しあわせは猫のかたち


 放課後になり、帰ろうとしていたところで聞こえてきたのは足音。
 どたどたと駆ける音を不審がって、梢子が後ろを振り返る。
 「衛生兵ー! 衛生兵ー!」台詞はふざけているがその声音は真剣そのもの、まるでこの戦争が終わったら結婚するはずだった戦友が銃弾に倒れたかのようだ。
 声の主は百子であり、その両手には小さなふわふわしたものを抱えている。
 うん?と梢子は眉をひそめて、彼女の手に乗っているものを注視した。
「猫?」
 その通り猫だった。まだ子猫で、百子の両手にすっぽり収まってしまうほど小さい。おそらく生後二週間とかそのくらいだろう。赤毛の虎柄である。
 「百子」ばたばた走り回るばかりの百子に呼びかけて引き止める。
 「ああっ、えいせ……オサ先輩! 助けてください!」ようやく差し伸べられた手に、百子は迷いもせず飛びついた。
「どうしたの、その子」
「校舎裏に一人ぼっちでいたんですが、ミルクあげたら寝ちゃいまして。
こんなにちっちゃい子を一人置いていくわけにもいかず……。なんとなくシンパシィも感じますし」
 確かに、猫が乗っている手のひらは小さい。それ以外の部分も全体的に。
 百子はそれから、寮に置くのは無理だと寮監に突っぱねられたこと、友人たちを当たっても返事は芳しくなかったこと、このままでは猫を元の場所に置き去りにしなければならないことなどを手短に説明した。
 友を置いていくわけにはいかないという、義に溢れた行動だった。
「ところでオサ先輩は自宅通学ですよね?」
「そうだけど……。ちょっと、百子」
「いえ預かってくれるだけでいいのです! その間にあたしとざわっちで引き取り手を探しますから!」
 この通り、と百子が頭を下げてくる。両手がふさがっていなければ拝み倒されそうな勢いだ。
 そんな彼女を前に、梢子は苦いものを噛んだような表情をする。
 梢子とて別に猫が嫌いなわけではないし、むしろ好きな方だし、事情を説明すればほんの数日程度なら家族も許してくれるだろう。
 問題は、ほんの数日で情が移ってしまうかもしれないということだ。
 繰言になるが、猫は好きな方なのである。
 以前、ほんの数日で猫に情をわかせてしまった経験のある梢子は、また同じ事態になってしまわないかと危惧する。
 飼うとなれば、これほど小さい生き物なのだから、世話が大変だろう。
 両親は共働きだし、祖父も昼間は自宅にいない。梢子自身も当然ながら学校があるわけで、つまり平日の昼間は自宅がまるきり空いてしまうのだ。
 こんなに小さなものをぽつねんと置いてしまうのは気が引けた。
 前回は充分育っていたから放っておいてもさして気にならなかったが、今回はそうもいかないなと、視線を猫に落としながらため息をつく。
 にゃあ、と猫が寝言で鳴いた。
「…………」
 どうしよう可愛い。
「オサ先輩、お願いします! 一週間、いやさ五日でなんとかしますから!」
 ずずい、と猫を捧げるように持ち上げて、更に頭を下げる百子。
 梢子は近づいてきた子猫を見つめる。
 あ、前足がピクピクしてる。
「まったく……」
 猫と遊女は本性を見せないから気をつけろと先人は言うが、それならきっと、自分は良いカモなのだろう。
「仕方ないわね。何日かだけよ?」
「ありがとうございます!」
 百子は一瞬にして喜色満面、眠ったままの子猫に「良かったねー」などと話しかけている。
「まあ、その子を放り出すわけにもいかないものね」
「あ、そういう時は『べ、別にあなたのためにするんじゃないんだからねっ』とかつけるとポイントが高いってじいちゃんが言ってましたよ」
「なんのポイント?」
「さあ。よく判りませんが」
「そもそも、本当に百子のためじゃないし」
「……もう少し後輩を労わってもバチは当たらないと思うのですよ」
 部活動に行かなければならない百子から猫を受け取る。
 彼女はやはり気になるらしく、今晩にでも様子を見に行きたいと申し出てきた。特に断る理由もなかったので、梢子はそれを承諾する。
「では、なにとぞ、なにとぞよろしくお願いします」
「判ったから、もう部活に行きなさい」
「く……必ず迎えに行くからね……!」
「なんだか私がこの子を無理やり連れて行くみたいになってるんだけど……」
 名残惜しそうに猫を一撫でして、百子が道場へと向かう。梢子はそれを少しだけ見送って、自宅への帰路についた。
 
