LOST


 ゆらゆらする感覚。
 自分が自分でないような、そもそも『自分』がないような。
 黒いもやが己の内へと侵食している。初めのうちは苦しさを覚えていたけれど、それももう失せた。
 ああ……『削られる』。
 奪われていく。
 梢子は無感覚の中で、それでも奇妙な慕わしさを感じていた。
 
 
 
 遠方からはるばるやって来た汀とコハクは、そろって呆気に取られていた。
 汀は目を丸くして固まっているし、コハクも片方だけ開いた瞳を訝しげに眇めて、眼前で繰り広げられている光景を眺めていた。
 二人がいるのは梢子の自宅である。緊急事態と告げられた時、どちらもわりと面倒くさがったが、いかんせん《剣》の強い干渉を受けた存在がゴロゴロいるところからの連絡だったので鬼切り役の鶴の一声がかかってしまった。
 そして、梢子の家族に出迎えられて通された彼女の部屋では狂乱が起こっていた。
 
「最近は見慣れていたから、少し懐かしいわね」
 夏夜がしみじみと言い。
「あ、あのっ、クッキーを焼いてきたのでよかったら……」
 保美がおずおずとクッキーを差し出し。
「ではわたしも。はい、梢子さん」
 横から綾代がいそいそと同じようにして。
「梢子ちゃん、わたしより小さいです」
 維巳がふわふわ笑っていて。
「うーん、ここはやはり伝統にのっとって『ちびオサちゃん』と呼ぶのがいいでしょうかねえ」
 百子がうんうんと唸りながら悩んでいた。
 たっぷり二分間硬直した汀が、ようやく口を開く。
「コハクさん」
「なんだ」
「帰りたいです」
「奇遇だな、わしもだ」
 同時に深く嘆息する。「黙って見ていないで助けて」夏夜がよいしょよいしょと抱きかかえようとしてくるのに抵抗しながら、梢子が甲高い声でSOSを送ってきた。
 汀は口元の引きつった苦笑を浮かべながら、片眉を軽く上げた。
「久しぶり、オサ。しばらく見ないうちにずいぶん縮んだわね」
 正月にしか会わない親戚の大人みたいなことを言いつつ(定型句とは正反対だったけれど)、一歩進み出て梢子の顔を覗き込む。
「面白いことになっちゃって」
「ぜんっぜん面白くない」
 仏頂面で言い返してくるが、まったく迫力がない。
 それもそのはず、彼女は小さかった。
 高校生のはずなのに、どう見ても十年は生きていないような外見になっていた。小学校に上がるか上がらないか、といったところか。
 驚きのアンチエイジングである。
 なにがなんでも梢子を抱っこしたいらしい夏夜に根負けしたか、単純に体力が尽きたか、どうにでもしろという表情で夏夜の膝に乗った彼女は苦りきった様子を惜しげもなくさらけ出した。
 その口に綾代からクッキーを突っ込まれてもぐもぐする。
 「梢子さん、可愛いです……」綾代がうっとりと呟いた。
「ふ……ぅははっ。まるで童だな、梢子よ。瓏琉を一太刀に屠った者とは思えん」
 コハクのツボに入ったようで、両手をたたいて笑い出す。甘いクッキーを食べているはずの梢子はますます苦い顔をした。
 しきりに頭を撫でてくる維巳とか、両脇からお菓子とかジュースとかを差し出してくる保美と綾代とかにもみくちゃにされながら、「とにかく」梢子はなんとか状況を打開するべく声を上げた。
「朝起きたらこんな状態で……。鬼切り部なら何か判るんじゃないかと思って汀に連絡したんだけれど」
「ふぅむ」
 水を向けられた汀が小首を傾げた。
「まあ、鬼に半分くらい『食われた』んでしょうけど。普通はそこまで食われたら死ぬんだけどなー」
 不穏なことを呑気に言う汀だった。さすがにコハクを除いた全員が総毛立つ。
 それまではあまり緊迫した事態だと思っていなかったのだろう、一瞬にして色を失った一同の中、百子が少々慌て気味に口を挟んできた。
「でもミギーさん、見てのとおりオサ先輩、いやちびオサちゃんは元気に生きてますよ。縮んでますけど」
「百子、言い直すくらいなら今までどおりに呼びなさい」
 「そうします」自分でも据わりが悪かったのか、百子がうなずいた。
 汀が横目にコハクを見やる。視線を感じたか、白髪白皙の鬼はふんと鼻から息を洩らした。
「梢子が取り込んだ混沌のせいであろうな。あれはそもそも形を持たん。形を保っていたのは梢子の記憶に寄るところが大きいのであろう。食われて失われたおかげで元の形を取れぬようになったから、おぬしの記憶を探って今の量で足りる姿を組み直したのだ」
 推測だがな、と最後に付け加える。
「前にオサの右腕を餌にして、鬼をおびき寄せたことがあったじゃない。多分あれと同じことが起こった。全部片付けたと思ってたけど、まだ残ってたわけね」
 あの時は汀やコハク、さらには鬼切り頭などもいたから危機という危機には陥らなかったが、今回は眠っている間に襲われたうえ、専門家もいなかった。全部食えなかったところを見ると、それほど強大な力を持った存在でもなさそうなので、夏夜も察知できなかったのだろう、と汀は言った。
「鬼切り部の不手際ってことになるだろうから、一応、お偉い方に上申しておくわ。今後は大丈夫だと思うわよ」
「それはありがたいけれど、今の状況はなんとかならないの?」
「覆水盆に返らず、こぼれたミルクを嘆いても無駄。いくら鬼切り部でも、こればっかりはね」
 汀の返答に、梢子が絶望的な顔をした。まだ高校にも通わなければいけないし、よしんば卒業までこぎつけたとして、進路はどうしたらいいのだろう?
