たまゆらインフェクション


 小さな、くぐもった電子音が空気を揺らした。維巳は掛け布団の内側でもぞもぞ懐を探る。取り出した体温計の表示窓を覗いて、それから上目遣いにベッド脇の梢子へ視線を移した。
「下がりましたから、もう大丈夫です」
「そんな赤い顔で言われてもね」
 ひょい、梢子が維巳の手から体温計をひったくる。「あっ」体調のせいか精神的未熟さのあらわれか、思わず上ずった声を洩らした維巳がうろたえながら体温計を取り返そうとするけれど、いかんせん横になっている姿勢の小さな身体、立ち上がった梢子には指先すら届かない。奪われる前にスイッチを切ってしまえばよかったのだが、そこまで頭が回らなかった。
 梢子が表示を読み取り、ふぅと小さく嘆息する。
「確かに昨日よりは下がってるわね」
「はい、だから、もう平気ですから、」
「それでも三十八度近いじゃない。今日も一日おとなしくしていること」
 動いたせいでずりおちた布団を直してやりながら言い含める。維巳は眉を下げて、懇願の色をその瞳に浮かべた。
「……すみちゃんと百子ちゃんが、一緒にお買い物へ行きましょうって、言ってくれてるんです。明日はもう二人とも学校があるから、今日までに行かないと」
「来週でもいいじゃない。別に今日を逃したら二度と会えないわけでもないんだし」
 それはそうだけれど、保美から誘いを受けて、ずっと楽しみにしていたのだ。本当は昨日出かけるはずだったのに熱を出してしまって(梢子には知恵熱じゃないのと言われた。ちょっと失礼だ)、今日こそはと思っていたのに。
 「うぅ……」不満が唸り声となって現れる。「そんな顔しないの」梢子が小さく苦笑して、維巳の額を軽く撫でた。
 彼女の言うことが判らないわけではない。どれだけごまかしても、確かに己の身体は不調を訴えているし、こんな状態で出かけたところで、保美と百子に迷惑をかけるだけだ。それに、梢子を振り切って出かけたとしても、あの二人は同じように維巳を心配して帰らせてしまうだろう。
 理屈では判っている。
 けれど、理屈だけで動けないのが(いや、止まれないのが?)人間というものだ。
「梢子ちゃん、ずるいです」
「え?」
「梢子ちゃんはいつもすみちゃんと会えるけど、わたしはお休みの時くらいしか会えない。それなのに梢子ちゃんは、わたしにすみちゃんと会うなって言うんですね」
 熱のせいだろうか。そんなこと、今までは一度も考えたことがなかったのに、維巳は恨みがましい口調で梢子を責める。
 拗ねているだけである。外見より齢を重ねているとはいえ、所詮は十代も半ばの少女だ。
 あてこすりのような言葉をぶつけられた梢子は気分を害した様子もなく、ただ苦笑いを深くして、「そうね」と頷いた。
「それなら、保美と百子に連絡して、少しだけこっちに顔を出してもらいましょうか。風邪がうつったら困るから少しだけね。……まあ、百子は心配いらないか」
 小山内梢子、わりと無自覚に失礼である。
「駄目かしら?」
「……いえ」
 ただでさえわがままを言って困らせている維巳、向こうから譲歩案を出されて呑まないわけにもいかない。遊びには行けないけれど、部屋で話す分には問題ない。だって熱がほんの三十八度くらいあって身体の節々が痛くて時々咳やくしゃみが出てちょっと頭がぼんやりするだけなのだ。うん、なんの弊害もありはしない。
 思ったとたんに咳き込んだ。堪えようと丸めた背を、梢子が優しくさすってくれる。
「あまり無理しちゃ駄目よ?」
「だいじょうぶ、です……」
 背中を抱きこむような姿勢でさすってやりながら、梢子が心配そうに眉をひそめた。維巳は別に、人一倍病弱ということもないのだが、肉体的未成熟は抵抗力の低さと直結する。子どもの身体はささいな病気ですら命に関わるケースもあることだし、そうそう無理はさせたくない。
