
 そして汀の立った位置は、確かに梢子の丁度良い距離だったのだ。
「あ、よろしく……」
 慌てて名乗ると、彼女は「はは」と重量のない笑声をこぼした。
 それから梢子は先ほどの違和感がなんであったか知る。
「ああ、これ?」
 汀の人差し指が自身の顔を示したことで、己のぶしつけな行為に気づいた。「……ごめんなさい」「別に平気だけど」慣れているからと続けた汀が、右の目じりをつつく。
 指先が示す彼女の右目は、左目と連動していなかった。おそらく一秒の何分の一かだが、左目より遅い。そして何より、その右目は何も発していない。
「昔、事故でね。なんにも見えないんだわ。ちょっと気持ち悪いかもしれないけど勘弁してよ」
「気持ち悪いとか、そんなことはないけど」
 正体に気づいてしまえば違和感も薄れて、後にはただアーモンド形の澄んだ瞳しか残らない。嫌悪感どころか、綺麗だとさえ思える。
 それに梢子は感心していたのだ。
 片目を失明しているというのは、単純に視界が半分になるだけの話ではない。遠近感もなくなるし、見えない部分をカバーしなければならないため常に周囲へ気を配る必要がある。違和感を覚えた時、すぐに原因へ思い至らなかったのはそのためだった。彼女はそういった不自然さがまったくない。あまりに動きが自然だったから、咄嗟にそれと判らなかったのだ。右目の視力を失ったのがいつかは知らないが、そうなるまでどれほどの努力が必要だったろう。
「あ、もしかしてああいう歩き方をしてるのって、そのせい?」
「うん? あー、よく気づいたわね。そうそう、見える人みたいに歩くとつまづいたりするから」
「なにか武道をしているのかと思ったんだけど」
 まさか、と汀はパタパタ手を振って梢子の推測を否定する。「日常生活で精一杯」
「けどまあ、武道の歩法とかって要は『効率よく移動する手段』を追求してるわけだからね。形として似るのかもしれない」
「そうね」
 すべての符合をみたところで、本格的にホームルームが始まった。二人もお喋りを終了して教卓へ向き直る。
 特に行事が控えているわけでもない時期なので、ホームルームは簡単な連絡だけで終わった。葵先生は生徒の機微を読んでいたようでもある。なにせ最初に大きなイベントが起きてしまったのだ。目の前に餌をぶら下げられた状態では教師の話など右から左、言っても無駄なら言わずとも良い。それじゃあ今日も一日頑張りましょう。そんな締めでさっさと退室する。
 葵先生がいなくなったと同時に、爆竹が弾ける。ブレザーに包まれた火薬は一斉に着火してそこら中で弾け飛ぶ。連続音が教室を、あるいは教室を構成する定義を崩壊させていく。「どこから来たの?」「趣味は?」「家族構成を「モデルとかに興味は「スリーサ「前の学校は「転校生はここかい?」
 汀を中心とした爆発に気圧されていた梢子は、唯一遠くから聞こえてきた声に顔を上げた。見れば、あまり見たくなかった顔がそこにある。
「明日奈先輩……? どうしたんですか?」
「んん〜? そりゃもちろん、転校生とやらを見に来たのさ」
 当たり前だろうという表情で、剣道部先代部長は胸を張った。「野次馬でわざわざ下級生の教室に来ないでください」「職員室に押しかけなかっただけ分別があると思わないかい?」「思いません」深く嘆息。
「第一、どうしてうちのクラスに転校生が来るって知ってるんですか」
「葵先生からちょいとね。オサのクラスメイトということはあたしのクラスメイトも同然。ここはひとつ挨拶をしておこうとお邪魔したわけさ」
「まず確実に、明日奈先輩のクラスメイトではないんですけど」
「かたいこと言うない」
 上級生の登場に、教室は一瞬にして静まり返っていた。火薬はすべて弾け、あとには無残に散った殻だけが残る。
 輪の切れ目から悠々と汀の目前まで進んだ明日奈が、汀をじっくりと値踏みする。「ふんふん、なるほど」不躾な視線に晒されながらも、汀は顔色ひとつ変えずに明日奈を見返していた。
 ひとしきり観察して満足したのか、曲げていた腰を伸ばして何度か頷き、にやんと笑う。
「美人さんだねえ」
「どうも」