 一気に重くなった空気に、みんな気詰まりの様子で口をつぐむ。夏夜が梢子を抱く腕に力をこめた。維巳がそっと手を握ってあげる。二人とも似たような状態だから余計に事態の重みを感じているのかもしれない。
「どうにか……なにか方法はないんですか?」
 しぼり出すように、保美が誰へともなく問う。
 「……さて」汀は語尾を濁し、視線を斜めに床へ落とした。
 ふっ、と、コハクが静かに瞑目した。
「汀、あまり苛めてやるな。案じることはない、わしのオニワカを見たであろう? あれも『力』を具現化させたものだ。その応用で梢子の足りぬ部分を補うことなど造作もない」
「ああ、霊的な義肢って感じですか」
 合点がいった、というように目をくるんとさせた汀が相槌る。「じゃあ、先輩は元に戻るんですか?」「そうそう失敗はせん」おずおずと尋ねてきた保美にコハクがうなずいた。
 コハクは腕を組み、なにかを探るように梢子を注視する。見つめられた方は居心地悪そうに身をよじった。守るように、夏夜がその身を両腕で包む。
 警戒する梢子と夏夜の視線を、眉を段違いにしながら受け止めて、首を振ることで別に害意はないとアピールする。
「術を組むまで一晩といったところだな。なにせおぬしに宿るのは神に等しい『力』だ、鬼を生み出すよりよほど容易い」
 見つめていたのは単に梢子の状態を確認したのと、必要な作業にかかる時間を見積もっただけである。夏夜の肩から力が抜けた。
 懐から丸いサングラスを取り出して鼻に引っかけたコハクは、早速準備に取りかかるために踵を返した。
「では、わしは先に宿へ戻っておる」
「あたしも手伝いましょうか?」
「無用だ。いくら容易いと言っても、おぬし程度では扱えぬよ。せめて鬼切り役ほどの力がなくてはな」
 揶揄でもなく、淡々とした口調で断られては食い下がることもできない。「さいですか」汀は小さく肩をすくめた。
 黒いレンズの奥で右目が軽く細められた。「良い機会だ、かれがれのよしみを結んでおけ」コハクの言葉に、汀は複雑そうな表情を浮かべて唇を閉ざし、否とも応とも答えなかった。
 久しぶりに会ったのだから仲良くしておけ、と言われて素直にはいと答えられるほどまっすぐではないし、いいえと答えられるほどそれが嫌なわけでもなかったからだ。
 返答を探しあぐねて黙っている間にコハクはその場を辞した。特に汀の返事を期待していたわけではないようだ。
 「あー……」なんとなくつかみの一声を吐いてから梢子へ向き直る。
「というわけで、コハクさんに任せておけば多分大丈夫」
「多分?」
「揚げ足取らないでよ」
 自分はよくやるけれど、他人にされると嫌なものだ。それを知っているから多用するのだけれど。
「あたしにはコハクさんの術がどの程度の成功率を持っているか判らないから、断言なんてできないわけ。コハクさんが言った以上のことは言えないし。でもまあ、あれだけ自信ありげだったんだから大丈夫なんじゃない?」
 己の発言に責任を負いたくなかったので、まったく意味のない言葉をさも何かあるように告げる。みんなあっさり騙されてくれて一様にホッとしていた。汀はなんの保証もしていないのに。
 安心したことで気が緩んだのだろう、みんなまたぞろ騒ぎ始めた。
 汀はそれをつまらなそうに眺めている。
「オサ先輩、今のうちにいっちょ手合わせ願えませんか。あたし、今ならやれそうな気がするんです……!」
「いかにも自分の中にある秘めた力が顕現したみたいに言っているけれど、こっちが小さくなったから勝てると思っているだけでしょう……!」
「大丈夫ですよ梢子さん、わたしが仇を取ってあげますから」
「いやそういう問題じゃなくて」
「なら、私が梢ちゃんの代わりにお相手をしましょうか?」
「それは楽しそうですね。百子ちゃん、頑張ってください」
「わーなんか予想外の展開にー!?」
「やめてください、百ちゃんが死んじゃう……!」
 かまびすしくはしゃぐ。雀の集団がピーチクパーチク騒いでいる様子に似ていた。一匹だけいる猫はくあぁと一つ欠伸をして眼差しをそれに向ける。
 一直線。
 逃げるいとまを与えずに雀を一匹捕獲した。
 夏夜の膝から汀の腕へと移った梢子は、一瞬なにが起こったのか理解できずに目を丸くした。
 汀は獲物を抱えたままの姿勢で小さく嘆息する。
「こらこら、いくらオサが面白いことになったからって玩具にしない。鬼に半分食われたって、本来ならかなりおおごとなわけ。もう少し気を遣いなさい」
 正論を吐かれて、はしゃいでいた全員が押し黙った。梢子だけが、「面白くないってば」と口の中だけでぶつくさ文句を言った。
 梢子はバランスを取るために体勢を直しつつ、ちょうどいいからとドアの方を指差す。
「あなたが一番冷静よね。みんなが落ち着くまで少し出かけていましょう」
 不本意ながら大人気で(今までも好かれていたけれど、明らかにベクトルが違う)大変なので、みんなが落ち着くまで退避していたいという意図のようだ。「別にいいけど」汀が了承した途端、なぜか百子以外の面々が泣きそうになった。
 汀の腕から降りた梢子は、「もう解散」とため息混じりに宣言すると、汀の服のすそを引っ張ってドアへいざなった。みんな何事か言いたそうな顔をしながらも、やりすぎたと反省しているのか引き止める者はいなかった。
 
 青の続く空の下、汀と梢子は連れ立って歩く。特段どこか目的地があるわけでもない。汀にいたっては異邦人のためどこになにがあるのかまったくもって不案内である。梢子の半歩ほど後ろをついていくしかない。