 
 
 先住猫、ではないはずなのだけれど。
「オサオサー、おかえりー」
 居間にはでかい猫がいた。梢子がうっかり情をわかせてしまった猫である。
 持参したのかペットボトルのスポーツドリンクを飲みながらくつろいでいる汀を、梢子は半眼で見据える。
「来るときは連絡しなさいって、何度も言っているでしょう」
「やー、思ってたより任務が早く済んでね。ちょっと時間が空いたから」
「……ふぅん」
 ちょっと時間が空いたから、近所の友人とお茶でも。そんな風情で汀は言う。
 笑わせる。空いた時間はどれほどだ? ここに来るまでの時間と帰る時間を差し引いて、残るのはどれだけだと言うのか。
 まったく、これだから、本性を見せたがらない猫は。
「ん? オサ、なに持ってるの?」
 胸に抱える小さなものを認めた汀が、近づいて覗き込んでくる。
 「お、猫だ」彼女は百子によく似た笑顔を浮かべた。つまり、同類を見る目で。カテゴリは随分違っていたけれど。
「どうしたのそれ」
「百子が拾ってね。飼い主が見つかるまで預かることになった」
「へー。じゃ、あたしの後輩だ」
 自覚はあるらしい。
 梢子の手にある子猫を、汀がころんと転がす。猫は寝子、とはよく言ったもので、仰向けにされた状態でも猫は起きる気配を見せなかった。
 腹をくるくる撫でる。にぅ、子猫が気持ち良さそうに鳴いた。
「名前は?」
「何日か預かるだけだし、別にいらないんじゃないの?」
「ま、名前つけたりすると愛着も出るしね」
 読まれているのが少し悔しい梢子だった。
「けど、何日かだけでも呼んだりはするでしょ? 名前がないと困るんじゃない? とりあえず仮にでもつけてあげたら?」
「そうね……」
 さすがに腕が疲れてきたので(重量の問題ではなく、姿勢的に)、起こさないようそっと猫を下ろし、二人はその脇へ並んで座る。
 梢子はじっと子猫を見つめて黙考した。
「じゃ、『ミギワ』で」
「……へ?」
「この子の名前。毛の色が汀の髪と似てるし、まったくの新しい名前をつけるよりは仮名っぽくなるから」
 赤の入った茶色い毛の猫。どうにも汀を連想させるのだ。小さいけど。
 それに、百子が無事ミッションコンプリートして手放すことになった際、それきり呼ばない名前より、他にその名を呼ぶ機会がある方が、なんというか、寂しさがまぎれるような気がする。
「や、でもそれ紛らわしくない? ちょうど今あたしがここにいるわけだし」
「それもそうね。
なら、これからあなたを『喜屋武さん』って呼ぶことにするわ」
「格下げられた!」
 オリジナルなのにこの仕打ち。汀は思わず床に両手をつく。
 「オサの愛が見えない……」「元からないんじゃない?」気のない返事をする梢子はもにもに動く子猫の前足に夢中である。
 人差し指を伸ばして米粒よりまだ小さいピンクの肉球に触れると、何と勘違いしたものか、子猫はそれを掴んできた。柔らかい。なんだか無条件に幸せだ。柔らかいものは、触れていると幸せになる。
 指先だけでなく、なにやら背中全体に柔らかいものが触れてきた。
 甘ったるい強硬手段に出てきた汀が肩に顎を乗せて、「オサー」と少しばかり拗ねた声で梢子を呼ぶ。
 新しい猫が来ると、先住猫はほぼ確実に嫉妬するのだという。
 テリトリィに匂い付けをするように頬をこすりつけてくる感触が、梢子の笑みを誘った。
 いつもなら照れ隠しに嫌がるところだが、まあ、他に人もいないし、なんだか幸せなので。
 右手は猫に触れたままで、空いている左手を持ち上げてくしゃりと汀の髪を撫でる。
 腹部にまわされた汀の腕は強さがない。引き締まってはいるけれど、女性的な柔らかさが確かに存在していて、それを背中と腹部で感じ取っている。
 かまえと訴えてくる弾力。
 良い気分だった。
 普段、こちらが振り回されてばかりだから、たまにはこんなふうに彼女を翻弄してみるのも悪くない。
 とかなんとか思っていたら、不意に汀が「にひひー」と笑った。
「オサ、今『みぎわがかわいい』と思ってるでしょ」
 思わず苦笑が出た。
 やはりカモが猫の真似事をするのは無理があったか。
 ミギワと名づけられた子猫は体温を求めてか、指先をたどって更に梢子へまとわりついてきている。
 ゆるりとミギワの額を撫でた梢子は、苦笑したまま「当たり」と答えたのだった。
 
