オモイデガタリ


 年月を重ねた樹木の幹には、時折ぽかりとウロが空く。
 幼い頃、探検と称して近所の山に登って、そんな光景を目にしたことがあった。
 樹齢がどれくらいなのかは判らないが、とにかく大きな樹だったから、腹に空いたウロもそれに相応しい大きさだった。今よりさらに小さかった我が身は屈む必要すらなくその中に入り込むことができて、膝を曲げれば寝転がれるその空間に、わけもなく興奮したものだった。
 
 肌寒い時期だったが、ウロの中はほんのりと暖かかった。
 ここを自分だけの秘密基地にしよう、友達にも、じいちゃんにも教えないで、自分だけの大切な場所にしよう。
 そんなふうに考えながら、そこに寝転がっていた。
 
 けれど、しばらくするとどうにも気持ちの据わりが悪くなってしまって、そそくさとウロを抜け出すと祖父たちのいる自宅へ帰った。
 
 それから何度か、ウロの中へ入った。屈まずに入れた入り口が額をかするようになってもそこを訪れ、お気に入りの曲をヘッドフォンで聴いたりした。演奏の真似事をしたり、人がいないのを幸いと、歌ってみたことも一度ならずあった。
 自分でも不思議に思う。
 中へ入ればどうしようもなく落ち着かないのに、離れれば、そこに己が入り込まなければならないような気持ちが、どうしようもなく膨れ上がった。
 使命感でも強迫観念でもなかった。
 どうしようもないことなのに、どうにかしたかった。
 
 地元から遠く離れた高校へ進学して、当然ウロへ入ることはなくなったが、このところ、よくあのウロを思い出す。
 
 あの時感じた据わりの悪さ。
 
 あれは、寂しかったのだろう。
 
 ウロが。
 
 ウロを思う、自分自身が。
 
 
 