 保美も百子も、気遣いのできる子だから大丈夫だとは思うが、一応あまり長居しないよう頼んでおく事にしよう。内心で思いつつ、維巳の姿勢を仰向けに直させて、額にはりついた髪の毛を払ってやった。
 維巳の喉はひゅうひゅうとか細く鳴っている。これはいけない。維巳は必死に堪えた。これではまるで病人ではないか。そうじゃない、ちょっと調子が悪いだけなのだ。心の中で自分に言い聞かせる。病は気から、何度も繰り返せば本当になろう。
「ナミ、なにか飲む?」
「……はい」
「じゃあ、ちょっと待ってて。ついでに保美に電話してくるから」
 梢子が立ち上がる。維巳はなんとはなしに彼女の動作を目で追っていた。「あ、そういえば」ドアを抜ける直前で止まった梢子が振り返ってこちらへ笑いかけた。
「やっぱり姉妹ね」
「え?」
「前に保美からも妬かれたのよ。『梢子先輩とお姉ちゃん、いつも一緒でいいですね』って。保美もナミといたいんでしょうね」
 にこやかに告げて立ち去る梢子の後ろ姿を見送りながら維巳は、あうぅ、となんとも言えない感情のこもった唸りを上げた。
「しょ、梢子ちゃん。それは多分、そういう意味じゃないです……」
 逆だ。
 彼女は「梢子先輩『は』、お姉ちゃん『と』いつも一緒でいいですね」と捉えたようだが、助詞の入る位置がまったくもって正反対である。しかし保美の言葉はどちらとも解釈できる。日本語って難しい。
 実の妹があまりにも不憫で、維巳は熱のせいではなく瞳を潤ませた。
 
 
 
 戻ってきた梢子が告げるところによると、二人は一時間もすればやってくるらしい。それまで静かに休んでいるように、と釘を刺された維巳は素直に言うことを聞いて軽く眠っていた。
 ひやりとした感触に覚醒を促される。額を撫でる柔らかな感触が心地良い。うっすら目を開けると梢子が手を止めた。タオルで額を拭ってくれていたようだ。
 眠ったせいかわずかばかり復調した気がする。「おはようございます」口をついて出た挨拶は的外れだったけれど、梢子は頷きながら「おはよう」と応えた。時刻は眠りから四十分と少し。経過時間にしては睡眠の満足度が高い。眠りが深かったのだろうか。
「そろそろ起こそうと思ってたから、ちょうど良かったわ。調子はどう?」
「ずいぶん楽になりました。これなら出かけても」
「それは駄目」
 一刀両断されて、維巳、しょんぼりする。
 赤らんだ頬にタオルを当てて冷やしてやりながら、梢子は宥めるように維巳の瞳を覗き込んだ。
「そんなに遊びに行きたいなら、しっかり休んで早く治しなさい。風邪は特効薬がないんだから、安静にしているしかないの」
「うぅ……、すぐに治る方法があればいいのに」
「民間療法とか色々聞くけどね。首にネギを巻くとか、お茶に梅干を入れて飲むとか。眉唾なところだと、人にうつすと治るって言うわね」
「人に…………」
 維巳、じっと梢子を見る。
 視線に嫌なものを感じ取った梢子が軽く眉をひそめた。
「……眉唾だって言ったでしょう。そんなことで治らないわよ」
 まったく、と呆れがちに肩をすくめる梢子。だが、維巳の視線は外れない。どことなくすわりの悪い気分になって、頬のタオルを取ろうとしたら、その手を維巳に取られた。そのまま引き寄せられる。
「ちょっと、ナミ。近いんだけれど……」
 潤む双眸がこちらを見つめている。熱によるものだ。それは判っている。判っているがしかし、なんだろう、この奇妙な感覚は。
「ウイルスは、ただ喋ってるだけでも数メートル先まで飛散するんですよね」
「よく知ってるわね。で、それと私がナミに引っ張られてることと、どんな関係があるの?」
「飛散するウイルスの放射角は、放出点に近いほど小さくなるって」