 
 
 百子がやってきたのは夕飯を済ませた直後。かすかに残念そうな表情をしたのを見逃さない梢子と汀だったが、かわいそうなのでツッコミは入れなかった。
 どうせだから保美も連れてきたかったし、本人も望んでいたが体調が思わしくなかったので諦めて寮に帰ったらしい。
 汀の姿を認めた瞬間、百子は微妙な目をした。
 梢子は気づかなかったし、汀も何も言わなかった。
 
「おーおー、綺麗になったねー」
 ミルクを与えて、風呂に入れた子猫は、昼間より更に可愛らしい。
 梢子の部屋に招かれ、友と再会を果たした百子が相好を崩しながら小さな首筋を撫でた。
「一応、剣道部のみんなにも聞いてみたんですけど、状況は厳しく……」
「うちは寮生が多いからね。初日だし、そんな顔しなくていいわよ」
 唇を尖らせた百子は次に「うー」と眉を下げて苦々しい表情を浮かべる。「こんなに可愛いのにー」叶うなら己が引き取りたいと思っているのがありありと判る独白だった。
「そういえば、名前はもう決めたんですか?
まだなら『にく』という素晴らしい名前をあげたいのですが」
「残念だけど決まってるし、たとえ決まってなくてもお断りするわ」
「なんでですか! おいしそうで良い名前ではないですか!」
 心底納得しかねると百子が噛み付いてくる。良い子なのにな。ちょっと目の前の後輩がさっきとは違う意味でかわいそうになる梢子だった。
「……まあ、決まってるのなら仕方ありません。なんて名前にしたんですか?」
 問われて、梢子は汀を見た。汀もこちらを見ている。
 交し合った視線での会話で彼女は、「好きにして」みたいなことを言った。
「ミギワ」
「ええミギーさんのお名前は存じ上げておりますので、この猫の名前を」
「だから、ミギワ」
「……はい?」
 百子がミギワを指差し、「ミギワ?」と尋ねる。梢子が頷き、汀も渋々追従した。
 この小さな生き物の名を得心した百子の口が、シャボン玉でも吐きそうな形に開く。
「いえ、まあ、オサ先輩がそれでいいならいいんですが……」
「なぁに、文句でもあるの?」
「そういうわけでは。ええ、あたしも小さい頃、ぬいぐるみに好きなアニメキャラの名前をつけたりしました。そのお気持ち、判らないでもありません」
 わずかな恥じらいと、微笑ましさと、もう少し複雑な、なんとも言えない感情。それらを等分に混ぜた表情で百子は頷く。
 なんのことを言っているのか判らなかった梢子は、小さく首を傾げて、それから意味を理解したか、一瞬で頬を紅潮させた。
 黙っていた汀が堪えきれずにくつくつと笑い出す。
「ちっ、違うの! そういうことじゃなくて!」
「いやいやそんな、今更照れなくても良いのですよオサ先輩。
あたしは立場上なにも言えませんが、オサ先輩の気持ちまで否定する気はありませんから」
「だから……!」
 しまった、これは大きな落とし穴。
 なんとなく汀っぽいから名づけただけなのに、第三者からしてみれば、猫に好きな人の名前をつけるちょっと可愛い乙女心としか思えないのだった。
 目の前の後輩はもう、何を言っても言い訳としか受け取ってくれないだろう。
 己の失策に打ちひしがれる梢子だった。
 携帯電話のストラップでミギワと遊びながら、百子はふむと思案顔になる。
「ミギーさんはミギーさんでいいとして、この子はどう呼んだらいいでしょうね。
ミギワ、と呼び捨てにするのも、あたしとしては据わりが悪いですし」
 オリジナルをさん付けで呼んでるせいか、その名前を呼び捨てることに抵抗があるようだ。
 「あたしは別に構わないけど」汀が言うけれど、百子は首を横に振った。
 なにか彼女なりのこだわりでもあるのか。そういえば、汀の愛称について最も拘泥していたのは彼女だった。
「ミギーさんの猫版ですから、ミャギーさんとかでいいですかね」
「手品でもしそうね」
「だってミギャーさんじゃ悲鳴みたいですし。それに見てください。ミャギーさんの見事なマジック」
 ストラップをミギワの目の前にかざす。ミギワはそれを前足で捕えようとする。
 ひょい、とストラップを上に持ち上げると、それを追いかけてミギワが器用に後ろ足だけで立ちあがった。
「どうです! 縦だったミャギーさんの縞々があっという間に横縞に!」
「本歌取り!?」