「あたしはオサの先輩かつ恩人、本庄明日奈って者さ。以後よろしく頼むよ」
「はあ」
「勝手に恩人にならないでください」
 梢子の訴えを無視しつつ、明日奈が汀へ右手を差し出す。汀はそれを少し眺めて、仕方なくというふうに握手を受けた。
 それにしても、転校初日に先輩から迫られたというのに、まったく物怖じしていない。よほど肝が据わっていると見える。虚勢でないことは表情からも明らかだ。緊張も恐怖もなく、かといってにこやかだったりもしない。たとえば自分の部屋で本でも読んでいる時の表情、それと同じだった。
 転校生の顔を見て目的は果たしたので帰ると、明日奈はあっさり去っていった。もうすぐ授業が始まるから当然といえば当然なのだが、本当に野次馬のつもりだったらしい。普段から奇行を重ねている人なので、明日奈が絡むと梢子はいつも疲れる。
 彼女が上手い具合にガス抜きになったのか、クラスメイトたちも狂乱から醒めてそれぞれの席に戻っていった。
「ごめん、騒がしくて」
 隣席という微妙な立ち位置から、責任を感じて謝罪すると、汀は口元を緩めて首を振った。
「大したことないって。それよりも『オサ』ってあなたのことよね?」
「ええ。あ、明日奈先輩は剣道部の前部長でね。一応、私が今の部長をしているの」
「なるほどね。あたしもオサって呼んでいい?」
 「構わないわよ」頷くと、「じゃ、オサ」早速愛称を使って呼びかけてくる汀。
「なに?」
「いや、呼んでみただけ」
 頬杖をつき、心持ち斜めに見つめてくる眼差しが、子どもみたいに丸みを帯びた。
 余所行きの洋服を買ってもらって、出かける予定もないのに着替えてはしゃぐような無邪気さ。当てられたか、ただ愛称で呼ばれただけなのに少しだけ鼓動が跳ねた。
 「はは、照れてる」左目だけの眼差しが悪戯く細められると途端に純真は消えうせて、今度は小悪魔的な妖しさを帯びた。ここで照れてなどいないと反論したところで無意味。せめてもの抵抗に眉間を険しくして見せるが、汀はますます笑うばかり。
「まったく……」
 出会ってわずか十数分で翻弄されつつも、実はそれがあまり嫌ではない梢子だった。
 
 
 
 奇妙だと思ったのは三日がすぎてから。
 正しくは、奇妙だと意識したのは、ということになる。それ以前にも感覚的なものは存在していた。漠然と漂っていた感覚がはっきりした形になったのが三日後だった。
 初日の狂乱はすでに皆無である。転校生の賞味期限は精々一日、以降は希少価値などなくなってクラスに溶け込む(完全でなくても、あるいは欺瞞であっても)もので、だからみんなが汀に群がることがなくなったのも不思議には思わなかった。もとより集団の一挙手一投足を常時気にするような性格ではない。集団であろうと個であろうと拘りはないのだ。
 ただ……、そう、ただ。
 教室の天井近くを浮遊している気配が無視の出来ないギリギリのラインにあって、少し不快ではあった。
「汀が?」
 部活動を終えてからの雑談で、副部長の綾代が遠慮しいしい切り出したのは自分たちの同級生の話題。彼女は言葉を選びながら話し出した。
「わたし含め、みんな仲良くなりたいとは思っているのですけれど、喜屋武さんの方が頑なになっているような雰囲気があってなかなかうまくいかないんです」
「そう、かしら……?」
「どういうわけか梢子さんとは普通にお話されているようですから、できたら少し、喜屋武さんにお願いしていただけませんか?」
 梢子は視線を天井へ向けて思索する。確かに他の子と話す時は少しそっけないような雰囲気はあったけれど、そんなに気にするほどのものでもなかったと思う。まだ転校して日が浅いから人見知りしているのではないだろうか。梢子とは波長が合ったとか、席が隣同士だから話しやすいとか、そういう付加価値があったから早めに慣れただけで、そのうちみんなとも打ち解けられるのではないか。
 梢子が自分の推測を披露すると、綾代は力なく首を横に振った。
「その……、梢子さんがいる時はそれでもまだ態度が軟化しているんです。そうではない時だと、本当に取りつくしまもなくて、困っているんですよ」
