オン


 木漏れ日がまだらに、二人の身体へと落ちる。肩口へもたれかかっている彼女の黒髪、光を反射して艶の帯が渡ったそれがかすかに揺れて、また停止した。
 膝上に乗っている彼女の背中へまわした腕で支えながら、喜屋武汀はまぶたを半分下ろす。
 空から落ちてくる光が半分さえぎられた。明るくもなく暗くもない、焦点も定まらない曖昧な視界は海の中みたいにゆらゆらしている。それを嫌って、汀は完全に目を閉じた。
 小山内梢子という少女と同じ時を過ごすようになってどれほど経っただろう。それは断続的で、時に穏やかであり、時に激しくなり、時に平和であり、時にいさかいが起きたが、概ねいとしい時間であった。
 今は、穏やかで平和な時間である。激しくいさかう時間も、なかなかスリリングで楽しいものだが、彼女がいなくてもスリリングな時を過ごすことがままあるので、汀はこういった時間の過ごし方が嫌いではない。
 広く作られた公園の片隅、通る人も皆無な芝生でウトウトまどろむ。梢子の方は完全に寝入っていた。
 汀の目は閉じられている。そうでなくても青眸が姿をあらわすことはない。ここに人外の気配はなにもないから、発現させる必要はない。視覚をふさいで、周囲すべてを死角とすれば、知覚できるのは彼女の身体だけになる。体温と、脈動。あまりにも静かなせいか、鼓動すら聞こえてくる。もっと耳を澄ませたら血液の流れすら聞き取れるかもしれない。
 汀の内側にあるスイッチは『入』にスライドされていた。最初はこちらが『切』だったような気がするのだけれど、いつの間にか入れ替わっていた。文字の意味合いとしてはこちらの方が正しいのかもしれない。彼女の世界に入るか、世界に不要なモノを切るか。単純なオンとオフの定義というより、文字が持つ普遍的な意味をして、汀のスイッチは切り替わる。
 心地良い熱量と、規則正しい鼓動。
 穏の世界に存在する温と音。
 時々、木の葉が二人の頭上から落ちてきた。風で飛ばされたにしては葉が若い。ここからでは見上げても判らないが、高い枝に鳥の巣でもあるのだろうか。汀は梢子の髪と肩に落ちたそれをそっと取ってやる。ただそれだけの行為が大層優しく、もし見る者がいれば気恥ずかしさに目をそらしそうな光景だった。幸い、周囲はまったくの無人であったので、誰も居心地の悪い思いをすることはなかった。それに喜屋武汀という存在は誰かがいた場合(それは意識のある小山内梢子も含まれる)、絶対にこんな仕草を見せることがないため、他者が存在していた場合においても結果は変わらなかっただろう。
 ゆったりと時は進む。それを証明するかのように梢子が小さく身じろぎをした。存在、すなわち時間である。連想して、汀はハイデガーと道元についてひとしきり思考したが、生憎と講釈を垂れる相手がどこにもいなかった。だから唇は閉じたままだ。
 寝入っていた梢子が覚醒する。一瞬にして彼女のスイッチがオン。相変わらずの寝起きの良さだった。
 蜘蛛。梢子の呟きに眉を上げると、彼女は汀が芝生についている左手、それを覆っているグローブの甲部分を指し示した。
 果たして、指された先では一匹の小さな蜘蛛が這い歩いていた。グローブのせいで気づかなかったようだ。汀は手を持ち上げて、振り落とそうか瞬時迷い、結局は傍らの高い草にそれを誘導した。己が作り上げた技術に名を借りているので、なんとなく乱暴に扱うことははばかられた。
 蜘蛛はチマチマと汀の手から草へ移る。これで地獄に落ちても大丈夫かな。笑いながら言う汀に梢子は眉を寄せて、それじゃあ最後には切れてしまうじゃないと不満そうに返した。足を引っ張ってくるのは人ではない。鬼籍に入ったモノ、鬼だ。汀ならさぞかし大量にまとわりついてくることだろう。生涯ただ一度だけ善行をなした悪党など比ではないに違いない。
