沙羅は二藍に染まりて


    しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
 
 
 
 この頃は日差しが穏やかで日中も過ごしやすい。保護者である佑快和尚も檀家から花見の誘いが来るを待ち構えている節が見えてきた。
 桜にはまだ早いが、目当ての花は今が見ごろである。鈴木維巳はサクサクと下生えを踏みしめながら、寺の裏手に広がる森へ脚を進めた。
 森は木々のほとんどが花どころか蕾も見えない寂しげな風情だった。けれど今時期だけの話だ。夏になればまた白い花がいっぱいに広がる。記憶からその光景を呼び起こすと、維巳の胸には少々甘い痛みが走る。夏に再会し、冬をともにすごした彼女の姿なしに、沙羅の盛りは浮かべられない。
 小さな身体に野生の森は少し厳しくて息が上がってくる。目的地は奥深い場所にあるからなおさらだ。
 足を止め、ふぅ、と息をついて、また歩き始めた。
「あ……」
 ようやくゴールにたどり着いた。目印は色のない森でひときわ目立つ赤い花。いくつもいくつも、数えきれない花を咲かせた一本の樹だ。
 疲れとは別の意味で維巳はもう一度息を吐いた。
「よかった……。ちゃんと咲いてた」
 去年の夏、己が力を得るのと引き換えに、その花をすべて散らしてしまった常咲きの椿。季節を問わず狂い咲き続けるそれが、はたして本当にまた花をつけるのか不安だったのだ。もしかしたら、とうに寿命の尽きていた樹を≪力≫でつなぎ止めていただけではないのか、あれきり、この樹木は枯死してしまったのではないか。そんな不安。
 樹のそばまで近づいて、恐る恐る手のひらを幹に当てる。何も変わりはしなかったし、何も伝わりはしなかった。
 本当に、ただの樹になったのだ。
「――――誰だ。そこで何をしておる」
 鋭い誰何の声に思わず身がすくんだ。声はどこから届いたのかよく判らない。密集する木々に隠れているのか。
「うん? なんだ、ナミではないか。久しいな」
 警戒の解けた声とともに姿を現したのは、維巳と良く似た白髪白皙。左目だけを閉じたその顔には、少々の懐かしさが見て取れる。
 「コハク……さん」振り返り、見知った存在であると認識した維巳は、半ば無意識に呼びかけて、そのまま固まってしまった。
「なんだ? ああ、わしが眠っておるとでも思っておったか? 守天に預けた≪剣≫の封印も完全ではないし、馬瓏琉もとり逃してしまったからな。いましばらく働かねばならんのだ」
 片方の眉を上げて訝ったコハクだが、そんな風に納得して説明してきた。実のところ、維巳がコハクの姿に驚いた理由はそんなことではなかったのだが。
 軽い身のこなしで歩み寄ってきたコハクが椿を見上げる。「見事に咲いたであろう」この辺にはよく訪れていたのか、まるで自分の手柄のように言う。
「めったなことでは人など来ぬが、それでも子どもが紛れ込んでくることもある。そういった輩がこの樹に傷をつけようとしてな。また悪戯小僧でもやって来たのかと思ったのだ。驚かせてしまって悪いな」
「法事のときなどは、檀家の子がこのあたりで遊んだりしますから……」
 すみません、と小さく謝る。「おぬしが詫びることでもなかろう」コハクは苦笑い気味に首を振った。
 今はもう、この樹はただの椿だ。霊験あらたかな常咲きの椿などではない。禍つ神を封じているわけでもないのだから、たとえ子どがいたずらで枝を手折ろうが幹を傷つけようが、コハクが困ることはないはずなのだ。
 それでも彼女はこの樹を守っていると言う。
 梢子に対するものとは少し違う、甘やかな圧迫感を覚えた。
「安姫様にゆかりのある樹だから、ですか?」
 問いにコハクが小さく眉をひそめた。
「……ここにオヤスがいたわけではない。こやつは、ただオヤスの≪力≫をわずかばかり宿しておっただけだ。それでも――――」
 他にないのだ。彼女は消え入りそうな声で続ける。
 不滅のはずの肉体は滅び、輪廻に加わるはずの魂は――――ここに。
 不死の身ではもう逢うことも廻り逢うことも叶わないから、こうするしかないのだと寂しげに視線を落とす。
「コハクさん、卯良島に行ってみませんか?」
「む?」
「卯良島には安姫様が眠っていた石室があります。そちらに行ってみませんか?」
 コハクは返答を逡巡した。
 思い出の地を巡るというには、少し悲しすぎる場所だった。
 けれど……、彼女の残滓があるとしたら、あの場所以外に考えられない。
「おぬしとて卯良島は進んで足を向けたい場所ではなかろう」
「それはそうですが……。生まれ育った地ですし、もう、根方の祭儀も断たれていますから」
 父の死によって、という言葉はさすがに言えなかった。
 コハクはしばらく悩んで、結局、重々しく頷いた。
 