 
 道場脇に設置されている水道の蛇口を捻り、スポーツドリンクの粉末を入れたクーラボトルへ水を注ぐ。
 がっしょがっしょと乱暴に振って粉末を溶かしていると、人の気配が訪れて、それからスニーカの底が地面を擦る音が聞こえてきた。
「早いわね、百子」
 クーラボトルを両手に一本ずつ持った、我らが部長小山内梢子が微笑みながら近づいてくる。持ちきれなかった分を出入り口のそばに置いていたのだが、それを持ってきてくれたようだ。
「ああっ、いいんですよオサ先輩。こういうのは新入りの役目ですから」
 自分で持っていたボトルを置いて、梢子から奪い取る。水が入っていないから、形は同じなのに重量が随分違っていて、百子はすっぽ抜けて落としかけたボトルを慌てて強く掴んだ。
 いくら期待のホープだなんだと言われていても、高校に入ってから剣道を始めた素人同然である。夏からこっち、こういった雑事を百子は積極的に受け持っていた。もちろん他の一年生や、梢子のように目を留めた先輩も手伝ってはくれるが、できるだけ一人でこなすようにしている。
 それは、キャリアが浅いから、という理由だけでも、なかったのだけれど。
「二人でやった方が速いでしょう」
 梢子は聞く耳持たず、出来上がったスポーツドリンクを取り上げて「ほら」というように顎をしゃくった。仕方なく百子も急いで残りのボトルに水を詰めて抱え込む。
 全部員のボトルを道場へ運んだ二人は、それを定位置に並べてから防具の取り付けにかかった。
 梢子が準備を進めながら百子へ目を移す。
「百子がいてくれて助かってるわ」
「褒めても何も出ませんよ。むしろ何かください」
「じゃあ、お礼に今日はずっと私が相手をしてあげましょうか」
「それはしごきと言うのではないのでしょうか……」
 本気でげんなりした百子が力なく応えた。ごくたまに良い手を打てるが、ほとんどが偶然と運が重なったまぐれみたいなもので、小学校に上がる前から竹刀を握っている彼女が相手では、それは稽古中ずっと打たれていろと言われているようなものだ。面が多ければ、ただでさえ心もとない身長がさらに縮んでしまうかもしれない。
「そういうのじゃなくて、ハックで好きなもの奢ってくれるとか、そういうご褒美をですねえ」
「いいですね」
「あれ、オサ先輩、なんであたしに敬語を? もしや『秋田百子を一日敬う』っていうご褒美ですか? ちょっと気分良いですけど、他の人たちがなんて言うか」
「私じゃないわよ」
「ん?」
 振り返ると、我らが副部長桜井綾代が下がり眉の笑みを見せていた。
「そういうお付き合い、少し羨ましいです」
 下がり眉はいつものことだが、今は少々感情表現も含まれているらしい。彼女は自宅が離れていて、部活動を終えてから寄り道などする余裕はない。学校帰りにみんなでお茶を、という百子にしてみれば当たり前の行動に憧れを抱いているようだ。
「姫先輩は門限厳しいですもんねー」
「……少しだけ、部活を早めに切り上げるっていうのも、できなくはないけど」
 梢子がどこか取り繕うように提案する。堅物に見えて、いや実際そうではあるのだが、これで割合融通の利く性格である。
 そんなふうな彼女だから、合宿中に抜け出して、禁足地に入ってしまったりも、したのだろう。
 あの子と一緒に。
 綾代は梢子の言葉に首を振ると、
「いえ、どうしてもというわけではありませんから。それに、そんなことをしたら梢子さんが百子ちゃんに好きなものを奢ってあげなければいけませんよ?」
「ああ、そうだったわね。やめましょうか」
「ひどいです、オサ先輩……」
 あっさり前言撤回した梢子に恨みがましい視線を向けつつ、百子は面をすぽんと被った。
 キャリアの差か、百子がもたもたしている間に、梢子はとうに準備を終えていて、綾代と入れ替わりに道場へ向かった。
 残された百子も防具の取り付けを進める。綾代も着替えを始めた。
「百子ちゃん」
「なんでしょうか姫先輩」
「……お疲れ様です」
 優しい優しいその言葉は、百子にとってどこか鋭く、だから中途半端な笑みが浮かんだ。
 「どうして忘れてしまったんでしょうね」寂しげに呟くその問いは、もう何度も出たものだった。綾代の口から、百子の口から、色々な人の口から。そしてどれにも答えは返ってこなかった。
 答えはない。問いはウロに飲まれる。あの寂しい空洞に吸い込まれて、何も返ってこない。
 帰ってこない彼女のように、どこかへ消えてしまう。
「百子ちゃん、あまり無理しないでくださいね」
 労わるように肩を撫でながら、綾代が言う。
 マネージャでもいたら。数週間前、梢子は何の気なしに言った。それが、その言葉が、百子は悔しくてしょうがなかったのだ。
 マネージャならいる。他の誰も真似できないくらい、立派に仕事をしてくれる彼女がいるのだ。そこに他の誰かを置くなんて許せなかった。だから率先して雑務をするようになった。己はあくまで代わりだ。その席に座るわけではない。
 その行為は側近が玉座を守るような、忠誠に似た反抗だった。
 綾代はそんな百子を止めなかった。ただ、今のように百子を気遣うだけだ。
「梢子さんもきっと、平気なわけではないんです」
「判ってます。それくらい、判ってるんです」
 寂しさの詰まったウロ。そこへいくら自分が入り込んで騒いでも、ウロが埋まるわけではないのだと、そんなことくらい、言われなくても判っているのだ。
 けれど他にどうしたらいいか、それが判らない。
 
 
 
 
 部活動をつつがなく終えて(ありがたいことに『褒美』はなかった)、校門の手前に来たところで忘れ物に気づいた。
「おおっと、これは秋田百子、不覚を取りましたよ」
 今日も使ったクーラボトルである。一応、その場で洗ってはいるが、週に一度は消毒処理をするようにしているのだ。洗っただけだと雑菌が増えるから、とあの子に言われて、それからずっとそうしていた。
 忘れると、彼女は必ず声をかけてくれるか、でなければ寮まで持ってきてくれた。そんな油断がまだなくならない。なくさなくて良いと、自分が思っているからかもしれない。そのうち彼女が戻ってきたら、また注意してもらえば良い。そう思っているから。
 ダッシュで道場へ戻る。もしかしたら、もう梢子が鍵をかけてしまっているかもしれないが、確認するだけしておいてもいいだろう。
 身軽さには定評も自負もある。さしたる時間もかけずに舞い戻って横開きの扉を引くと、それはあっさり開いてくれた。
「てことは、オサ先輩まだいるんだ。後片付けは終わってるし、どうしたんだろ?」
 ひとりごちながら歩を進め、用具室のドアを開ける。明かりが点いていた。人影もある。言うまでもなく梢子である。ベンチへ腰かけて、記録簿を眺めている。
 どうしたのだろう、稽古のメニューでも考えているのだろうか。それなら、一人残らなくても、綾代や顧問の葵先生と相談したら良いのではないか。
 訝りながら百子は「オサ先輩」と声をかけた。「え? ああ、どうしたの?」よほど没頭していたのか、梢子が弾かれたように顔を上げた。
「ちょっと忘れ物しちゃいまして。オサ先輩はなにしてるんです?」
「ん……ちょっと、ね」
 言って、また記録簿に目を落とす。ページのよれ具合から見て、今日の分ではなさそうだ。それよりもっと前の記録を見ているらしい。
 記録は過去を含めたデータで判断するべきものだから、過去のものを確認していてもなんら不思議はないが、それでも梢子の様子はどこか変だった。
 判断するために『読んでいる』のではなく、判断できないものを『見ている』ような感じだ。
 まったく接点のない異国の言葉で書かれた文章を見せられた時の表情に、近いか。
 百子は目当てのボトルを手にして、それを遊ばせながら記録簿を覗き込んだ。
「あ……」
 