 晴天のため空は高く雲が少なくて視界が広い。見上げればなかなかに気分の良い光景だったが、ちまちまと歩く後ろ姿を見失っては困るので、汀は早々に切り上げて視線を彼女の背へと戻した。
 不思議なヴィジョンだ。
 本来なら写真や映像でしか見ることの叶わない姿が、現実感と肉感を持って目の前に存在している。見慣れない景色とあいまってタイムスリップでもしたような気になってくる。先ほど抱き上げた感触を生々しく思い出した。特に深く考えずに取った行動だったが、もしかしたら彼女のプライドを傷つける行為だったかもしれない。その推測を裏付けるように、さっきから彼女は足早である。
 汀の口元が笑みを作った。気配を消して手を延ばす。
 くん、と梢子のシャツの襟首へ指を引っかけると、彼女はわずかにたたらを踏んでから立ち止まった。
「いきなり引っ張らないで」
「オサ、ひょっとして怒ってるの?」
 にまにましながら問いかけたら、仏頂面が返ってきた。
「……今はこんなだけれど、私とあなたは同い年なの。それを忘れないでちょうだい」
 やっぱり怒っていたようだ。本気なのだろうが姿が子どもなので迫力がない。「それは失礼」喉を鳴らしながら形ばかりに謝罪したら弁慶の泣き所を蹴られた。あまり痛くはなかった。
「ま、今日一日の我慢よ。めずらしい体験ができたと喜んでおけば? みんなにも好評だったみたいじゃない」
「こんな状態で好かれても仕方ないじゃないの」
「それはそうだけど」
 梢子は苛々している。いつもより遅い歩みだとか、手が届かなくて向こう脛を蹴るしかない身体とかに苛々している。なにより、以前よりずっと遠い位置にある汀の顔に苛々していた。
 苛立ちを把握しないまま、汀は両手を頭の後ろで組むと、「で」と話題を切り替えた。
「このままずっと散歩するつもりなわけ? 健康的でいいかもしれないけど、ミギーさんちょっと退屈だわ」
 あの狂乱ぶりを見るに、数十分やそこらでは彼女たちの頭は冷えないように思える。というか、夜まで待ったところで同じことなのではないだろうか。綾代などは「連れて帰りたい」とでも言いたそうな雰囲気だったし、夏夜や維巳、保美は美しき思い出がよみがえったか、とにかく梢子をかまいたがっていた。百子は彼女たちに比べて多少盛り上がりに欠けていたけれど、持ち前の性質が珍事を歓迎していることは手に取るように判った。
 汀とコハクが到着するまでのことを思い出したか、梢子が苦い顔になった。
「そうね……。いくらなんでも夕方には保美たちは帰るでしょうから、それまで時間をつぶしていましょうか」
 帰れと告げることもできようが、それでは「迷惑だ」と言っているのと同じことになる。連絡を受けてすぐ、心配してかけつけてくれた相手に対して、それはあまりにも不義理というものだ。
「夏夜とナミーだけなら、まだ対処のしようがあるか」
「ん」
「けど夕方までって、まだ昼すぎよ?」
 どうするんだ、と視線で問うと、彼女は少しだけ逡巡してから汀を見上げた。
「いい機会だし観光案内でもしましょうか」
 それから梢子は観光名所として有名な場所をいくつか挙げた。複合施設、レジャーランド、寺社仏閣、自然公園やら美術館やら水族館やら。
 汀は最後のに反応する。
「水族館? あなた、海に囲まれた土地で暮らしてて、まだ魚が見たいの?」
 少し意外そうに梢子。「てっきり宗教関係の建物にでも行きたがるかと思っていたのに」
「そっちも嫌いじゃないけど、ちょっと色気がなさすぎるじゃない?」
「私とあなたで行くのに、色気もなにもないでしょう……」
 まあいいか。小さく呟いて、梢子は駅を目指して歩き出す。
「どれくらいかかるの?」
「ここからだと一時間弱ってところかしら」
 それならば、往復時間を計算に入れれば二時間も遊んでいたらちょうど良い時間だ。適当に選んだのだが悪くない選択だったようである。
 ローカル線に乗り込んで、目的の水族館を目指す。時間帯のせいか乗客はそれほど多くなく、二人は空いていた座席へ並んで腰掛けた。小さな身体から発せられる温度が空気を伝って汀に届く。子どもは体温が高い。
 ふぅー、と、梢子が深いため息をついた。ネガティブなものではない。その逆だった。まさしく一息ついた、という感じ。歩き詰めで疲れていたのか、精神的なものなのか。
「まったく……妙なことになったわね」
「卯良島の一件に比べたら小さい小さい。あっちは世界の存亡がかかってたんだから、ちょっと縮んだくらいで落ち込みなさるな」
「他人事だと思って、気楽に言わないで」
 眉根を寄せて言い返してくるさまに苦笑すると、梢子の肩へ手をまわして労わるように軽く叩く。その程度で機嫌を直すほど単純な彼女ではないが、怒るのも馬鹿馬鹿しくなったのか、眼差しから険を抜いた。
「とりあえずデートを楽しみましょうよ、って言ってるわけだけど」
「デートじゃないし」
 まあ、精々親戚のお姉さんと遊びに行くとかそんなふうにしか見えないが。
 汀の意図だってただの軽口だ。ジョークは見事に滑って二人の足元へと落ちた。
 
 三十分も電車に揺られればもう到着である。周囲を海に囲まれているが、地元には似ていない。全体的にテクノロジカルだ。八百万の神は何にでも宿っているというけれど、ここに宿る神様はさぞかし理屈っぽいのだろう。
 潮のにおいにくしゃみを誘発されて、汀は鼻をこすることでそれをやりすごした。
「でかっ、広っ」
 入り口に立った汀は感嘆というより呆れた調子で言い放った。共通性を持つ建物がいくつも並んでいて、単なる水族館というより小さな都市のようである。