 大げさに驚いてあげる汀である。
 そんなやり取りのせいで、すっかりミギワの愛称はミャギーさんで定着してしまった。 とはいっても、百子以外にそんな呼び方をする人物はいないだろうけれど。
 ひとしきりミギワと遊んで満足した百子は、時間も時間なので早々に梢子の家を辞した。
 必ず飼い主を見つけるから、と宣言していたが、人懐こい彼女のことだから、手当たり次第に声をかけてきっとどうにかするだろう。
 百子の見送りを済ませて部屋に戻ると、音に気づいたミギワがちょこちょこ寄ってきて、腰を下ろした汀の膝に乗っかった。汀は落ちてしまわないよう片手で小さな身体を支えてやる。
「懐かれてるじゃない」
「羨ましい?」
 にひひ、と笑いながら聞かれて、梢子は肩をすくめる仕草で答える。
「どっちが?」
「……みぎわが」
 汀は小さく笑って、どうとも取れる眼差しで梢子を見つめた。
 どちらのことだと思ったのか、確かめたらやぶ蛇になりそうだったので梢子は目を逸らす。
 汀が毛の流れに沿って撫でると、グルーミングされている気分なのか、ミギワが喉を鳴らした。
 その様子を眺めていた梢子は兄弟猫のようだと思う。
「オサも抱っこする?」
「ん」
「大きいみぎわと小さいみぎわ、お好きな方をお選びください」
「小さいみぎわで」
「……謙虚ね」
 別に大きい方の中身が化物だと思っているわけではないが。
 欲張らなかったおかげで手に入れた宝物を、梢子は優しく抱き上げる。
 百子が全力で遊んだせいで疲れたのか、ミギワは寝ようか起きようか迷っているようにも見える風情で、こっくりこっくり舟をこいでいた。
 まだ遊びたいけれど眠い、そんな様子は人も猫も変わらないようだ。
 すっかり全身を預けているミギワに口元を緩めていると、視界に影が差した。
 上げた視線の先には猫の目。移ろいやすさの象徴であるそれは悪戯に細められている。
「動くとちっちゃいのが起きるわよ」
 そんな、忠告とも警告ともつかない言葉の次に唇が降る。
 逃げようも抵抗しようもない状態だったから、梢子は大人しくそれを受けるしかない。
「なに妬いてるの」
「そういうわけじゃないんだけどね」
 顎をつかまえられてもう一度。「ちょっと、汀」動くなと言われても、回を重ねるにつれて大きくなっていく震えは抑えようがない。
 身を引いて待ったをかけたところで、ミギワが唐突に梢子の腕を抜け出した。
 子猫特有のスイッチが入ったようだ。先ほどまでのまどろみはどこへ行ったのか、部屋中を元気いっぱい走り始める。
 一気に騒がしくなった室内で、梢子は溜め息をつき、汀は脱力感溢れる笑みを浮かべた。
「まったく、勝手なんだから」
 大きいのと小さいの、両方に向けて呟く。
 まだ宵の口であるが、あまりうるさいと家族の不興を買ってしまうかもしれない。
 とはいえ、この元気な子猫を大人しくさせる方法など知らないし、大きい方を大人しくさせる方法は、知っているけれどこの状況下で行うのはちょっと厳しい。
「やれやれ。今日は遠慮した方が良いかしらね」
 不意に汀が呟いた。先住猫の気配り、と見せかけた、ただの誘い文句だ。
 ずるい。先ほどのキスはその前準備だったのだ。獲物を捕るために風下で身を低くする、そういう行為だった。
 小さく唸ってから、走り回っているミギワを抱き上げて立ち上がると、汀のかすかな笑声が聞こえた。
 かかった、とでも思っているのだろう。
 仕方がない。こちらはカモなのだ。猫に勝てるはずもない。
「……ちょっと、おじいちゃんに預けてくる」
「どうして? 別にいいじゃない」
「騒がしいとゆっくりできないでしょう?」
 抜け出そうと暴れる子猫を押さえつつ汀へ目を移す。
 視線の先にいる猫は、もう捕まえているから余裕なものだ。逃げられるものなら逃げてみろとばかりにその場を動かない。
 逃げるどころか飛び込もうとしている己の不甲斐なさに、梢子は軽く目頭を熱くした。
「ゆっくりできないって、何ができないのかなー?」
 猫は捕えた獲物をすぐには食べない。
 ちょっかいを出して遊ぶ習性を持っているのだが、獲物としてはたまったものではない。
 梢子が眉をひそめた。
「……問答?」
「じゃ、あたし『そもさん』ね」
「馬鹿」
 