「そうなの? いったい全体、なんなのかしらね」
 事情は判った。それならば一言二言、汀に言ってみると請合って携帯電話を取り出す。メールを送るとまだ部室にいるということだったので、そちらへ一人歩き出した。
 汀は昨日からボードゲーム同好会に所属している。納得できるようなできないような、微妙なラインの選択だった。右目のことがあるから運動部は難しいのだろうけれど、部にもなっていない、かつ遊びを目的としている集団に属するとは少し意外だ。適当に楽そうなところを選んだようにも思えるし、何か研究者的な理由があるようにも思える。
 ともあれ、学校にちゃんと認められている活動であるのだから梢子が文句をつける筋合いはない。
 ボードゲーム同好会の部室のドアは開いており、中を覗くとには三人しかいなかった。これで全員なのだろうか。
「Aの3」
「はずれ。Dの2」
「水しぶき」
 机をふたつくっつけた両側で、知らない生徒が二人、何か言い合いながらノートに書き込みをしていた。横置きにしたノートの一方を立てて相手に見えないようにしながら、もう一方に書かれたマス目を塗りつぶしたりメモを書いたりしている。あれもボードゲームなのだろうか。見る限りノートゲームと言った方が正しいようだが。
 残る汀はといえば、窓際に置いた椅子に腰かけてぼんやり外を見ている。退屈そうだった。
「お邪魔します」
 一応声をかけてみると、ゲームをしていた二人がこちらを振り向いてきょとんとした。
「あ、剣道部の。演舞やってた人」
「ええ、まあ。ちょっと汀に用があって。お邪魔してもいいかしら」
「どうぞ」
 別に内緒話をしていたわけではなく、普通に会話をしていたのだが、汀はこちらに気づいた素振りも見せず窓の外へ顔を向けている。もしや居眠りでもしているのか、と横手から覗き込んだら、「うぉっ」わりと本気で驚いたような反応をされた。
「あああっ」
「え? な、なによ」
「オサがいきなり声かけるから、盤面が判らなくなった」
 なんだそれは。梢子が口を歪めて自身の首を撫でた。
 汀の話すところによれば頭の中で架空の対戦相手とチェスをしていたらしい。駒の位置をすべて記憶して? そう。まさか、と梢子が肩をすくめる。そんなことが簡単にできるものか。大方、驚いて変な悲鳴を上げてしまったことを誤魔化すためにそんな言い訳をでっち上げたのだろう。
「せっかく勝ち越してたのに」
「はいはい、それは悪かったわね」
 「それよりも」唇を尖らせてむっつりしている汀の顎を持ってこちらを向かせ、その目を覗き込む。訝しげな左目と、無表情の右目。どちらも梢子の顔を映す。
「あなた、まだクラスに溶け込めてないの?」
「オサとは仲良くしてると思うけど」
「私以外の人とは?」
「普通」
 なにをもって普通とするかは定義が難しいところであるが、ニュートラルな状態をそう表するなら彼女の言葉はあながち間違っていない。
 問われる。答える。乞われる、応える。プラスとマイナスがまったく同等の応酬は、だからいつまでもゼロのまま変化がない。
 つまり、それは無関心と同義だけれど。
「別にベタベタ馴れ合う必要もないと思ってるわけ。雰囲気悪くするほどじゃないと思ってるし、問題ないんじゃない?」
「大事に至らなければいいというものでもないでしょう。綾代たちはもっと汀と仲良くなりたいと思っているの。少しは相手の気持ちを汲みなさい」
 ふぅん、と、汀は小さく呟いた。不理解のように見える表情だった。
「なんで私とは話すのに、他の子にはそっけないのよ?」
「さあ、インプリンティングかな。最初に話したのがオサだったから」
「あなた、雛というほど小さくないじゃない」
 汀が苦笑みたいに笑って、「それもそうか」椅子から立ち上がると両腕を伸ばした。
「もっと仲良くした方がいい?」
「そうね、もう少し親しげに接してもいいと思うけれど」
「うん。オサがそう言うんなら、そうする」
 爆発的な違和感。梢子の周りを取り囲んでいたシールドが木っ端微塵に破壊され、天井の気配はダイレクトに降り注ぐ。