「おじいちゃんの医学書でも読んだの? あのねナミ、何度も言うけど人にうつしたって風邪は治ら」
 うっかり触れそうになって、梢子は慌てて口をつぐんだ。言葉を発するという行為、それには顎の動作が必要で、それによって頭部はわずかながら揺れる。すでに二人の距離は、そんな揺れで触れるか触れないか、というところまで近づいている。
 薄く開いた維巳の唇から、熱を含んだ吐息が洩れている。それが梢子の唇や顎先を撫でて過ぎる。呼気に含まれたウイルスはこちらに侵入しているだろうか。維巳の熱にくるまれて。
 その熱源は、どれほどの柔らかさを持っているのだろうか。
 そうじゃない、違う。彼女はただ、熱でぼんやりしていて理性的な判断ができなくなっているだけだ。一刻も早く風邪を退治したくて、試せる手段はすべて試そうとしているだけなのだ。この行為にはそれ以外のなにもない。馬鹿馬鹿しい都市伝説に付き合う義理はない。「いい加減にしなさい」と一言諌めてやれば良い。そうすれば彼女だって我に返るだろう。
 頬と、それから唇も、いつもより紅い。
 だから、そんなことは関係ないのに。
 一言、ただ一言だ。それで済む。
 その一言を発すれば。
 顎が動いて、頭部が揺れて。
 彼女に触れる。
 違った違った違った。そうじゃなかった。逆だ。まったくの正反対だ。やめさせるために言うのだ。それ以外にはなにもない。
 じくり、滲み浮かぶ体温。ベッドについた手の中で、シーツにしわが寄った。睫毛が震える。
「……、…………」
 音もなく、梢子の喉が何かを言おうと喘いだ。
 声、を。
「――――」
 唇が閉じる。
 目を伏せた。
「こんにちはー! オサ先輩、いますかー!」
 跳ねた。一足飛びに維巳から離れる。
 耳の後ろでドクドクと昂ぶっている脈動を意識しながら、それでも表には出すまいと奥歯を噛み締める。距離を置いた先の維巳はまだ、潤んだ瞳でこちらを見つめている。
「ナミ……今のは、その」
「うつりませんか?」
 どこか無邪気に(そう、あの頃のような無垢で)問いかけてくる彼女はあまりにも純度が高くて、梢子はどこか背徳感に似たものを覚えた。汗ばむうなじをこすりながら、努力してしかめ面を作る。
「うつるわけがないじゃない。まったく、風邪でぼんやりしているからって、しょうがないことをするんだから……。
とにかく、百子たちが来たみたいだから行ってくる。少し待ってなさい」
「はい」
 花のつぼみのように未成熟な、しかし確かにその先の成長をうかがわせる笑みで、維巳は頷いた。
「でも、梢子ちゃん」
「なに?」
「もしも風邪のせいじゃなかったら、どうしますか?」
「……どういうこと?」
 常ならば桜か菜の花か、という可憐で慎ましやかな花のイメージが薄れている。
 赤い。
 彼女の頬や唇を彩る色はあの島で見た赤だった。
 鮮烈な、視界いっぱいに広がる椿の赤。
「熱のせいということにして、本当は全部判っているのにいつもの自分じゃないふりをして、言い訳を準備して梢子ちゃんに近づいたのだとしたら、梢子ちゃんはどうしますか?」
 磨き抜いた宝玉をぶつけ合わせた時に響く、澄んだ高い音が、梢子の中のどこかで鳴った。
「……なにを言って」
「冗談です」
 目を細めて笑うと、瞬時に赤はイメージを変えた。頬の赤さは幼子のそれに、唇は果実の健全さに。梢子の鼓動は安定しないままだったが、それでもいくらか平常値には近づいた。
 「まったく……」維巳の傍らに膝をついて、彼女の額を人差し指で弾く。「みゃ」可愛らしい悲鳴に笑みを誘われたけれど我慢。唇を引き結んで軽く睨みつけた。もちろん本気ではないので恐さなどない。
「そうやってふざけられるなら、明日には快復しているわね。会わせると保美たちに心配をかけてしまうかもしれないと思っていたけど、この分じゃ取り越し苦労だったか」