 
 
 汀が「そもさん」と問い、梢子が「せっぱ」と答えるやり取りを終えた室内は静か。
 切羽詰っていた状態を脱した梢子は心地よいまどろみにいた。
 引ききらない熱と柔らかな重みが眠りを邪魔する。耳元でわずかの乱れもない呼吸音が鳴っていて、それが少し悔しい。
 シーツから手を離し、ゆるゆると持ち上げて汀の髪へと差し込む。「なーに、オサ」彼女の唇が頬をくすぐった。
 常時であれば触れられたところで特になんともない箇所なのに、今ばかりは、そのやわい感触が幸福を呼ぶ。
 自身にかかる幸せな重さを知覚しながら、梢子は剣道の間合いを計る要領で呼吸を落ち着けて、両腕を彼女の首にまわした。
「寝てるときの猫って可愛いわよね」
 ふっと、苦笑じみた呼気が聞こえた。
「猫は猫で、メロメロになってる人間を可愛いと思ってるかもよ?」
 猫の鳴き声は甘い。汗ばんだ肌を指先が流れて、一瞬、梢子の喉が詰まった。
 情を抱いてしまった猫は大人しくしていない。困ったものだ。一番困るのは、どうにも逃げられない自分自身なのであるが。
 大人びた微笑が闇に浮かんでいる。少女らしからぬような、少女であるからこそ浮かびえるような、ボーダラインの表情だった。
 快楽を知りえて間もないからこそできる表情だ。刹那の本性は、またたびを与えられたせいだろうか。
 触れるだけのキスを何度かされて、次第に深くなってくる。
 薄れていた熱が引き戻される。なだらかな肌を落ちる汗がいやに気になった。
 新入りを追いやって飼い主を独占している猫は無遠慮に甘える。どうすれば飼い主が幸福を覚えるか知っているから、的確にそれを実行する。猫は無駄な動きを取らない。
 首筋に噛み付かれて身をすくめる。一撃だった。
「……また?」
「ほら、猫って一日に何度も寝るじゃない」
「もう……」
 猫が好きなのである。
 こんなふうに甘えてこられて、逆らえるわけがない。
 受け入れの合図に彼女の頬を両手で包むと、暗闇に三日月が浮かんだ。
 選んでしまった。
 欲張りにも、大きい方を選び取ってしまった。
 そのせいで、選ばなかった小さい方への未練が膨らむ。
「やっぱり、私じゃ一匹で手一杯なのよね。
もし百子が引き取り手を見つけられなかったら、うちで面倒見られないかと思っていたんだけど」
「こらー、こういう時に他の子のこととか考えるなー」
「気になるんだもの」
 数日という予想は大きく外れ、たった一日で情を持ってしまった。
 だって可愛いのだ、それはもう物凄く。
 今まさに甘えてきている猫も可愛いのだけれど、それはそれ、小さいものは小さいだけで可愛らしい。
 こっち大きいし。選ぶまでもなく抱っことかできないし。
 けれど、そのうち百子が引き取り手を見つけてしまうだろう。
 そうしたら離れ離れだ。その未来はおそらく遠くない。
 たった一日なのに、もう寂しい。
 だから、というわけでもなかったけれど、梢子は汀にきゅっとしがみついた。
 軽く驚いたのか、汀が両目を大きくした。
「おおっ、珍しい。どうしたのオサ、可愛いわよ?」
 平時であれば言い返すはずの軽口もスルー。
 何かを感じ取ったのか、汀もそれ以上はふざけなかった。
「あなたはどこにも行かないでいてくれる?」
 目を閉じて、肩口に顔をうずめると、彼女が優しく撫でてくれた。
「うーん、そう言われても、鬼切りの仕事とかあるし」
「そういう意味じゃないわよ」
「ん、実は判ってる」
 まったく、こんな時まで意地悪をしなくても良いではないか。
 微妙に機嫌を損ねたのを察したか、汀が髪を撫でたまま、とりなすようにこめかみへキスをしてくる。
 離れた唇が、梢子の耳元で「near」と鳴いた。
 