「二時間じゃ回りきれないんじゃない?」
「ちょっと難しいかもね。回れなかったら、今度こっちに来た時にでもコハクさんとまた遊びに来たら?」
「あー、喜びそう、あの人……」
 このところは割合現代文明に慣れてきたコハクだが(しかし携帯電話は放置状態である)、これはさすがに驚くだろう。なかなか楽しそうな光景を想像して汀は小さく笑った。今日連れてこられなかったのが悔しいほどである。
 行楽シーズンでもないので人がごった返しているということもなく、二人はゆるゆるとのんびり水棲生物を見て回った。
 珍しいものは説明文の書かれたプレートが設置されているので、二人してそれをじっくり読み込む。汀はともかく小学校低学年くらいの女の子が水槽の向こうそっちのけで魚の学名や特徴を読んでいる姿というのは結構異質だった。
 集中していた梢子が不意によろけた。余所見をしながら歩いてきた少年がぶつかってしまったのだ。「あ……」少年は自分と同い年くらいの少女にどういう態度を取っていいか判らず、もご、と口ごもった。梢子がほのかに笑んで「余所見してると危ないわよ」諭すような口調で少年に言った。彼はますます困ったような顔をした。結局、何も言わずに小走りで向こうへ行ってしまう。
「オサ、もうちょっと子どもらしく振舞った方がいいんじゃない?」
 汀は苦笑いで忠告した。さっきの少年の表情! まるで宇宙人でも見るような目つきだった。あれは気味悪がられたなあ、と口の中だけで呟いて、視線を梢子へ流す。
 彼女は少しふくれっ面になった。
「そんなこと言われたって、急に子どものふりなんてできないわよ」
「精神は元のままだしね。ま、そこはしょうがないか」
 おそらく、少しませた子どもだと思われるだけだろう。よもやどこかの漫画みたいに、怪しい組織の人間から謎の薬を飲まされて身体だけ子どもになってしまったなどと考えたりはしまい。(現実はそれよりも非現実的な経緯だけれど)
「あ、オサオサ。太刀魚がいる」
 ゆらりと泳ぐ三日月の魚を、水槽越しに汀が指さす。
「唐揚げにするとおいしいわよね」
「いやー、やっぱり焼き霜でしょう」
 梢子が軽く首をかしげた。「なに、それ?」
「刺身にした太刀魚を軽く炙ったのだけど、知らない?」
 今度は首を振ってくる。ところ変われば食べ方も変わる。太刀魚の刺身など新鮮なうちでなければ食えたものではないので、このあたりで味わうのは難しいのである。
 ふうむ、と水槽へ目をやる汀。
「あれ捌けたらすぐに伝わるんだけどなー」
「無理言わないの」
 ある意味で不穏な会話がなされていることなど知る由もなく、刺身にされる心配のない太刀魚は水槽の中を悠然と泳いでいった。
 
 総じて一時間ばかりかけて巡回を済ませると、少し休もうかということになった。太刀魚の話が引き金になったのか、双方ともに腹が減ったのである。夕食まで間が短いからしっかりとした食事をするわけにはいかないが、ファストフードで軽く食べるくらいならかまわないだろう。
 フードコートで注文を済ませて席に着く。「こういうところに来てまでハックってどうなの?」「一番無難でしょ」慣れ親しんだポテトの味を噛み締めながら、釈然としない梢子だった。店員のお姉さんが梢子のトレイにだけイルカのミニマグネットを置いたのも釈然としない。
 汀は少々ご機嫌斜めな友人にはかまわず、包みを解いてハンバーガーにかぶりついた。フードコートにはゆったりしたBGMが控えめに流れている。頭上を作り物のイルカが回遊していた。そういう場所では負の感情も長続きしないらしく、小さな手がホットドッグを持ち上げる。
 お互い、美食家でもなければ悪食でもない。平均値のファストフードに不満も抱かず食べ進めていく。
「おっ、ふれあいコーナがあるみたいよ。ペンギンとかに触れるみたい」
 食べながらパンフレットをめくっていた汀が、該当部分を梢子に見せて「どう?」と目で問いかけた。
「汀、そういうの行きたがるタイプ?」
「いや、オサがペンギンに触りたいかと思って」
「特別ペンギンが好きだったりはしないけど……?」
 その時汀が浮かべた表情は、先ほどの少年と似ていた。理解できないというか、自身の解釈と実態が噛み合っていない感覚。猫だと思って近づいて、やはり猫に見えるのにゴマフアザラシの声で鳴く動物を目の当たりにしたら、こんな表情になるかもしれない。
 汀は数瞬を要して乖離の理由に気づく。
「……視覚情報って大きいわね」
 半ば独白めいて呟かれたそれで、梢子も気づいた。深く嘆息する。
「見ず知らずの人ならともかく、あなたは私が高校生だって知っているじゃない」
「そうなんだけど、どうしてもねー」
 ははは、と乾いた笑い声を上げる汀である。うっかり子どもに対するご機嫌取りをしてしまった己の失態に、自分で呆れてしまって笑うしかなかった。
 この状況、なかなか難しい。もちろん、汀は斜め右にいる彼女が青城女学院の生真面目な剣道部部長で、まかり間違ってもペンギンと握手をしてきゃーきゃー喜ぶような性格ではないと知っている。それなのにこの体たらくだ。人の記憶というやつはあまりあてにならない。
「あ」
 もむもむホットドッグを食べる梢子を見つめていた汀が手を延ばす。なに、と梢子が尋ねる前に親指で幼子のふっくらした頬を撫でた。口元にくっついてたケチャップが拭い取られて、汀はそれを自身の唇ですくう。
 梢子が肩を震わせた。
「だからっ、子ども扱いしないでって言っているじゃないのっ」
「ああっ」
 ……難しい。