 ウロが。
 ウロが、寂しがっている。
 ウロが、軋んでいる。
 
「これ……私の字じゃないわよね」
 今、記録簿は梢子がつけている。
 彼女が何度かページを行き来した。ある日を境に、筆跡が明確に変わっている。
「綾代でもないし、百子もこんな字じゃなかったと思うし。
……ねえ百子、合宿の前って、誰がこれ書いてたんだっけ……」
 
 
 流れてしまった。
 
 その字の持ち主は海へ流されてしまった。
 
 ためらいが弔いを拒んでも、彼女は海に葬られた!
 
 残ったのは――――ウロだ。
 
 
 百子はきつく唇を噛み締めて、梢子の手から記録簿を奪った。
「ちょっと、百子?」
「――――ざわっちですよ!!」
 
 どうして忘れた。どうして思い出さない。
 あんなにも想われていたくせに。最後まで……彼女の最後まで一緒にいたくせに!
 
「ざ……?」
「ざわっちです、相沢保美! あたしのルームメイトで、剣道部のマネージャで……」
 声が震える。震えの原因は怒りと悲しみと憐れみと同属嫌悪だった。
 辛かったのだろう。悲しかったのだろう。
 忘れてしまうほどに。忘れてしまえるほどに。
 ああ、そうだ。
 ウロの寂しさが良く判る。
 
 自分だって、本当は忘れてしまいたい。
 
「オサ先輩が……大好きな子だったんです」
 梢子は戸惑いがちに視線を泳がせて、泳いだ視線は百子の持つ記録簿へ流れ着いた。
「相沢……保美」
 彼女の唇が紡いだ音は、あまりにもよそよそしかった。
 当たり前だ。
 百子が叫ぼうが喚こうが、ウロは埋まらない。
 百子は秋田百子というかたちしか持ち合わせておらず、相沢保美というかたちには嵌らない。
 他人行儀にしか呼べないその名は、けれど梢子にとって耳馴染んだものだった。
「私が忘れてしまった子ね」
「――――っ、そう、です」
 腹立たしいほどの空虚。
 なにか肉体的な感覚があるのか、それとも無意識か、梢子が自身の胸を手のひらで押さえた。
「ねえ、さっきの『大好き』って……。
その子が私を好きだったの?
それとも、私がその子を、好きだったの?」
「……両方です、多分」
 きっとそうだった。彼女と彼女はきっと惹かれあっていた。
 それでも良いのだと思っていたから、百子は両手を背中で組んで、手のひらにあったものを隠したのに。
 梢子の表情が歪む。痛みをこらえる表情。自身の奥底に空いた穴は大きすぎて、手のひらで覆っても塞ぎきれない。
 彼女が手を伸ばしてきたので、百子は奪い取った記録簿を差し出した。受け取ったそれを彼女はひどく緩慢な動作で開く。一ページ目からパラパラとめくり、目当ての字体を探し出して一度止めた。
 片手でページを押さえたまま、もう一方の指先で、ゆるゆるとボールペンのかすれた文字をなぞる。どこかが、一文字で良いからこの指先に引っかかってはくれないかと祈るような、それは切実な仕草だった。
「どんな子だったの?」
 どこにも引っかからない指先は事務的な書き込みを無意味に撫でている。
「優しい子です。ちょっと身体は弱かったんですけど、部員になれなくてもマネージャならできるからって、いつも一生懸命がんばってました」
「……そう。もう、いたのね」
 百子の行動と照らし合わせて自身の発言を思い出したのか、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた梢子は、ことさら優しく、記録を撫でた。
 撫でているそれは記録であって記憶ではない。記憶にはならない。
 いとしさや幸いが、指先に生まれることはなかった。
 その行為によって、埋まる何かはなかった。
 あまりに無意味すぎて嫌になったのか、梢子が動きを止めた。
「私はきっと、その子が好きだったわ」
「さっきあたしが言ったじゃないですか」
「百子に言われたからじゃなくて、私自身がそう思ったのよ」
 微苦笑と共に届けられた告白を、百子は嬉しいと思った。
 それを口にしてしまえば、今よりさらに寂しくなるだろうに、なお明確な言葉にした彼女を好ましく思った。
 ぽんと梢子が自身の隣を手のひらで叩いた。指示に従い、彼女の隣へ腰かける。
「相沢さんのことをもっと知りたい。百子、教えてくれる?」
 もちろん、あなたが辛いなら無理には言わないけれど。心なしか声が小さくなった気遣いに、百子は首を横に振る。
「あたしも、ざわっちのこともっと誰かと話したかったですから。
みんな、あたしがざわっちにべったりだったの知ってるせいで、結構ざわっちの話題って避けられちゃうんですよね」
 ただ想うだけの辛さは知りすぎている。
 忘れることもできず、誰かと彼女の姿を共有することもできず、ただ一人想うだけの日々は、寂しい。
 想うだけの己が辛いだけで、想いそのものに傷などどこにもない。触れても傷はつかないし汚れもしないしすり減ることだってありはしないのだ。
 この想いまで、なかったことにしてほしくはない。
 梢子は柔らかに百子の肩へ手を置くと、まるで双子のような近しさで寄り添った。
「じゃあ、百子が知っている相沢さんを私に教えて。どんなことでもいい、良い部分も悪い部分も、全部知りたいの」
「判りました。ではまず」
 ひとつの完成形として寄り添ったまま、百子は人差し指を天井へ向ける。
「オサ先輩はざわっちのこと、『保美』って呼んでました」
「……これから気をつける」
 梢子が小さく肩を落とした。
 