 そんなものなくても。梢子が蜘蛛を放した左手を取る。指先を撫でながら言った。私が連れ帰りに行くから心配いらない。
 あんたはどこの観音様ですか? 揶揄の意味でわざわざ敬語を使ったら指先を強くつままれた。地味に痛い。しかし振り払えない己が少々怨めしかった。痛い、痛いです。敬語は懇願の意味を持つ。馬鹿、と消え入りそうな声で言われて、汀は小さく肩をすくめる。
 指先にかかっていた圧力はすぐに消えて、だがなくなることはなかった。包まれたり、折り曲げられたり、一本ずつ関節を撫でられたり、柔らかい腹を揉まれたり、種々の愛撫を受ける。文字通りの手遊びだった。
 汀の中に欲求が生まれる。ねえオサ。彼女に触れられていた指で、彼女の胸元に触れる。梢子はどこか不思議そうな表情をした。なに?
 音が聴きたい。音? そう、心臓の。
 梢子が芝生に横たわり、ほら、と汀を手招く。寄り添うように身を倒して、彼女の左胸へ耳を押し当てた。
 トクトク、トクトク。一定のリズムで刻まれる鼓動が流れ込んでくる。心地良い音だ。他の誰かの鼓動でも、これほどの心地良さを覚えるのだろうか。覚えるかもしれないが、それでも彼女の音が良いと思うのだろう。
 母に甘える子のようなその体勢はしかし、対等である彼女たちには相応しくなかった。だから、心地良いがずっとこのままでいたいとは思えなかった。
 木漏れ日の降り注いでいた視界に影が差した。夕暮れが訪れたにしては一瞬の変化である。汀は視線だけを上げる。犬がいた。
 脚を折り曲げれば二人まとめて腹の下に収まるだろう巨大な犬だった。常識はずれだが神々しさはない。巨大で力が強いけれど、犬というカテゴリから出てはいない、そんな犬。
 犬はその瞳に焦燥感を浮かべていた。その意味は読み取れたが、どうして犬がそんな眼をしているのかは判らない汀だった。どうしてこの犬に、自分が心配されなければいけないのだろう?
 身を起こすと犬は鼻先を少しだけ汀に近づけた。何かを探るように鼻をひくつかせている。その行動はやはり犬である。自身の力強さを知っているのか、犬は汀に触れようとはしなかった。これだけ大きいのだ、本人(本犬?)は軽く撫でただけのつもりでも、悪くすれば汀の首がもげる。
 この犬を知っている、と、汀は感覚する。いや、犬だったろうか? 犬ではないこの犬を知っているような気がする。しかしこれは犬だ。知っているのが犬ではないとすれば、この犬を知っていることにはならないのでは? あるいはこれが犬だという前提が間違っているのか。
 隣から手が伸びてきて、汀を探っていた鼻先に当てられた。犬を撫でる梢子に警戒心はない。これが汀を傷つけるものではないと知っているようだ。二人……一人と一匹は、知己なのか。
 それじゃあ、よろしくお願いしますね。梢子が訳の判らないことを犬に言った。犬は犬で、応えるように耳を伏せる。
 オサ? 数々の疑問、その何を問えばいいか、そもそもどう問えばいいのかも判断しかねて、面倒臭いから全部を彼女の呼び名へ込めた。梢子は視線を汀へよこすと深遠に笑った。
 ねえ汀、私はあなたのいる夜が嫌いじゃないわ。
 まったく理解出来ない回答だった。
 えぇと、誘われてる? ここは昼でしょう。呆れ顔をする梢子の腕が汀を抱き寄せる。
 心臓の音を忘れないで。それはあなたにもあるものだから。
 密着した身体から、音が振動として伝わる。
 トクトク、トクトク。
 さっきはひどく穏やかな気持ちで聴いていたのに、振動で伝わるそれは、なんだかいやに汀を落ち着かない気分にさせた。
 疾く疾く疾く疾く疾く疾く。
 傍らに控えていた犬が口を開ける。
 うぉん。
 