 いたくプライドを傷つけられ、すっかりへそを曲げてしまった梢子だが、それを表出させてしまうのもまた大人げないと思ったのか、深呼吸で平静を取り戻してまたもむもむとホットドッグを食べ始めた。しかしさっきよりも慎重に。ケチャップが唇や頬に残ることがないように。
「小さい時ってこんなに不便だったかしら。良いことがひとつもないんだけど」
「中身は元のままだしね。あたしがギャップを感じてるように、オサ自身もギャップが埋まらないんでしょ」
「明日の朝までこの状況が続くって、わりと拷問なんだけれど……」
「そこはコハクさんにがんばってもらうしかないわ」
 無責任が服を着て歩いているような喜屋武汀だった。
 汀はソースのしみ込んだバンズを口に押し込んで、パンフレットのルートを進む。
「せっかくだからお土産でも買っていく? オサたちにとっちゃ旅行ってほどでもないからいらないかな」
「まあ、それほど頻繁に来るようなところじゃないし、ナミは来たことがないから、買って行ってもいいんじゃないかしら」
 「汀は?」「コハクさんにぬいぐるみでも持っていきますか」話したら仲間外れにしおってとか怒りそうなので、汀はそんなふうに答える。(八百年生きているとは思えない稚気だ。長生きしすぎて何かを一周してしまったのかもしれない)
「コハクさんにぬいぐるみって……。嫌がらせ?」
「そのつもりなんだけど、いや、意外と喜ぶかもしれないな……」
「真面目に悩まないで」
 汀がストローを銜えて軽く噛んだ。氷が溶けてずいぶん薄まった中身を飲み干す。
 ポテトがまだ残っていたが食べる気にならなかったので、梢子へ押し付けるべく一本を差し出す。もったいないの精神か、彼女は首をのばしてそれを唇で受け止めた。
 餌付けをしているつもりはないけれど、光景として近いなとは思う。
 ポテトを食べ終えてからフードコートを後にして、土産物を扱うショップが並ぶ一角を訪れた。場所柄、当たり前であるが魚や貝などをモチーフにした商品が多い。ご丁寧に真珠(を模したプラスチック玉)が中に入った貝のレプリカを開閉させて遊ぶ汀。月のしずくの別名を持つそれは古来より健康や長寿の象徴として扱われてきた。その偽物。人の力で作り出したまがい物を、汀は手の中でもてあそぶ。
 天井を見上げて黙考。コハクに贈るのは皮肉が過ぎるからやめておこうと思った。
「あ、これ可愛い」
「ん? どれどれ」
 梢子が取り上げたのは人魚の浮かし彫りが入ったペンダントだった。よくイメージされる艶めかしい姿ではなく、三頭身ほどにデフォルメされたものである。
 汀は腕組みをして目を眇めた。
「ナミーにはやめておいたほうがいいと思うけど」
「どうして?」
「あの子、安姫様の記憶を受け継いでるんでしょ?」
 指摘を受けた梢子が「あ」と気まずげな声を洩らした。人魚の肉を食らい、そのために囚われの身となった姫君の記憶を持つ維巳に人魚のペンダントを贈ろうとするなど、喜屋武汀もびっくりな皮肉具合である。
 こんなふうに彼女は、純粋ゆえに時々無神経だ。
 見ていると少し、首の後ろがジリジリする。
 苛立ちとも違う奇妙な痺れだった。熱した針金で焼かれるような不快感。
「じゃあ、こっちにしようかしら」
 代わって梢子が手にしたのはイルカのストラップだった。いくつかためつすがめつして、何色かあるうちの二つを選び出す。
「二つ?」
「保美にも」
「ああ、なるほど」
 公平なことだ。それが良いか悪いかは、ちょっと判じ難いけれど。
 汀はエチゼンクラゲのぬいぐるみを取り上げて会計を済ませた。言うまでもなくコハクへの土産である。可愛いかそうでもないか微妙なラインにあるあたりが気に入った。足、というか触腕に針金が入っていて形を固定できるのも良い。かぶってもらおうと思う。
 一足遅れて夏夜と百子への土産も選び終えた梢子が代金を払って、待っていた汀のもとへ戻ってくる。すべて小物だから彼女は軽々と戦利品をぶらつかせている。
 ふに、とその額に柔らかいものが当たった。
「? なに?」
 額を引いて、押しつけられたものを見やった梢子が訝しげに眉を寄せる。
「……なにこれ」
「シュモクザメ。ハンマーヘッドシャークとも言うわね」
「いや、ぬいぐるみのモデルを聞いたわけじゃなくて」
 梢子は頭部の横に飛び出した突起に貼り付けられた目玉と見つめあいつつ、少し困ったような顔をした。これがここにある理由が理解できていない。
 名前の元になった撞木部分で梢子の頭をぺふぺふ叩きながら、汀はほのかに両目を細める。
「だから、オサにお土産」
「……汀から?」
「他に誰がいるの?」
 「ほらほら、お姉さんに買ってもらったんだから子どもらしく喜んでおきなさい」からかい口調で言う。噛みついてくるかと思っていたのに彼女は呆けたような表情で、手のひらサイズのシュモクザメを受け取った。「……ありがとう」どこか希薄に彼女は礼をする。
 これには汀のほうが不意を突かれた。なぜか居たたまれない気分になる。半ばジョークだったのに、滑ったというか、驚くほどきれいに着地してしまって拍子抜けする。
 どうにも調子が狂ってしまう。無意識に子ども扱いしても、意識的に子ども扱いしても、思い通りにならない。
「私も買ってくる」
 踵を返しかけた梢子の襟首をとっさに引っ掴んだ。「いいって別に。こういうの趣味じゃないし」
「でも、私だけもらうのは不公平だわ」
「そういう日本人の美徳は発揮しなくていいから。オサのおかげでここに来れたし、そのお礼ってことで」