 
 
 百子は宣言どおり、きっちり五日後に引き取り手を見つけてきた。
 クラスメイトの友人が飼ってくれるのだという。家族揃って猫好きで、何度も猫を飼った経験があるから大丈夫だと百子は説得じみた口調で説明した。そんなに未練がましい顔をしていたのだろうか。
 選ばなかった宝物は心優しい誰かの手に。
 欲張りな梢子が選んだ大きいのは、さっさとどこかへ行ってしまった。
 背を反らし、天井を見上げて溜め息。
 判っている、別に梢子を見捨てて消え去ったわけではない。単に時間切れを迎えて帰ってしまっただけだ。むしろギリギリまでこちらにいてくれたのだと思う。
 ところ構わない猫の鈴が、汀の意に反して鳴っているのを、何度か聞いた。
 しかし、名を呼ぶ機会を得るために子猫へあの名をつけたのに、これでは意味がない。
 一応、子猫のもらい手が決まったとメールで連絡はしてみたが、彼女にしてみればそれほど愛着があったわけでもないのだし、大して感想もないのか返信が来なかった。
 寂しい。なんだか色々と。
 
「……みぎわ」
 
 部屋で一人、可愛いものの名前を呼ぶ。
 誰が答えるわけでもないと、判っていても少し切ない。
 ピンポン、と玄関でインタフォンが鳴った。しばし待ってみたが、家人が出る気配はなく、証拠にもう一度インタフォンが鳴らされる。
 のそりとドアを開けて玄関へ向かう。なんだろう、宅配便かセールスのたぐいか。
 とりあえず、妙に内へこもっていた身には良い気分転換だと、梢子は玄関のドアを開けた。
「こんにちはお邪魔します」
 するり、猫のしなやかさで梢子の横をすり抜けて上がってくる。
 「え、ちょ」一瞬あっけに取られた。そのあまりにも鮮やかな身のこなしと、それ以前に彼女の姿そのものに対して。
「汀……? どうして、帰ったんでしょう?」
「帰ったわよ、一旦」
 その言葉を信じるなら、昨日の今日でまたやって来たということか。
 梢子は無意識に計算する。ほとんどとんぼ返りと言って良い。
 よくよく見れば、彼女の身体には小さな赤いラインがいくつも入り、洋服にもほつれができている。
 表情だけが、いつも通りの軽薄さだった。
「まさか、任務が終わってからそのまま来たの?」
「本当にまさかよね。そんなわけないじゃない。ちょっと時間ができたから」
 軽薄を絵に描いたような表情は、本性を隠していることの表れ。
 ふわふわした柔らかいものが梢子の腹部に湧き上がって、それが促す声に従い、梢子は手を彼女の頬へ伸ばした。
 
 思いっきり引っ張る。
 
「ああぁぁ! いひゃいいひゃい!」
「馬鹿! せめて傷の手当てくらいしてきなさい!」
「うう、会うなりこの仕打ち……。オサの愛が見えない……」
「あるから怒っているの」
 
 カモはカモでしかないので、もう猫の真似事はやめた。
 自身を包み込んでくる腕からも逃げない。
 世界中の甘いものを集めて煮詰めた腕の中、求められるままに唇を重ねる。
 好きだと強く思った。
「いなくなって寂しかった?」
「……ん」
 誰が? 猫は意地の悪い質問をする。
「あなたが」
 名よりも明確な二人称で梢子は答え、両手一杯に柔らかな猫を受け入れる。
 
 欲張りが得た大きな宝物は、幸せという名のかたちをしていた。



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