 
 
 
 何があったんですか?と訊いてきたのは綾代。百子は竹刀を分解する手を止めて顔を上げると、きょとんとした目を彼女へ向けた。
「何がって、何がですか?」
「いえ……その、梢子さんと百子ちゃん、ちょっと様子が変わったな、と思って……」
「ああ、そういうことですか」
 休めていた手を再開させながら、なんでもない口調で答える。
「あたし、オサ先輩と一緒にいることにしました」
「え?」
「おなかが空いておなかが空いてしょうがないオサ先輩に、あたしはポケットに入ってたビスケットをあげることにしたんです」
 頭上にクエスチョンマークを浮かべて戸惑う綾代に、百子は悪戯っぽく笑う。
「ポケットを叩くとビスケットが二つになるんですよ」
「そういう歌は知っていますけど、それが……?」
「二つになったビスケットを持ったまま一緒にいたら、そのビスケットは一つのままってことになりませんかね」
 半分のビスケットでは腹は膨れないが、少なくとも一時しのぎにはなる。
 いつまで保つのかは判らないけれど。
「しかもあたしのポケットは高次元と繋がっているので、叩いても叩いてもビスケットはなくならないのです」
 ウロで騒ぎ立てるように、忘れられない思い出を、いつ埋まるとも知れない空虚へ渡し続けると決めた。
 思い出が足りない彼女がもう充分だと言う日まで、語り部として思い出を届け続けるのだ。
 いつまで続くのかは判らない。数ヶ月か数年か、それとももっと長い時間か。ひょっとしたら死が二人を分かつまで続いてしまうのかもしれない。
 それはそれで良いと、百子は思っている。
 語り続けていれば自分も彼女を忘れずに済むだろう。
 己の意思ではなく、己の想いが引き金になるわけでもなく、時間という、海に似た、膨大で留まることを知らない流れに思い出を葬られてしまうことだけは、避けたかった。
 後ろ手に隠していた秘密まで差し出して、百子は埋まる気配のないウロを慰める。
「えぇと……つまり、百子ちゃんと梢子さんは、どうなったということなんでしょう……?」
「運命共同体になったということですよ」
 色気も素っ気もないその表現に、綾代はぽかんと口を開けた。けれどすぐに微笑みを浮かべて、
「よく判りませんけど、とにかく、二人とも元気になってくれたみたいで良かったです」
 心底ホッとしたというように息を吐く。
 百子は「なに言ってるんですか姫先輩」と顔の前で手を振った。
「あたしはいつでも元気ですよぅ」
「百子ちゃんは強いから。だからこそ、少し心配していたのですけれど」
 さすがは副部長といったところか、それとも誰の目にもそう映っていたのか。
 面映くなってつい視線を逸らした。
 ウロは梢子にだけあったのではない。
 百子にもあった。
 百子も、空っぽの部分があったのだ。
 そのウロは梢子の手がふさいでくれる。自分の手は彼女のウロをふさぎ続けるだろう。
 お互いに、相手の中に彼女を見ながら向き合っていくのだろう。
 向き合って、生きていくのだろう。
「オサ先輩、ざわっちの写真見せるとおんなじ顔するんです。ざわっちと話してる時と、同じ顔」
「そうなんですね」
「ざわっちのこと思い出してくれるかは判んないですけど、その顔見たら、こりゃあもうあたしのざわっちメモリィを全部見せねばなりますまいと」
「……保美ちゃんを一番知っているのは、百子ちゃんですものね」
 やんわりと笑む綾代に力強い頷きを返して、百子は心もとない胸を張る。
「それはもう。なんせおはようからおやすみまで、ざわっちの全てを見続けてきたんですからねっ」
 たった数ヶ月のことではあったけれど、期間の短さを補って余りあるほど濃密な共同生活だったと自負している。
 それを全て伝えた時、彼女は満足するだろうか。
 