 梢子はまだ納得いかないようだったが、無理やり手を掴んで引っ張る。そうすればまさか力づくで抗するわけにもいかず、彼女は少々重たい足取りながら大人しくついてきた。
「そろそろ帰りますか」
「そうね。今から帰れば、ちょうど夕飯時かしら」
 水棲生物を見物してちょっとした買い物をしただけなのに、わりあい楽しかった。
 本来なら子守など絶対にごめんだと思うタイプの汀だったが、梢子についてはあまり嫌ではなかった。外見が子どもでも、結局は同い年である。そのせいで接しやすかったのだろう。
 気心の知れた、というほど付き合いは長くない。それでもあのひどく濃い五日間が二人の間から距離を奪っている。あの出来事がなければ、二人きりでこれだけの時間を過ごすことなどできなかっただろう。お互いに避けてすらいたかもしれない。そういう二人だった。
 ぼんやり考え事をしながら歩いていたら、不意に服の裾を掴まれた。
「汀、速いっ」
 軽く上がった息の合間に届けられた言葉で、汀は梢子を置いてきぼりにしてしまっていたことに気づく。
「ああ、ごめんごめん。ほら、あたし脚が長いから」
「今の私にそれを言っても嫌味にならないわよっ」
 汀が歩をゆるめたので小走りをする必要性から解放された梢子が吐き捨てた。それは確かに、彼女の言う通りだ。
「元の姿なら普通に並べるんだから」
「そうだっけ?」
「そうよっ」
 彼女と並んで歩いたことがあっただろうか。
 走ったことはあったかもしれない。
 けれど、こんなふうに平和な光景を歩くことなど、なかった気がする。
 歩幅を狭めて歩きながら、汀は本来の彼女と歩く時はどの程度の速度で進めばいいのだろうと考えていた。
 
 右肩にかすかな重みを感じ取りながら、小さく吐息をついた。
「……ま、こうなるか……」
 中身がどうであっても、所詮身体は子ども。小さな身体にはそれ相応の体力しか備わっておらず、広い水族館を歩き回ったり汀に置いて行かれそうになって走ったりした小さな身はエネルギー切れを迎えていた。
 電車に乗ったばかりのころはまだ会話もしていたのだが、次第に口数が減っていき、数分前から言葉は消えて寝息に変わった。
 よく眠れないように耳元で寿限無でも暗唱してやろうかと梢子の寝顔を覗き込んだら、それがあまりに安らかだったもので毒気を抜かれてしまった。子どもというのは得だと思う。
 仕方なく、腕を組み、梢子に肩を貸してやって、窓の外を流れる景色や中吊り広告を見るともなく見ている。
「ちょっとオサー、駅に着いたら起きてよ?」
 諦めまじりの口調だった。梢子はずいぶん深く寝入っていて返事がないし、あと十分少々でしっかり目を覚ますとも思えなかった。
 ふう、と、汀の口からため息が洩れる。
 混沌を取り込んでいなければ死んでいたというのに気楽なものだ。しかしながら、そもそも混沌の王を宿していなければ鬼に狙われたりはせず、こんな状態になることもなかったのだから良し悪しである。
 ふと視線を感じ取る。嫌なものではなかった。汀が不可視のラインを辿る。梢子の隣に座っている老婆が幼い寝顔を覗き込みながら口元をほころばせていた。
 汀が気づいたために老婆の視線が上がって、こちらと目が合う。口元は笑みを作ったまま。汀も愛想笑いを浮かべる(この純朴そうで『善人』というオーラを全身にまとった彼女へ、他にどんな反応ができただろう?)。
「お出かけ?」
「いえ、帰るところです」
 老婆が膝に乗せていたバッグをあさり始めた。しわだらけの手が飴の袋を探り当てる。
 彼女はゆっくりゆっくり、丁寧な所作で個包装された飴玉を二つ引き出した。当然のように差し出される。彼女の手は老齢のためかすかに震えていた。
「起きたら一緒に食べてちょうだい」
 なんの変哲もないのど飴だった。カリンエキス配合らしい。
「ありがとうございます」
 汀はなんの変哲もないそれをおし戴く。
 おそらくこの飴と同じように、彼女もなんの変哲もない老婆なのだろう。
 それでも汀はしわがれた手に高貴を見出す。
 子どもに飴を与えることが当たり前だと思っているその心根に、彼女の辿ってきた人生を垣間見た。
 次の駅で老婆が降りたので、それを見送ってから汀は飴玉を上着のポケットに入れた。
――――ああ、そうか。
 こうすれば良かったのだ。
 中途半端にずれたシュモクザメなどではなく、ただ一つの飴玉を彼女へ贈っていたら、あんな据わりの悪さは覚えなかっただろうし、どうしてあのような気まぐれを起こしたのか、ひそやかに自身を悩ませることもなかっただろうに。
 汀は胡乱に中づり広告を眺める。
 広告の文字を一言一句洩らさず読んでいき、三枚目の途中で目的の駅に到着した。
 汀は梢子の肩を揺さぶって覚醒を促すが、体力が底をついている彼女はまったく起きる気配がない。
 「……ああぁ」苦々しいうめき声を洩らす。置いて帰りたいけれど、実行に移したら夏夜と維巳にどれだけ責め立てられるか判ったものではない。保美たちに知られたら糾弾は倍加するだろう。
 愛されている彼女である。
 みんなのもので、誰のものでもない少女が、汀のすぐ隣で、無防備に眠っている。
「…………」
 少しだけ、惑った。
 罪のように重苦しく、蜜のように甘い何かが汀を密に包み、堤を越えるギリギリまでせり上がって満つる。
 は、と息を吐くと嵩がわずかに減った。
 立ち上がって、両腕で小さな身体を抱え込む。くたりとした子どもは汀のなすがまま、肩に頭を預けるかたちで眠り続けている。
「……小さくていいこともあったじゃない。居眠りしても家に帰れる」