 
 
 いったん家へ戻り、和尚を捕まえて卯良島行きの許しを願った。
「根方のご実家へ行かれるのですかな?」
「いえ、森の様子をちょっとだけ見に行きたいのです。駄目でしょうか?」
「今日は波も穏やかですし、船も出ておる。卯良島へ行くのは特に構いませんが、森へ入るのは少々危険ではありませんかな」
 野犬やなにがしかの獣に出くわすとも限らない、と気を揉む和尚に明るいうちに帰るからと言い募って、外出の許可をもらった。まあ犬どころか熊が出てもコハクの敵ではないが、それを言っても納得してもらえるとは思えない。
 合流したコハクと二人、連絡船に揺られながら卯良島を目指す。コハクはオニワカで海を渡りたがったが、漁船も出ている真昼間にそんなことをされては堪らない。大騒ぎになってしまう。必死に止めた維巳だった。
 梢子と潜入した時は満ち潮迫る命がけの道程だったが、こと船での移動ならたかだか数キロ、居眠りも船酔いもする間もなく到達できる。
 船を下りると、どことなく懐かしい匂いに包まれた。
「平和だな」
 道行く人々や町並みを眺めながら、ポツリとコハクが呟く。「わしが見たのは人っ子ひとりおらん光景ばかりだったが」普段はこうなのか、とどこか感心したような表情を浮かべた。
「クロウサマのお祭りがなければ、ここもごく普通の島ですから」
 こちらです、と手招いて導く。町から外れ、人の気配がどんどん薄くなっていく。
「おぬしが玉依に身を変えられたのは十をすぎたころであろう? 覚えておるのか?」
「大丈夫ですよ」
 あまり外を出歩いた経験もなく、身体を変えられてからは海へ飛び出すまで眠ってばかりいたけれど、それでも故郷だ。迷う道理はない。
 それに、十余りの頃の記憶は己にとって遠い日のそれではない。むしろついこの前のような感覚さえ持っているのだ。彼女の手を引いて森を散策した記憶。楽しかったあの日の思い出が。
 冒険の果てに見つけたそこを、あの悲劇の始まりの石室を、維巳は目指す。
 常咲きの森は、卯奈咲の一本と同様に、もう『常咲き』ではなかったが、やはり大量の花をつけていた。一日ごとに落ちる花が地面を赤く染めている。咲く花も落ちた花もただの花で、それらには神々しさも禍々しさも感じられなかった。
 道すがら木々を眺めてみる。幸い、立ち枯れてしまったようなものも見当たらない。
 穏やかな風が維巳の前に一輪、ポトリと花を落した。
「しかし、おぬしも災難だったな」
「え?」
 無言を飽いたか、コハクが独白のような口調で語りかけてきて、少し前を歩いていた維巳が訝しげに振り返った。
「くだらん根方の祭儀とやらに縛られ、オヤスの身代わりとしてその身を変えられてよ。本来であればもう婿の一人もおる年頃だろう」
「現代では、わたしの年齢ではそういうのはちょっと早いですが……」
 苦笑交じりに答える維巳である。法律的には間違っていないけれど社会的にはまだまだ早い。
 「そうなのか」数百年前の常識しか持ち合わせないコハクが小さく首をかしげた。
「まあ、わしとて大差はないが。八百年……とうに朽ちておるはずの身だ」
 自嘲気味に呟かれた言葉は維巳の胸を圧迫する。そのとおりだ。通常なら出逢うはずなどない相手なのだ。
 出逢うはずのない二人が出逢って、出逢いを望んでいた人は逢えなかった。
 そのことに、罪悪感を覚えないこともない。
 そしてそれ以上に違う感情が湧きあがってくることも、事実なのだ。
「いや……おぬしも人ならざる身だったな。気を悪くせんでくれ」
 維巳の表情が沈んだのを、自らのこれからを憂えたのだと勘違いしたコハクが、わずかに声を上ずらせながらとりなしてきた。「いえ、大丈夫です」顔を上げて首を振る。彼女と同じように寿命を失ったこの肉体に、思うところがないわけではないが、それでも悲しみに暮れてなどいない。
「そういえば、梢子はどうしておる?」
「元気に過ごしているようですよ。去年の暮れに梢子ちゃんのおうちにお邪魔しました」
「ふむ。おぬしらのえにしも続いておるか」
 はいと笑顔で頷く。二度と途切れさせたくないえにしだ。
 彼女とも懐かしい話をたくさんした。今歩いているこの椿の森で遊んだことや、卯奈咲での日々のことなど。過去も現在もひっくるめて、色々な話に花を咲かせたものだ。
「梢子は江戸……東京だったか? そちらにいるのだろう? この距離を半日程度で移動できるとはな。わしや兄は馬で半月もかけたものだが」
「そうですね、交通手段もいろいろありますし」
「飛行機とやらを使えば半刻もかからんと汀が言っておったな」
 どんなものなのか想像もつかないという顔をするコハクに、維巳がくすりと笑った。空を飛ぶ機械だということすら想像の埒外かもしれない。
「あ、もう少しです。こちらの道をまっすぐ行くとあのへんに……」
 前方を指さして、小さく見える洞窟を示す。椿に埋もれて見づらいものの、ぽっかり空いた入口は隠れることもなく、はっきり見えたゴールに二人は無意識のうちに足早になった。
 春のさしかかりといえ陽の射さない洞窟は空気がひんやりと冷たい。そこから洩れ出る冷気にも躊躇わず、維巳は石室へ足を進めた。
 いつの夏とも変わらない光景がそこにあった。薄暗い室内の中央に置かれた、奇妙な文様が刻まれた石の寝台。気温が低いせいか苔むしたりすることもなく、磨かれたような光沢はわずかほども曇っていなかった。
 寝台を指し示しながら維巳が告げる。
「ここが……、安姫様が眠っていた場所です」
「……ここが」