 彼女と彼女と自分。
 
 三つが密に満つる、そんな日がいつか来るのだろうか。
 
 パァン、と鋭い音が響いて、百子と綾代は反射的に首をすくめた。
「お喋りはそこまで。もう鍵かけるわよ。百子、竹刀の手入れなら寮に帰ってからしなさい」
 叩いた形のまま両手を合わせた梢子が呆れ顔で言ってくる。百子は大急ぎで竹刀を組み直した。綾代も小さくなりながら梢子へ謝罪を含んだ視線を送る。
「すみません、梢子さん。私が百子ちゃんを引き止めてしまったから」
「別に綾代が謝ることじゃないわよ。百子にだって、叱っているわけじゃないんだから。
それにしても、どうして急に手入れなんか始めたの? この前も点検はしていたでしょう?」
 不思議そうに尋ねてくる梢子へ、百子はハハ、と照れ笑いをした。
「ちょっと緩んでたのが気になって、そこだけ直そうと思ってたんですが、つい癖で全部分解しちゃいまして……」
「まったく……、まあ、それだけ身についてるってことだから、悪いことじゃないかもしれないけど」
「ですよね! あたしもそろそろいっぱしの剣道家になってきたってことですかね」
「調子に乗らないの」
 「……はーい」どうやら彼女は別に褒めたつもりではなかったらしい。
 しっかりと組みなおした竹刀を手に、百子が立ち上がった。
 身体に染み付いた分解と生成。
 これと同じように、己が語る思い出は、彼女の一部となるのだろうか。
 毎日毎日、アラビアの夜の物語のように繰り返し聞かせていればいつか、彼女のウロは埋まるだろうか。
 そうなってほしいような、そうなってほしくないような、不思議な気分だった。
 
 
 綾代に先立ち、梢子と並んで道場を出る。空はそろそろ暗い。それなのに目線を前に戻すと必要以上に明るいのだ。便利で良いが風情はない。
 不意にその明るさが寂しくなった。
 ああ、明るいと、ウロがあらわになってしまう。
 光の差し込まないウロが、ますます哀れになってしまう。
「オサ先輩、手をつないでください」
「は? なによ、いきなり」
 驚いたように眉を片方上げた梢子は、しかし百子が答えずにいると小さく溜め息をついた。
「仕方ないわね」
 手のひらが、己の手のひらに重なる。
 二人の手のひらに隠れていた半分ずつのビスケットが合わさって、ひとつみたいに錯覚を生んだ。
 百子は少しだけホッとして、彼女の手を握る力を強めた。
 ウロを手のひらでふさいでも、埋まったことにはならないけれど、余計な寂しさは感じなくなる。
「ざわっちとは、あんまり手をつないだりとかできませんでしたね」
「恥ずかしかった?」
「照れくさかったと言った方が近いでしょうか。ざわっちの方は全然気にしてなかったと思いますけど」
 そんな、なんということのないきっかけで、いつも二人は彼女の話をした。
 これからも、なんということのないきっかけで、彼女の話をするのだろう。
 
 思い出が足りぬ彼女と、思い出が足りる日まで、思い出語りをするのだろう。
 
 それはどうにもならないことかもしれないけれど。
 百子はそうしていたかった。
 
 
 
 依り添い合って歩く二人を、半歩後ろで綾代が見ている。
 
 彼女の目に、その姿はひとつの幸福と見えた。




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