 「……、っ、汀」丸めた布切れを喉の奥に押し込められたような息苦しさと、肺の半分を空気以外の何か(それは物質的なものではない。やはり、『気配』だ)が占めてしまった胸苦しさが梢子を襲う。汀はゆるやかに微笑んでいる。無邪気に、左目だけが。右目は沈黙していた。
 あるいは深く眠っていた。
「Cの2」
「沈没」
 
 
 
 三年生になる。梢子だけではなく、汀も、綾代も、もちろんそれ以外も。成績の進級ライン未達者も素行不良者も出ず、二年生はもれなく三年生へとレベルアップ(あるいはクラスチェンジ)する。
 その頃には、汀の態度はずいぶん砕けたものになっていた。よく笑い、よくジョークを言い、よく遊んでたまにサボった。そのたびに彼女を探すのが梢子の新たに負った役目だった。問題視されるほど頻繁だったわけではないのでそうする必要もなかったが、梢子は汀を探した。一人で、時々綾代と二人で。
 三年生になったからだと、梢子は分析をする。進学にせよ就職にせよ、生活態度は点数化されて外部に送信される。ばらまかれる。個のステータスは晒されて評価される。それに逆らう方法を梢子は知らない。そして逆らうものではないと思っている。
 しかしその日は違った。汀は教室にいなかったが探さなかった。それより前に奔流がやってきたからだった。
 奔流を形作るものは音だった。声だった。様々な、低かったり高かったりする声が、意味のある、だが総じて意図のない言葉がいちどきに梢子へ押し寄せた。いわく、頭部損傷。いわく、不運と必然。いわく、事故。
 それらが梢子へもたらされた理由は明々白々、彼女の「一番のナカヨシ」と誰もが目していたからだ。だからあなたが代表にならなければならない。
 梢子は保健室へ急いだ。病院ではなく保健室というあたりで深刻な事態でないことは歴然だったので急ぎすぎない程度に急いだ。つまり、汀の様子を見てから戻っても授業に間に合う程度に。
 養護教諭は席を外しているようだった。薬品の匂いが浮遊する室内は無音。背の低いスライドカーテンが閉じられている。梢子はそれに手をかけて横へ引く。
 汀はベッドで眠っていた。後頭部にアイスパックが敷かれている。ブレザーは脱がされて枕元にたたまれていた。ネクタイが緩められ、ブラウスのボタンも上から二つが外されていた。
 原因はテニスボールだったという。部活動か体育の授業か、とにかく片付けられることなく転がっていたそれに足を取られた。ボールは汀の右足に踏みつけられた。その瞬間の彼女の視界を想像する。ぐるり空転する半分の視界が雲を捉える。下へ下へ落ちる雲。自らの手が何かを掴もうとのばされるがただ空を切る。反転、視点は第三者のものになり、彼女の無表情が見える。右目は空気の流れを見ている。暗闇で目に見えないものの動きを視る。空の青を右目が映して、淡く光る。
 光る?
 そんなはずはない。眼球が反射するのは像であり色ではない。夜道の猫じゃあるまいし、空を見上げたくらいで目玉が光ってたまるものか。
 眠る彼女に異常は見られない。高校生が平日の昼間から眠っている、というのは異常事態だろうか? そうでもない。では正常であるかと問われたらそれもまた否である。異常ではない、というだけ。
 手をのばして彼女の右目のふちへ触れる。そのまま頬をなぞって唇へ。薄く開いたそれは少し乾いている。形を確かめるように滑ると小さくうごめいた。食すように、汀の唇がうごめく。捕獲されて口内へ引きずり込まれる。前歯に挟み込まれて、犬歯が引っかいてくる。舌先が関節を舐め回して爪のつるつるした表面を面白がる。梢子は舌の裏側へ潜って溜まった唾液をかき回す。汀のまぶたはいつの間にか開いている。悪たれた奥歯が噛みついてくる。第二関節を押さえ込んでいる唇の柔らかさだけが優しい。
 ゆるりと、梢子が指を引いた。
「頭を打ったそうだけど、大丈夫?」
「うん。明日痛みが出たり気分が悪くなったら病院に行けって言われてるけど、今のところは平気」
 顎を伝って、首の真ん中を下りて行く。途中にわずかな盛り上がりがあったが、梢子の気分は特に盛り上がらなかった。
「みんな心配してたわよ」
「オサは?」
「心配したに決まっているじゃない」
