こいとたわむる


 海へ行きたい、と、戯れに言ってみると、彼女は少しだけ訝しげに眉を詰めて、それでも簡単に頷いてくれた。
 
 夏は終わりに近いが気温は高い。髪はあの頃より短くなったが充分に長い。彼女は変わらず、肩口で潔く切りそろえている。
 電車の揺れに合わせて、長い白髪と潔い黒髪が規則的に触れ合っていた。
「この前、寮に遊びに行ったんでしょう? どうだった?」
 梢子は場つなぎの会話にそんな切り出しをして、隣の維巳へ視線を移す。
 ふんわりとその視線を受けた維巳は、同じようにふんわりと答えた。
「良いところ、でした。すみちゃんも楽しそうだったし、百子ちゃんも、他の人たちも優しくて。髪を、珍しがられたりはしましたけど」
 最後の言葉は苦笑まじりだった。けれどそれは仕方がないのだと判っているから、苦笑に嫌なものは含まれていない。手が離せない時に猫がじゃれついてきた、そんな時に覚える感情に近い困惑だ。
 しかし梢子は軽く不満そうに唇を曲げて、柔らかくうねる維巳の髪をそっと掬った。
「いいじゃない。綺麗なんだから」
「……ありがとう、梢子ちゃん」
 肌の白さは病弱なのだとでも言えば納得してもらえた。寮生の子たちは保美のことを知っているから、血縁である維巳もそうなのだと思ってくれたようだ。
 しかし髪は説明のしようがない。染めているにしては根元から綺麗に白いし、生まれつき白髪だというのはあまり一般的ではない。それに、真実でもない。
 保美と二人で困っていたら、百子がハイテンションでごまかしてくれたので、それ以上追求はされずに済んだ。保美のそばにいてくれる彼女は、優しい。
 梢子がこの白い髪を綺麗だと言うので、困ることがあっても維巳は髪を黒く染めたりしない。
「それにしても、いったい全体、どうして海に? まさか、また流されるつもりじゃないでしょうね」
 幾分か本気の見える問いかけに、思わず噴出した。
 「さすがにそれはありませんよ」流されるなんてとんでもない。そんな必要はない。
 あの時海へ飛び込んだのは出逢うためだ。出逢った今、そうする理由はどこにもなかった。
 電車が揺れている。波のように揺れている。彼女は抱きしめてくれてはいないが、隣にいてくれている。
 白髪の己と、黒髪の彼女。幼い己と、少女を脱しかけている彼女。
 反対側にいる二人は、反対だから組み合わさる。
「海じゃなくても良かったのだけど。梢子ちゃんとなら、海かなって思ったから」
「私と二人で出かけたかったってこと?」
「そうですね。正直に言えば」
 ならもっと近いところへ買い物に行くでも、レジャースポットへ遊びに行くでも良かったのではないか、というようなことを彼女は言った。
 気温は高いといえ、もう海はくらげが出る時期で、行ったところで泳いだりはできない。だから二人とも水着は持ってきていない。(泳げる時期だったら彼女はあの『思い出の』水着を持ってきただろうか)
 せいぜい、砂浜で貝拾いでもするか、波打ち際で水遊びをするのが関の山なのだから、もっと楽しめるような場所を選んだら良かったのに。彼女は不満そうだ。
 そうですね、と維巳は同じ答えを返して、嬉しそうに笑った。
 嬉しかったのは、彼女の不満が「それでは維巳が楽しめないだろう」という基準によるものだったからで、そんなふうに、こちらを気遣ってくれる優しさに腹部の辺りをくすぐられたからだ。
 けれど、それでは駄目だったのだ。
 楽しむために出かけたかったわけではないから。
 海でなくても良かったけれど、もっと近いところでは良くなかったのだ。
 正確なことを言えば、梢子と二人で、遠い場所に行きたかった。
 抜け駆けだったけれど、脱け出したかった。
「ま、いいけど」
 梢子はどこか諦めたように呟いて、維巳の髪に触れていた手を離した。
「ごめんね」
「別に怒ったわけじゃないわよ」
 維巳が曖昧に微笑んだ。梢子はその微笑みも、言葉の意味も理解しない。
 謝罪が別の誰かに向けられたものだと気付かない。
 先ほどの会話も、意図的に話題の中心をずらされたと気付きもしない。
 本来なら中心になってしかるべきはずの、彼女の話をほとんどしなかったことを、不思議にも思わない。
 それは彼女の鈍感さで、その鈍感さは、ほとんどすべての原因だったのだけれど。
 
 
 
――――内緒にしてね?
 