 維巳の言葉を呆けたように繰り返し、コハクが一歩、また一歩と寝台に近づいた。石のふちに手を置いて、逆の手の指先で、人の形をしたくぼみをなぞっていく。
「このような、冷えた石に、オヤスが……」
 怒りを通り越した没我だった。彼女はずっとここにいた。
 ずっとここで、待ち焦がれていた。
 あるいはいつかのタイミングで諦めてしまったかもしれない。覚めない眠りに心をすり減らして、好きな人に逢いたいと願うことすら忘れてただただ絶望の中に閉じ込められていたのかもしれなかった。
 コハクはそんな想像をして、口にも出してしまう。
「あやつは……どれほどの哀しみとともに、その生を終えたというのだ……」
「いいえ」
 血を吐くような、地を這うようなコハクの独白を、維巳が強く否定する。
 胸が圧迫されすぎて呼吸すらうまくできない。
 ここに来れば、きっとこうなると思っていた。
 ここに彼女と来れば、きっと魂がこう鳴ると思っていた。
 最も永く、最も深く彼女が居たこの石室なら。
 最も鮮やかに、彼女の記憶がよみがえると思っていた。
「哀しんでなどいませんでした。悔いてはいましたが、これまで生きていて良かったと、そう思いながら生を終えたのです」
 普段なら安姫の記憶はこま切れの断片でしかない。
 泡沫のようにはかなく消える、曖昧な記憶でしかない。
 けれど今ならその記憶は鮮明に、維巳の中へ映し出されて、確かな像を結ぶ。
「なにより――――九郎様のことを忘れたことなど、ただの一度もありませんでした」
「ナミ……? おぬし、なぜその呼び名を知っておるのだ……?」
 戸惑い、知らず半身を引いて、コハクは右目をわずかに細める。その反応も仕方がない。梢子のことは聞き及んでいたようだが、こちらとは会話をすることもなく別れてしまったのだ。維巳を、ただ馬瓏琉に身体を作りかえられただけの哀れな子だと思っていても不思議はない。
 フラッシュバックというには長すぎる時間、維巳の脳裏には彼女の記憶が流れ続けていた。
 低い目線いっぱいに広がる海と人々。それを横切るようになびく、銀色を帯びた、白い髪、が。
 泣きたくなるほどの郷愁を抑え込みながら、息をひとつ吐く。
「安姫様の魄は梢子ちゃんを助けるために。そして魂は……玉依としての、わたしに」
「な……」
 一瞬の絶句を挟んで、コハクが得心を見せた。
「そうか、おぬしが身体を作りかえられたのは血を採るためだけではなく、オヤスの魂を宿らせるためでもあったか……」
「はい。常咲きの椿から≪力≫を取り戻した際に、少しですが、安姫様の記憶も受け継いでいます」
「オヤスの……。では、さぞわしを恨んで――――いや、そうではないのだろうな。そのような浅ましい真似など、あやつはせん」
 いっそ恨んでいてほしいとでも言いたげな口調だった。恨みつらみでもぶつけてくれれば、あがないのしようもあるのに、と。
 コハクを慰めるためにそれを肯定するわけにはいかなかったので、維巳は瞑目して沈黙を保った。
 目を閉じたせいで記憶が混じる。
 沙羅の森で魍魎に囲まれた折、助けてくれたのは目の前にいる彼女だ。
 手を引いて先導してくれた梢子は一心不乱にわき目も振らず、当然振り返ることもせずに疾走していたけれど、己は、一度だけ振り返った。
 刀を構え、こちらに背を向けて魍魎の前に立ちはだかる凛々しい姿を、この目に焼き付けた。
 あの一瞬の感情をどう捉えたら良いのだろう。
 月光に照り返される白髪をなびかせ、鮮やかな狩衣をはためかせていたあの姿を見た時に走った気持ちは。
 誰のものだったろう。
 大切な人を見誤っているかもしれないという不安はないのだけれど。
 それでも確かに――――。
 『やっと逢えた』と、思ったのだ。
「こんな方法はずるいのかもしれないけど」
「? なにか言ったか?」
「いえ、なにも」
 ささめく呟きを聞き咎められそうになって口をつぐむ。さして気にもせず、コハクは難しい顔に戻った。
「根方は……オヤスを幽閉しておった家だ。わしとしては許せるものではない」
「はい」
「おぬしはその根方の娘だが……オヤスの魂を受け継ぐものでもある」
 二律背反。好悪の因子をどちらも持った維巳に対してどういうスタンスを取れば良いのか、コハクは悩む。
 ただ家の悪しき風習に巻き込まれただけの子どもなら、同情だけで済んだのだろうが、愛しい相手の半分を受け継いでいるとなれば見方も変わる。
「わたしは、安姫様の記憶を継いだといってもほんの少しですし、姓が変わっても根方維巳という一人の人間だったことに変わりはありません」
「ぬ……」
「……安姫様が『わたしの中にいる』という感覚はないのです。記憶も感情も、わたし自身のものとしか感じられない」
「だからなんだというのだ。おぬしとオヤスを同一視するなとでも言いたいのか? しかしそれでは……」
「いいえ。本当は、コハクさんがわたしをどう見ていても構わないんです。ただ……」
 答えを出せずに煩悶するコハクへ一歩近づくと、右目の視線がわずかに逸らされた。
 腕をのばし、その首筋へ巻きつける。
 不老の鬼となったこの身にすら、感謝してしまうほどの喜びを込めて、維巳は想いを告げた。
「『私』はずっと……ずっとあなたにお逢いしたかった。九郎様」
 耳元に囁き、一拍をおいて、
「――――コハクさん」
「…………」
 柔らかに寄せた身体を、コハクの両腕が包み込む。
 呼び声はなかった。
 ただ誰かの名を押しつぶした奥歯のきしむ音だけが、維巳の耳に届いた。
 