 ブラウスの襟を、親指と小指で押し開く。鎖骨が現れて、くぼみを人差し指が左右を交互になぞった。薬指が何かに触れて止まる。指先を引っかけて持ち上げると、茶色の紐だった。一部が籠目に編み込まれていて、その中に透き通った蒼い珠が入っている。
「なに? これ」
 綺麗だが高価そうなものではない。そのへんの雑貨で千円札を一枚出せば釣りが来る、その程度のものに見えた。
 汀ははだけたシャツの隙間で遊ぶ梢子をそのままに、両の碧眸を細めた。
「すごく大事ないらないもの」
「……矛盾してない?」
「してないわよ。重要性と必要性は、必ずしも一致しない」
 そういうものだろうか。梢子はその石を軽々しく弄っていいのか丁重に扱うべきなのか判断しかねて、中途半端につまんだまま止まってしまった。
 と、保健室の主が室内に入ってきた。ベッドを覗き込んで、おや、という顔をする。
「友達?」
「同じクラスの小山内です。保健室に運ばれたと聞いたので、ちょっと様子を見に」
「大丈夫よ、頭を打ったと言っても芝生だったし意識もはっきりしてたし。でも今日は大事を取って帰宅してもらうことになったから」
 外出していたのは担任と話し合うためだったようだ。この時間では自宅に誰もいないことと、特に異常がないので連絡は必要ないと汀が言い出したので、せめてと付き添いを申し出た。
「ああ、大丈夫だいじょうぶ。いきなり倒れたら、たぶん親切な誰かが助けてくれるでしょ」
 ずいぶんな楽天思考だな、と思う。倒れて車道に出たりでもしたらどうするつもりだ。
「いいから付き添わせなさいよ。なにかあったら大変じゃない」
「あー……。じゃあ、兄貴に電話して迎えに来てもらう。それならいいでしょ?」
「お兄さん?」
「仕事中だけど、先生から連絡してもらえば早退くらいできると思うから。どう、文句ある?」
 そういうことなら自分の出る幕ではない。頷いて引き下がると、「オサは心配性だなぁ」苦笑半分に言われた。
 汀は担任教師に頼んで兄の会社へ電話を入れてもらい、自家用車で迎えに来た彼に連れられて帰っていった。(兄というが似ていなかった。長身というところは共通点だった。それ以外に共通するものは見えなかったけれど)
 次の授業中、梢子は何度か無意識に自身の人差し指を咥えた。
 
 
 
 親類に飛車と呼ばれる人がいる。剣道の全国大会を制覇した経験を持ち、そのスタイルから呼び名がついた。梢子の憧れであり目標だが、到達するにはまだまだ遠い。それでも香車くらいにはなれているのではと自負している。
 が、あくまでもそれは剣道の話。それ以外の勝負事まで一直線にしか進めないということはない。
 銀将を進める。汀は駒の動きを追ってから思案顔になった。
「やらしい手を打ってくるなー」
 顎に手を添えて考え込み始める。展開としてはこちらが多少優勢、長考になりそうだ。
 大会直後ということで、剣道部は本日休業となっている。まっすぐ帰ってもよかったけれど、囲碁と将棋の知識を見込まれて汀に誘われたので応じた。年度が変わってもボードゲーム同好会は相変わらず三人で構成されている。来年は消滅するだろう。
「降参しても構わないわよ」
「まさか。見てなさいって、ここからミギーさんの逆転劇が開始するから」
 口だけは達者な汀である。次の一手はなかなか訪れない。
 退屈なのであと二人の会員の方を見遣ると、彼女たちはバックギャモンで対戦していた。赴き深いチョイスだった。バックギャモンをプレイできる女子高生とは貴重である。
 ゆうらりとそちらを眺めながら、梢子が呟いた。
「平和な時代に生まれた人間の中で、最も不幸なのは棋士である、とか言われるわよね」
「ん? ああ、そうね。どれだけ戦略家として優れていても、盤の上でしか有効活用できないからでしょ?」
 汀が黙考を中断して応じる。唐突に何を言い出すのか、という顔だった。
「あの人たちも汀も、時代や生まれる場所が違えば軍師として活躍できてたかしら」
「いやー、少なくともあたしは無理だ。そんなことになっても一兵卒で終わるわ」