 
 
 もちろん。そう応えた。
 
 すみちゃんが言ってほしくないのなら、絶対に言わない。
 
 血を分けた大切な妹の仄かな想いは、ずっと前から知っていた。
 己が己になる前、もしかしたら名実ともに彼女の『姉』でいられた時分から、その想いを知っていたのかもしれない。今はすでにあの頃の記憶は曖昧だけれど、聞いてしまったからもう同じことだ。
 
 妹。双子の、血を分けた、己の半身。
 
 大切で大切で、守りたいと思う。
 
 そう思ってるくせに、こうして抜け駆けした。
 
「ナミ、眠いの?」
 黙考を眠気でぼんやりしていると勘違いした梢子が、いたわるように声をかけてきた。
 「大丈夫です」ふるんと首を振ると、彼女は「眠くなったら眠っていいわよ」と維巳の頭をぽんぽん叩いた。
 実年齢は同じくらいなのに、どうしても彼女は維巳を子ども扱いする。
 それもまた、仕方のないことだったけれど。
 だからきっと、鈍感な彼女は気付かないだろう。
 
 少女を脱しかけた彼女は、子どもは恋をしないものだと、そう思っている、から。
 
 
 
 海は青かった。くらげは視認出来ない。だからといって入るつもりもないが。
 日は高いが、さすがに人はいない。沖合いにはサーファーが数人見える。車や道具は見える範囲にないから、どこかもっと離れた場所にあるんだろう。
 だから、二人の周りには誰もいないし、なにもない。
 だから、二人っきりだ。
「さすがにあっちの海ほど綺麗じゃないけど、なかなかいい眺めよね」
「そうですね」
「ナミを見つけた時はびっくりしたわ」
 人魚姫みたいだと思った。彼女は笑って言う。声を失って海に倒れていた、ナミ。
 今、声を取り戻して彼女の隣に立っている維巳は、穏やかに笑う。
 人魚姫は、泡になって消えてしまった。
 記憶の糸を辿って、思いの意図を辿る。
 あの時。無意識に近い状態で海へ飛び込んだあの時、己はどちらに逢いたかったのだろう。
 
 血を分けた大切な半身か。
 力を分けた大切な半心か。
 
 血の結びつきと、魂の結びつきは、どちらの方が強かったのだろうか。
 ぱしゃん、とどこかで魚が跳ねた。「わっ」驚いて片足を引いたら、バランスを崩して転びかけた。梢子が咄嗟に腕を差し出して支えてくれる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。ありがとう」
 見ると、砂に埋もれるようにビール瓶の先端が顔を覗かせていた。これに足を取られたようだ。「危ないわね、まったく」梢子が瓶を引っ張り出して視線をめぐらせる。
 ゴミ箱は少し離れたところにあって、維巳へ言い置いてからそれを捨てに歩き出した。
 維巳は梢子の背中を見つめる。まっすぐでひたむきな背中だ。
 
 
 
――――……き……?
 
――――お姉ちゃんは、好き……?
 