 ふふ、と維巳が小さく笑った。それは無垢な笑みではなかったけれど、彼女はとても上手に隠してしまったので、梢子は笑みに意味を見出せなかった。
 玄関前では後輩二人が待ちぼうけていた。「いらっしゃい」招き入れると百子は興味深げにキョロキョロと見回し、保美の方は逆にどこを見たらいいか判らないというふうに、心持ち視線を下げて自分の足元を眺めた。
 ひとしきり視界に入る箇所を見物して満足したらしい百子が、梢子を見上げながらわずかに眉を下げた。
「ナミー、調子の方はどうですか? あんまり悪いようなら、ちょっとだけ顔を見て帰ろうかってざわっちと話してたんですけど」
「ううん、大丈夫よ。熱はあるけれど、起き上がれないほどでもないから」
「じゃ、遠慮なく。良かったね、ざわっちー」
「うん」
 ホッとしたように百子へ頷きかける保美の姿に、梢子も心なしか気分が和らいだ。丸一日寝込んでいたと聞かされてずいぶん心配したのだろう。美しい姉妹愛だ、と心の中でうんうん頷く。
「ごめんね保美。本当ならそばについていてあげたいでしょう?」
「あ、いえ、別に……。梢子先輩が看てくれていますから、安心ですし」
 信頼されているのなら喜ばしいことだ。半ば力ずくでベッドに押し込めている現状を知られたら、その信頼が崩れる恐れもあるにはあるが。一人っ子で周囲が大人ばかりの環境で育ったせいか、どうも年下の女の子を扱う際の力加減を読みきれない梢子である。夏の合宿でも保美を柔軟体操に付き合わせて軽く嫌がられたし。百子を相手にする場合よりはかなり手加減しているつもりなのだが、まだまだ足りないのかもしれない。
 もう少し優しくしてみようか。なにせ今の彼女は病人なのだ、どれだけ手厚くしたところでやりすぎということもあるまい。熱もまだ下がりきっていないのだし。
 
 熱が。
 あの、熱はまだ、消えていない。
 
「オサ先輩?」
 一瞬ぶれた視界が正常に戻った途端、こちらを覗きこんでいる百子と目が合った。
「え、なに?」
「……オサ先輩、大丈夫ですか? なんだか顔が赤いですけど」
 言われて、思わず手のひらを頬に当てた。確かに少し熱い。なんだか胸苦しいし、耳鳴りもする。宝玉をぶつけ合わせたような音が内側に響いている。
「……うつった、のかも」
「え!? しょ、梢子先輩、しっかりしてください!」
「ああ、いや、平気よ。軽いのなら一晩眠れば大抵治るし」
「でも……」
「平気。私のことはいいからナミに会ってあげて。待たせちゃってるし、怒ってるかも」
 肩をすくめながら言うと、保美は表情を晴らせないながらそれ以上は何も言わず、首肯して靴を脱いだ。
 大人しく横になって待っていた維巳は特に怒っていなかった。「すみちゃん、百子ちゃん」二人の姿を見止めた途端、表情を輝かせて上体を起こす。即座に百子が「あ、そのままでいいからね」手を突き出して維巳をその場に留めさせた。完全に起き上がろうとしていた彼女はわずかな逡巡を見せてから、お言葉に甘えて、とベッドに落ち着く。
「ごめんなさい、せっかく誘ってくれていたのに、わたしのせいで遊びに行けなくなってしまって」
「気にしない気にしない。来週とかでもあたしたちは構いませんよ。ね、ざわっち」
 百子が水を向けると、保美も頷いて、ベッドへにじり寄ると維巳の肩にそっと手を置いた。
「一週間なんてすぐだよ。今はゆっくりしてて」
「うん」
 はにかむ保美が顔を寄せて、悪戯なささやき声で姉に耳打ちをする。
 風邪は心配だけど、先輩がずっとついてくれていて、お姉ちゃんがちょっと羨ましい。
 妹の恋を流し込まれた維巳は少しだけ困り顔になると、きゅっと彼女へ抱きついた。
「昔みたいに入れ替われたらよかったね」
「今は、できないもんね」