 からから笑って首を振る。そうだろうか。頭の回転も速いし、わざわざ部活動に選ぶくらい戦術的思考が好きなら、そういう方面に能力を発揮するかもしれないじゃないか。
「元々は身体動かす方が性に合ってるのよ。これがあるから方向転換しただけ」
 『これ』が右目を指すことは明白だったので、梢子は曖昧に頷いた。彼女の表情からは、方向転換についてどう思っているか読めなかったせいだ。
「じゃあ、事故に遭わなければ、もしかしたら汀と剣道で対戦するようなことがあったのかしら」
「かもしれないな。ま、それでもあたしが勝つだろうけど」
 今現在、劣勢に立たされているというのに大きく出たものだ。「ふぅん。負け惜しみにならないといいわね」にこやかに言ってやると、汀は口元を苦くして「うわー」と呟いた。
 ようやく汀が駒を進める。良い手だった。梢子はパターンをいくつか考えてから次の手を打つ。今度はさして迷わずに汀が駒を鳴らした。
「オサ、けっこう強いんだ」
「おじいちゃんによく付き合わされているのよ。特におばあちゃんが亡くなってからはね。夏姉さんはこういうの苦手だし」
「……鳴海、選手か。確かにあの猪突猛進な性格じゃ、戦術ゲームとは縁がないでしょうね」
 独白めいた汀の言葉が少し引っかかった。
「汀、夏姉さんに会ったことがあったかしら?」
「ああ、いや、オサがちょくちょく話してるから、そうなんだろうなって想像しただけ」
 汀が何かを打ち消すように手を振る。
 確かに、何度となく夏夜の話を聞かせていたから、見知った人のような感覚にも陥ろう。良くも悪くもエピソードにこと欠かない人なのだ、あの従姉妹違は。
「喜屋武さん、お先に」
 バッグギャモンをしていた二人が、知らぬ間に帰り支度を済ませて入り口近くに並んでいた。「お疲れさま」汀が軽く手を上げて見送る。梢子も会釈を返した。
「うちらもこれが終わったら帰りますか」
「自由に帰ったりしていいの?」
「剣道みたいにみんな一緒に礼をするなんてルールはないからね。遊びたいものを遊びたいだけ遊んで、あとはお好きなように。人のゲームが終わるのを待ってるなんて退屈の極みじゃない?」
「そうかもしれないけど」
 始めも終わりもはっきりしないのが、どうにも受け入れがたい梢子だった。武道と遊戯を同じ土俵に上げる方が無理なのだけれど。上下の問題ではない。ポジションの問題だ。
 勝負は拮抗したが、結局は梢子の勝ちで終わった。渋々投了を告げる汀を前にして口元の緩みが抑えきれない。汀は納得がいかないようで、しばらく盤面を睨みつけながらブツブツと先ほどまでの対局を反芻していた。
 汀の親指が唇を撫でる。口端のくぼんだところから、下唇に沿ってゆっくりと人差し指の側へ動いていく。逆の端に到達して、また戻る。そんな往復を二、三度くりかえす。
 振り子運動に似たそれが梢子に催眠術をかけた。
 そう、催眠術だった。
 夢を見させる魔法として、汀の親指は作用した。
「……汀」
「ん?」
「口のなかを、触ってもいい?」
 彼女は一瞬だけ沈黙して、それから頷いた。
 人差し指を伸ばす。恐る恐る唇に押し当てて、さらに力を込める。抵抗なく開いた唇から内側に滲入する。口のなかは体温に暖められた呼気が充満していた。それをかき回すように回転させる。
 梢子の人差し指は頬の内側の滑らかな感触を知る。奥へ向かうと骨の硬い感触がやってくる。歯茎を辿って臼歯がどれほどの広さを持っているか知る。上あごのわだちを横断して、くぼみが何段あるか知る。
 人差し指だけでは足りなくなって、中指も同様に汀を探索する。月面を縦横無尽に走り回る無人探索機みたいに、表面を引っかき回す。彼女は心持ち目を伏せてなすがままになっている。梢子の人差し指と中指は汀の唾液にまみれた。溢れた唾液が根元に垂れ落ちて手の甲の産毛に絡んだ。構わず、梢子は二本の指で汀を探求する。
 侵蝕する。
 深触する。
「んん……っ」
 奥まで侵入しすぎたか、汀がくぐもった唸り声を上げた。それすら意に介さず続行すると、舌が押しのけようと暴れ始める。ついさっきまで受け入れてくれていた口内が、梢子の指を異物として、侵入者として排除をもくろむ。紅くぬめるガードマンを押さえつけ、ねじ伏せ、大人しくしていろと屈服させようと試みる。「かはっ」汀の喉が反らされる。溜まった唾液が水泡を作ってこぽりとかすかな音を立てた。