 
 
 もちろん。そう応えた。
 
 すみちゃんを助けてくれた、すみちゃんの好きな人だもの。
 
 そう、応えた。
 
 彼女は維巳に良く似た曖昧な笑みで、「そっか」と言った。
 「そっか」は納得の言葉で、どういうふうに納得したのかは言われなかったし、訊けなかった。
 納得の種類によっては、今この状況を知ったら、彼女は怒るかもしれない。
 納得の種類がどうでも、今この状況を知ったら、やきもちくらいは焼くだろう。
 彼女は少女であり、子どもの感覚をなくしていないから、恋がいつでも訪れると知っている。
 
 けれどもう、人魚姫はいない。
 
 己に溶けたこの想いが、『誰』のものなのか、維巳には判らない。
 ずっと前にいなくなった『人』のものか、それより後の『鬼』のものか。
 それとも……今ここにいる、『己』のものであるのか。
 
 どれであっても、言えない。もう言えない。
 声は取り戻せたけれど、言葉は、一部を取りこぼした。
 
 大切だから、己の半身だから。
 
 
 
――――内緒にしてね。
 
 
 
 もちろん。
 
 梢子が戻ってきた。維巳は海風にもてあそばれる髪を押さえながら、少しだけ大きく声を上げる。
「梢子ちゃん、こっちに来てください」
 声を聞きとめた梢子が足を速めた。小走りに近い速度で維巳のもとまでたどり着くと、何があったのかと不思議そうな表情をする。
「どうしたの? なにか見つけた?」
 きょろりと辺りを見回す。別段、目に付くものはない。ますます不思議そうな顔をする梢子に、維巳がぎゅっと抱きついた。
「梢子ちゃん」
「なに?」
「梢子ちゃんを、見つけました」
 梢子の表情は、すでに不思議を越えて不審の域にまで到達している。
「見つけるもなにも、最初から一緒に来てるでしょう?」
 ほら、気付かない。
 先ほどの呼び声は戯れだ。
 恋と言えないから、来いと呼んだだけだ。
 気付かないと判っているから、こちらを選べと、戯れに言えただけだった。
 苦笑のような溜め息が聞こえて、それから後頭部に柔らかな感触。
 綺麗だと言ってくれた髪を、彼女が撫でてくれている。
 あの頃と変わらない手つき。二度目に出逢ったあの日から、変わらない優しさで。
「……ごめんね」
 彼女の胸元へ顔をうずめたまま、彼女に聞こえないくらいの声量で、小さく小さく呟いた。
 
 想いを遂げられずに消えてしまった人魚姫。
 『あなた』は、確かにこの人を好きだったのに。
 
 腕を解いて、高いところにある梢子のひたむきな双眸を見つめる。
「梢子ちゃん、すみちゃんをよろしくお願いしますね」
「え? ああ、そうね。学校がある間は、ナミもなかなか会えないしね」
 ああもう。
 まったく、この人は気付いていない。
「……すみちゃん、大変だぁ」
 ふにゃん、と困ったように笑う維巳に、梢子が小さく首をかしげた。
「帰りましょうか」
「もういいの?」
「はい。満足しましたから」
 梢子が肩をすくめる。「ナミがいいならいいけど」電車に揺られてやってきて、海を眺めてゴミを捨てただけで帰ることになって、彼女はどうも釈然としないものがあるようだ。
 なんだか申し訳ない気分になってしまったが、これは抜け駆けで、もっとこの場に留まってしまったら、別の申し訳なさも覚えそうだったのだ。
 結局、脱け出せはしなかった。ほかに誰もいない、二人だけならなんとかなるかと思っていたが、そううまくはいかないらしい。
 誰でもない、『ナミ』でも『保美の双子の姉』でもない『根方維巳』は、まぎれる他人を排除してみても、やはり誰でもない『根方維巳』のままで、梢子と二人になることもできず、孤独な存在のままだった。
 絶対的な独りの意識。それは、彼女と己を救ったものでもあったけれど。
 
 
 
「そういえば、おじいちゃんがナミに囲碁と将棋を教えたいって言ってたわね。まったく、私に勝てなくなってきたからって」
「ああいうのは、難しくて判らないです……」
「女の子なんだから、料理とか覚えた方がいいわよね。夏姉さんと一緒に練習してみる?」
「そっちは、楽しそうですね」
 
 手をつないで、互いの身体を感じながら帰路に着く。
 
 帰ったらみんなが出迎えてくれる。囲碁でも将棋でも料理でも、一人ではしない。
 
 戯れだ。
 
 大切な人たちに囲まれた根方維巳は、幸福ゆえに、身の内だけで孤意とたわむる。
 
 



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