 でもきっと、それでいいんだよ。彼女の言葉は空気のように色がなく、つまり何も混じっておらず、しかし必要な要素だけは充分に含まれていた。
 二人で一人だった自分たちはもう、一人と一人になってしまった。つまり、梢子の記憶として。
 だから、彼女へ己を紛れさせることはできない。
 するんと維巳が保美から離れる。
「あまりくっついていると、すみちゃんに風邪がうつっちゃう」
「おおっ、それですよ!」
 いきなりとどろいた叫びに、当人を除いた全員が一瞬ビクリと身を震わせた。
 当人たる百子は拳を握り、身を奮わせている。
「古来より『風邪は他人にうつすと治る』と言われています! というわけでナミーの風邪も誰かに押し付けてしまえばすぐに復活です」
 高らかに宣言する百子の後ろで梢子が顔を覆っていた。同レベルなのが悲しかったのである。いや、こちらはただの迷信として否定していたのだから明確な違いがある。あると言い張っておく。
 周囲が呆気に取られているのも構わず、拳から親指だけを立てて、ビシィッと自身のささやかな胸を指す百子。
「そしてこの秋田百子、丈夫さには自信があります! 小さい頃は不思議なほど丈夫なので『アロエ』と名前を変えた方がいいんじゃないかと言われたくらいです、そのこころはイシャイラズ! さあナミー、遠慮せずガツンとウイルスを全部あたしにぶつけるのですよ!」
 非常に慎ましい胸を指していた親指を縦にしてサムズアップに変え、百子がニカッと笑った。歯が光りそうだ。
「百子」
「なんでしょうかオサ先輩。あたしの名案に感動して褒め称えたいのなら存分にどうぞ」
「下らないことばかり言っているとたたき出すわよ?」
「……わあ、蛇の生き血を浴びせられた弥勒菩薩像のような、素敵に鬼気迫る笑顔ですね。キリキリ舞いの果てにばったり倒れたい気分です」
 百子の手が、そろりそろりと下ろされる。駄目押しにもう一睨みすると、すっかり小さくなった。
「病人の前で騒がないの」
「はい。すみません、ちょっと配慮が足りませんでした」
 梢子は判ればよろしい、と嘆息まじりに頷いた。こうして素直に自分の非を認めるのは美点であるが、そうなる前にもう少し考えてほしいものだ。
「頭痛がしてきた」
「梢子ちゃん、まさか本当にうつしてしまいましたか?」
「そうじゃないわよ。百子に頭を痛めているだけ」
「でも、顔が赤いですし」
「まあ確かに、ちょっと熱っぽいような感じはあるけれど、別に大したことないから」
 百子ほどではないが、わりあい身体は丈夫な方だ。心配いらないと手を振ると、維巳は眉を下げつつも大人しく引っ込んだ。
 続けざまに指摘されたせいか、なんだか本当に熱が上がってきたような気がする。ちょっと息苦しい。人が増えたから室温が高くなっているのかもしれない。わずかな時間でいいから、取り込む空気を変えたい。
 維巳と同じ部屋にいるのが気詰まりになっているのだと、その原因すらも心当たりがあるくせに、梢子はなにも気づかないと自分自身を欺いて、ゆるりと立ち上がった。
「ちょっと、飲み物を取ってくるわ」
 百子も今の今で騒いだりはしないだろう。少しくらい目を離しても問題ないと判断し、そう言い置いて部屋を出る。
「まったく、なにをしているんだか」
 誰にともなく……誰にとは考えずに呟く。
 どうにも耳鳴りが止まず、耳に手のひらを押し当ててこすった。珠の触れ合う、澄んだ高い音。
 けれど音の反響は長続きしない。一晩を過ぎればきっと消えている。
 熱もまた、明日の朝には霧消しているだろう。
 澄んだ音が呼んだ一瞬の鋭さは、あの赤は。
 陽炎のように淡く実体のない、ただのまぼろしだ。
 きっと。
 
 明日には消えている。 



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