 梢子は逆の腕で汀を抱き寄せると、先刻より浅い部位まで指を引き上げた。耐え切れずに噛みついてきながら、汀は荒い呼吸を繰り返す。
「苦しい?」
 汀は応とも否とも答えず、ただ梢子の指に噛みついて、ただまっすぐに梢子の目を見ていた。
 梢子は何も見ていない右目にキスをする。
 
 
 
 それから五度、梢子は汀の舌と歯と頬の内側と上あごに触れた。
 五度目で梢子は決意をする。
 
 
 
 屋上にするか体育館裏にするか悩んで、屋上を選んだ。
 汀は先に来て転落防止用のフェンスに身体を預けつつ、後ろ手にそれを掴んで鳴らしていた。
 呼んだ方が遅れては立つ瀬がないと早めにやって来たつもりだったが、彼女の方がさらに早かったようだ。
「ごめん、待たせた?」
「や、今来たところ」
 二人は同時に吹き出す。交わした会話があまりにも定型すぎたせいだ。
「こんなところに呼び出して、あたしに何の用なわけ?」
「判っているくせに聞くの?」
「勘違いだったら恥ずかしいし、一応ね」
 もうすぐ衣替えの季節だ。気温は高すぎず低すぎず、地上より空に近いせいかそよ風が良い具合に吹いていて心地良い。ブレザーの裾とスカートがわずかに揺れる。
「違っていないから大丈夫よ」
 フェンスにもたれかかったままの汀へ歩み寄り、その頬を包み込む。
「私って、わりと平凡だと思うのよね」
「ふぅん?」
「両親とも健在で、ごく普通に高校生で、取り柄といえば剣道くらいで、甘党でも辛党でもないし、事件に巻き込まれたことも事件を起こしたこともないの」
 だから、と梢子は言う。
「やっぱり平凡に、人を好きになってもいいんじゃないかしら」
 なるほど、と汀は頷いた。それはそうかもしれない。
 汀の頬を包んでいた両手が落ちた。汀の唇はうっすら開いていたけれど(そして当然のように、それは梢子にあの衝動をもたらしたけれど)、封じられることはなかった。汀の唇は開放されていた。音を、声を発するのに何の障害もなかった。
 なるほどね、と汀は言った。
「それで、あんたはどうしたいの?」
「やっぱり平凡に、あなたといたい」
 梢子は告げる。何も起こらない、何も起こさない己には、何も起こらなくて良い。甘くもなく辛くもない、苦味もなければ酸味もない。
 そのままで、この先ずっと。
「汀次第だけれど」
 返事は?と梢子は問う。汀はあえかに笑って右目を細めた。
 「平凡か」独白する。どこか黙殺したそうな『平凡』の発音だった。
「いや、あたしもね。嫌だったわけじゃないのよ。動かない、ゲーム程度にしか戦術的思考を使わない、そういう生き方がね」
 フェンスは高い。棒高跳びでもしなければ飛び越えるなどできはしまい。よじ登ればなんとかなりそうだが、網目状のフェンスは柔らかく、掴んだだけでたわむので登りにくそうだ。
 それを確かめるかのように汀はフェンスを揺すっている。
 「ゲームだったのよ」気泡みたいに汀は言う。これは最初からゲームだった、と。
「ゲーム……?」
「そう。どこかの誰かとあたしで行われてたゲーム。ここは盤面でしかなくてあたしはあたしという駒を操って、相手はあんたという駒を使ってた」
 『誰か』は言った。ゲームをしようと。何も起こらず、何も起こさず、何もないゲームをしよう。王はいない、鬼もいない、そういう世界で生きるゲーム。
 汀は右目を奪われた。そこに宿る『正しく視る力』を奪われた。そして汀はただの人になった。何も視れない、何も切れない、何も見切れない存在になった。ゲームはスタートした。
 ゲームに汀の勝利条件は設定されていなかった。ただ終了条件だけが設定されていた。条件を満たしても汀が続行を望めばゲームは継続される。そういうルールだった。
「でも駄目だ。あたしは失敗した。あんたがそうなっても構わないと思っていたのに、本当は駄目だった。打つ手なんかなかった」