 
 
 
 吠え声に呼び起こされ、気がつけば浮いていた。だらりと下がった身体の中で一箇所だけ、左腕だけが天を目指している。「うぅ……」汀は痛みに小さく呻いた。
 目を開けて現状を認識すれば、なんと驚き崖から落ちそうになっていた。というか半ば落ちていた。しかし今の己は停止している。さっきからひどく痛む左腕、それが自身を支えているようだ。
 首を持ち上げると、はらりと細いものが頬を滑った。見慣れたものだ。銀糸である。それは己のグローブから垂れ下がっていた。
 さらに視線を上げれば左手に絡みついた枝が目に入る。細く、それだけ柔軟な枝が崖の途中に密生していて、偶然にも左手が先端に引っかかったらしい。ワイヤーがもっと上の枝に絡んで減速し、最終的にこの枝群が汀の身体を受け止めた。状況から汀はそう推測する。
「……ミラクル」
 思わず感動してしまうような奇跡の連続だった。
「汀! 無事か!」
 上方からかかった声は馴染み深いもの。共に任務に当たっていた鬼切り役が、崖淵から身を乗り出してこちらを覗きこんでいる。「なんとか」どこかに打ったか嗄れた声でそれだけ応じて、汀はそれ以上落ちてしまわないようにワイヤーを手近にあった丈夫そうな枝へくくりつけた。これで救助が来るまでは持ちこたえられるだろう。左手に絡む細枝は今にも千切れそうで、あと少し目覚めるのが遅ければ崖下へ死のダイブをするところだった。
 すぐに訪れた救援の手(といっても丈夫なロープ一本だったけれど。急場では仕方あるまい)によって崖を登った汀の身体が、登り終えた途端に倒れこんだ。鬼に弾き飛ばされた衝撃、崖で急停止した時の衝撃、さらにロープ一本をよすがとしたロッククライミングによる疲労が重なって限界だった。心臓がいつもの数倍力強く脈打っている。なるほど、確かに己にもあるものだな、と汀は疲労困憊の中でうっすらと考える。
 汗みどろで倒れこんでいる汀のかたわらに、鬼切り役である守天正武が腰を下ろして、心からの安堵の息を吐いた。
「……今回ばかりは、駄目かと思ったぞ」
「悪運は強いみたいです」
「そいつはありがたいことだな。一瞬お前さんの気配が消えた時はさすがの俺も諦めかけたが」
 正武の言葉に汀が訝しげに片眉を上げる。気配なんて自在に消したり増大させたりできるものだが、もちろん崖から落ちて死にかけている状態でそんなことをするはずがないし、意識を失ったせいで薄れたといっても、正武ほどの人間が感じ取れないほど弱まりはしない。
 それなのに彼は汀の気配が消えたと言う。それはつまり、汀の意思でもなんでもなく、汀の霊的なものが消えうせたということだ。
「あたしの気配が消えたのって、どれくらいですか?」
「そうだな……三秒、長くて五秒やそこらってところか」
 とすると、最大で五秒間、己は『この世界』に存在していなかったことになる。もちろん、肉体はここにあったのだろうけれど、汀を汀たらしめているもの、『汀という存在の存在』はなかった。
 存在と時間はイコールである。存在していなれば時間もまた存在しない。有すなわち時であるなら、汀は五秒間、『ここではないどこか』にいなければならない。
「あ、犬?」
 唐突な呟きに、正武は意図をつかめず妙な顔をした。
 この巨躯と最後の吠え声。あれはおそらく真言の一部だ。あまねく始まりを告げる、創世の音。
 そこに気づいてしまえば、己を助けたあとの二つを意味するものを辿るのもたやすい。
 ワイヤーは得意技の名を持ち出すまでもなく形状から連想されるし、左手に絡み付いていた枝は、言い方を変えれば梢、彼女の名前の一部である。
 上半身を起こして座り込む。
「さすがオサ、正直者は有言実行か……。幽玄には程遠い荒っぽさだったけど」
「なんだ?」
「いえ、なんでも」
 右の眼を蒼くして周囲を見回すが、鬼の姿はない。正武があらかた片付けたようだ。もう汀の足を引っ張るモノはない。
「やれやれ、あいつに借りができちゃったわね。や、これはもう借りというか……恩かな」
 そのうちこっそり返しておこう。嘘吐きは有言にすると嘘にしてしまうから、何も言わずに返すのが良い。不言実行。惜しむらくは確実に梢子から感謝はされないが、スイッチが切れている時は大体そんな感じだから構わない。
「汀、動けるか? 大事ないようだが、治療はしないといかんだろう。動けるなら戻るぞ」
「動けないんで若が運んでください」
「お前さんが本当にそれでいいなら望みのやり方で運んでやる」
 犬、なかなか厳しかった。
 仕方がないので自分の足で立った。あちこち痛むが、どこも折れたりはしていない。まっ逆さまに崖から落ちたのがよかったのだろうか。どこかへ叩きつけられていたら骨の二、三本は持っていかれていただろう。左腕が最も痛むけれど許容範囲内だ。
 様子を見ていた正武は大丈夫だと判断したか、汀を先導するために背を向けて歩き出した。
 左腕が負傷のせいで熱を持っていた。強く脈打つ。トクトク、トクトク。
 遠く、遠く。
 今ごろ、彼女はなにをしているだろう。
 人間の目は背中にはついていない。
 正武の目は汀を見ていない。
「…………」
 オン。
 汀が左手を持ち上げて。
 それはそれは大層優しく、その指先にキスをした。

 


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