 苦笑交じりにひとりごちた汀は、危なげなく梢子を抱いて電車を降りた。
 帰り道は記憶しているので迷うこともない。それは問題ないのだが、しばらく歩いていたら腕が疲れてきた。いくら子どもといってもひょいひょい運べるような重さではないのだ。「オサー、いい加減起きろー」うんざりしながら大きめの声をかけると、汀の首にしがみついていた彼女が身じろいだ。
 もぞり、動く気配が耳の後ろあたりに伝わる。
「ん……夏ちゃ……?」
「よりによって夏夜と間違えるか」
 苦々しげにつぶやく汀。今はもう、漆黒の剣士に対してわだかまりなどないが、ここまでわざわざ運んでやったというのに人違いされるのは面白くない。
 梢子は寸の間ぼんやりしていた。こてっと汀に身を預けたまま沈黙する。さて、寝起きは良い方だと聞いていたけれど、幼い時分はそうでもなかったのだろうか。
 健全な肉体に健全な精神が宿るように、幼い肉体に宿る精神もまた幼くなってしまうのかもしれない。
 汀はそんなのごめんだった。
「思い出せ。あんたはどこの誰で、どういう立場?」
「ん……?」
 質問の意味が判らないと声にならない声で応じた梢子だったが、時間の経過とともに思考も明瞭さを取り戻したか、ようやく回転数が上がったらしく、耳の後ろにある輪郭が判然としてきた。
「ああ、汀……。私、いつの間にか寝ちゃったの?」
「そりゃもう電車でぐっすりとね」
「ご、ごめん。ありがとう」
 不覚にも寝入ってしまったことを謝罪して、ここまで運んでくれたことに対して礼を言う。汀はそれに応えず、ただ腕が限界間近だったので抱えていた子どもを下ろした。小さな足が地面をとらえる感触を確かめてから手を離す。
 梢子は羞恥に頬を染めていた。さんざん子ども扱いするなと要求していたくせに、自ら子どもの特性を発揮してしまったことを恥じている。
 たとえばそれは足を怪我した人がうっかり道端で転んでしまうようなもので、特に恥じ入るようなことでもないのだが、彼女の心持ちとしては『できるはずなのにできなかった』という部類の事柄に入るのだろう。
 右肩を左手で押さえて、右腕をぐるぐる回す。のたりと重い右腕が回転運動に誤魔化されて少しだけ楽になる。
 腕を回す中、どこかでかさ、と音がして、汀は先ほどの老婆を思い出した。
「そうそう、これ。電車の中でお婆さんからもらったんだわ」
 ポケットを探って飴玉を取り出し、包装を破くと中の飴をつまんだ。
「はい」
「ん」
 飴玉を差し出すと、梢子は半ば条件反射で口を開けた。汀の指先から、はくりと飴玉が吸い取られる。
 自分も同じく口に入れる。宝石みたいな音がした。
 街は夕暮れ。逢魔が刻だが危険な匂いはない。まあ、そこかしこに鬼が跋扈していたら大変である。もしそうだったら呑気に飴玉を転がしながら歩いてなどいられない。
 そこで汀は自身のペースが狂っていることに気づく。
 いつもより歩幅が小さい。意識していなかったが、隣にいるちんまりした存在を、己の無意識は忘れていなかったようだ。
 横目に確認してみれば、やはり彼女は小走りになったりはせず、普通に歩いていた。
 駆け出したくなる。
 シュモクザメより明確に、汀は『外して』みたくなった。
 走り出せば、まず確実に彼女は追いつけない。それでも戸惑いながら、怒りながら追いかけてくるだろう。
 そうしてみたくなった。
 鬼の気配はないはずなのに。
 逢魔が刻だから。
 魔が、差した。
 足を止める。
 喜屋武汀は鬼切り部で、鬼切り部は鬼をねじ伏せるのが仕事だ。
 だから、汀は身の内に差し込んだ鬼をねじ伏せた。思い出したのは電車で邂逅した老婆だった。
「汀? どうしたの?」
「いや、ちょっと靴紐がね」
 屈みこんで、緩んでもいないブーツの組紐を結びなおす。
 梢子はその場に立ち止まって、紐を結び終えるまで待っていた。汀を置いてきぼりにしようなどとは考えもしない。
「待たせたわね。行きましょうか」
「ええ」
 また、二人の影が並ぶ。時折、影は重なっていびつな山みたいになった。
 けれどいつも、一秒と経たぬ間にそれは元の二つに分かれるのだった。
 
 
 
 翌日になってコハクがほどこした術は見事に成功し、梢子は無事、心身ともに高校二年生へと復元した。
 同席した維巳が少々残念そうだったことに汀は気づいていたが、あえて何も言わなかった。
「構成しているものが混沌とはいえ、それはあくまで霊的な在り方の話だ。医学的な話をすれば、おぬしの身体は元のそれとなんら変わりはせん。心配はいらぬ」
「ありがとう、コハクさん」
 手を開閉させたり、腰を軽くひねってみたりして具合を確かめた梢子が、心底ホッとしたという表情でコハクに微笑みかける。
「本当に、あのままだったらどうしようかと……」
「それはそれで、わしとしては守天の連中に良い土産話ができたのだがな」
 くくっと喉を鳴らしてコハク。彼女が言うのは、もちろん笑い話としてである。「笑い事じゃないですよ」梢子が直前とは打って変わってげんなりと応えた。
 ところで、先ほどから梢子の目が微妙に泳いでいる。彼女だけでなく、夏夜も維巳も何事かを言いたげに視線をさまよわせていた。
 問いかけるような視線が汀に送られていたが、汀がしらばっくれていたので、意を決して梢子が口を開く。
「あの……コハクさん。元に戻してくれたことには感謝しているんですけど、その……」
「なんだ?」
「どうして頭にクラゲを?」
 彼女の言葉が示す通り、コハクの頭上にはエチゼンクラゲが鎮座ましましていた。触碗がこめかみから後頭部までをしっかり掴んでジャストフィットである。「うむ」よくぞ聞いてくれた、とばかりに破顔するコハク。