 汀が乱暴に制服のネクタイを緩め、ボタンを外す。息苦しそうに、生き苦しそうに喘ぐと、胸元から茶色の紐を引っ張り出した。蒼い石がくくりつけられているペンダント。
「あたしたちはきっと幸せになれる」
「それなら」
「駄目だよ」
 汀は石を握り締めながら語りだす。
「あたしは今を幸せだと感じてる。幸せな夢だって感じている。だけど夢でしかないことも知っている。虚しいものだと、儚いものだとこの世界であたしだけが知っている。
それを知っている限り、あたしは幸せが続けば続くほど、ここにいたくなくなる。
オサ、『幸せな夢』の最低条件ってなんだと思う?」
 梢子が答えないでいると、汀は「それが夢だと気づかないことよ」と言った。
「あたしは最初からこれが夢だってことを知ってた。いい、『最初から』よ? なにをしても真実になりえない、そんな状況でどうやって生きていける?」
「汀」
「それでも初めのうちはまだ良かった。何も起こらず、ただルーチンみたいに毎日すごしていれば済んだから。けどあの日、変化が起こったあの日から少しずつ崩れて」
 テニスボールに躓いて転んだ日のことだと梢子は気づく。己が初めて衝動を覚えた日でもあるから忘れようがない。
「私のせいなの?」
「そうじゃない。オサがどうとか、そういうことじゃない。
この世界が……幸福すぎた、だけ」
 なんの必然性もなく、なんの寓意もなく、なんの物語性もないほど、この世界は平凡すぎた。
 無条件に、幸福すぎた。
「この世界は幸せすぎて……夢でしかない事実に、あたしは耐えられない」
 握りこんだ汀の手のひらから、淡い光が洩れ出している。
 妖精の羽からこぼれる燐光に似たそれは、あの日見た光と同じものだった。
 光をゆっくりと持ち上げて、汀は痛々しく笑う。
「だから、さよならだよ、オサ」
「……汀?」
「あたしは投了する。あたしの負けでいい。あんたがあたしを選んでも、あたしがあんたを選ばなければ済むけど、それもできなかった」
 光が虚無の右目に押し当てられる。
 「あたしは負けて、真実を視る」それだけなんだよ、と汀は意気地のない口調で言った。
 右目を覆っていた手が下ろされて、現れたそこには青い光が宿っていた。
「汀!」
 彼女の姿にノイズが混じり始める。歪み、薄れゆく身体に梢子は手を延ばす。
「オサ」
 最後の最後、彼女は口を開いた。
「   」
 梢子の手が空を切る。いや、違う、切りもしなかった。手首の先には何もなかった。自分自身も薄れている? あるいは自分自身こそが消えていこうとしている。
 ああ、応えなければ。
 その言葉には、なんとしてでも返さなければ。
「汀! 私は、あなたが」
 ホワイトアウト。
 何も見えない。何もない。手も、腕も、胴も、脚も。
 もう首しかない。
 
 
 
 潮騒が一定のリズムで耳に届く。汀はゆっくりとまぶたを上げる。潮の匂いに混じって金臭い匂いも漂っていた。片手をついて身体を起こす。五指にぬらりと粘性の高い手触りが伝わってくる。血溜まりは己のものだろうか。
「まったく……、現実は最悪だわ」
 周囲に人の気配はない。どちらが勝ったのだろう。それとも、どこか別の場所に決戦の地を移したのか。
 視線を巡らすと、海上と陸地を繋ぐ橋に点々と血痕が落ちていた。誰かがどこかへ移動したようだ。ならばそれを追わねばなるまい。
 止めを刺されなかったのは僥倖だった。おそらく剣鬼の相手をするのに手一杯でこちらに回す余裕がなかったのだろう。歯を食いしばって膝を立てる。全身が悲鳴を上げているけれど動けなくはない。
「さて、さっさと片付けないと、ね」
 そうだ、さっさと片をつけなくてはならない。
 こちらでまでも、負けるわけにはいかない。
 転がっていた愛用の棍を拾うと、汀は鉛を食ったように重い身体を無理やり立たせた。
 さて、出かけよう。戦闘準備はオーケイ。棍を握る。
 汀は行かなければならない。
 行って、戻ってきて、彼女を弔わなければならない。
 彼女の首を捜さなければならない。
 汀は陸へ向かって歩き出す。 



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