「昨日、汀がわしにとな。なかなか愛いであろう? この薄桃の具合など見事なものではないか。それに、見よ」
 コハクはクラゲを頭から外すと、その丸い胴体を両手で押した。ぷきゅう、なんとも言えぬ間の抜けた音がクラゲから洩れ出る。
 「こうして押すと鳴くのだ」得意満面なコハクに、誰もが返す言葉を持たなかった。「クラゲって鳴いたかしら……」「たぶん、鳴きません」夏夜と維巳の小声によるやり取りは、幸いコハクには届かなかったようである。
「羨ましいか? しかし譲ってはやらぬぞ」
 大喜びだった。
 ううん、と唸る梢子に、汀が悪戯い笑みを向ける。
「ま、こういうのもある意味コハクさんらしいんじゃない?」
「どこが?」
 汀は声をひそめて、
「数百年の時を越えて、コハクさんはかつての異名を体現してるわけだ」
「……その心は?」
「天狗になっている」
「つまらない」
 やれやれと梢子が嘆息した。
 ともあれ、事態は収束して平和が戻った。元々平和だったが、梢子にとっては一大事だったので、周囲にも彼女の安堵が伝わって、どこか空気の流れが変わる。
「それじゃあ、落ち着いたところでお茶にしましょうか。保美ちゃんが作ってくれたクッキーがまだ残っているからお茶請けはそれでいいわね」
「あ、お手伝いします」
「待った、夏姉さんはここで休んでて。私がやるから」
 非常に気を遣った言い方だったが、夏夜は下手に分をわきまえていたので言外の思惑を正確に読み取ってしまい、少しだけ肩を落として頷いた。皿を割るよりプライドが傷つく方を選んだようだ。
 梢子と維巳がキッチンへ消えてから、「まあ座りましょうか」夏夜の音頭で残った面々が腰を下ろした。汀は夏夜の対角線上、つまり一番遠い位置に落ち着く。夏夜がかすかに表情を変えたけれど、結局、汀に何か言葉が届くことはなかった。
 梢子たちが戻ってくるまで、会話らしい会話は生まれず、少々気づまりな時間が流れた。コハクはかぶりなおしたクラゲの位置を調整するのに忙しいし、汀と夏夜はとりたてて話すような話題もなかったのだ。だからキッチンから紅茶の匂いが漂って、その源を梢子たちが運んできた時には、双方ともに息をついたものだ。
 テーブルにお茶を置いてから、維巳は夏夜の横に腰を下ろした。勉強を見てもらったりしているので、彼女たちは最近仲が良い。
 コハクはいわゆるお誕生日席(しかも上座だ)に陣取ってクラゲの角度を直すことに没頭している。
 そうなると、もう空いている場所は汀の隣しかないので、彼女はそこで膝を折った。
 汀は左腕で彼女の姿を漠然と感じ取る。
「なんにせよ、一件落着。めでたしめでたし、か」
 汀の呟きに夏夜が頷いた。
「たとえ小さいまま戻れなくても私が面倒を見るつもりでいたけれど、梢ちゃんにも今までの人生があるものね。それを失ってしまわずに済んで良かったわ」
 それは培ってきた能力であったり、交友を深めてきた友人であったり、そういうものを全部ひっくるめて。
 梢子は何ひとつとして喪失することなく、何ひとつとして変わることなく、今まで通りの毎日を送ることができる。
 良いことだ。不変は時に不幸を呼ぶが、安定は尊ばれねばならない。老婆の顔に深く刻まれたしわの高貴さは疎まれるべきものではない。
「ま、あたしとコハクさんも思いがけず旅行ができたし、悪くなかったわね」
「わしはほとんど宿にこもりきりだったがな」
 「しかしこれで帳消しにしてやろうぞ」まだクラゲにご満悦なコハクだった。
 クラゲを頭に乗せつつ、あの無闇に偉そうな笑い方をするコハクに苦笑しつつ、汀は茶請けのクッキーをつまむ。
 目の前を何かが通っていった。目に見えるものではなく、そよ風のような、明言できない『何か』が横切って行った。
 汀は『それ』に気づくことなく、ただただ無意識に、腕を横へ流していた。
「はい」
「ん」
 差し出されたクッキーを、梢子が口で受け取る。
 止まった。二人とも。
 しばし見つめあい、思い出したようにクッキーを咀嚼して、飲み込んで、しかし事態は飲み込めず、梢子は形容しがたい眼差しを汀へ向けたままでいる。
 汀の方も思考が停止していた。自分が何をしたのか判らなかった。なぜ手にしたものが自らの口に入らなかったのか理解できなかった。
「……えぇと」
 喘ぐ。顔の半分だけ引きつった、奇妙な表情になって、それでも視軸を梢子から外せない。
「今のは、違うわよね」
「……違う、と、思う……」
 何が『違う』のか、二人が思い描いている『それ』は同一のものなのか、あるいは同一であっても『それ』は正しいのか。
 どれも、確認してはいけないような気がして、二人とも、それ以上の句を継げなかった。
「今の、ナシね」
「……うん」
「間違いだから」
「何度も言わなくても判っているわよ」
 しつこいくらいに念を押す汀に、梢子が軽く眉をひそめた。
 けれど汀は、そうせずにはいられなかったのだ。
 
 すべてが元通りになって、これまでと変わらぬ日々を過ごせるようになった。
 それなのに、あの老婆のしわみたいに確固としたものがどこにも見えないのは、なぜだろう。
 
 何もかもが元通りになって。復元して。
 そのせいで。
 
 小さな身体を抱き上げた、あの両腕の痺れが『なかったこと』になってしまうことを、どうして惜しんでいるのだろう。



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