 
 
 卯奈咲に帰るとすでに日暮れが近かった。沙羅の森も闇が深みを帯びてきている。
 椿の下で、維巳とコハクが相対した。
「世話になったな。オヤスが最期におった場所を見られたせいか、ひとつ心地がついた気分だ」
「それならよかったです」
 維巳とて、いたずらに彼女を悲しませたくて連れて行ったわけではない。そう言ってもらえたのはありがたかった。
 落ちた椿が作る赤い地面に目を落とし、コハクは小さな溜め息をつく。
「ナミ。おぬしが抱えておるものを、わしがどうにかできるとは思えん。オヤスのことも……わしにとっては後悔ばかりが先に立つ」
「判っています。それでもいいんです。わたしも気持ちの整理がついているとは言えませんし」
 記憶も感情も自信も不安も、全部が混じり合ってどれがどれなのか見分けがつかない。戻りたいのか進みたいのか、それすらも判然としない。自分自身でさえそうなのだから、コハクが見分けられないのも無理はない。
 受け入れてほしかったわけではない。
 ただ聞いてほしかった。
 誰のものかもどんなものかも判らないが、確かにその想いが今、息づいているのだと。
 息づいていることに、気付いてほしかった。
 コハクが困ったように首筋をかく。「おぬしの言葉は、兵法書よりよほど難しい」
「しかしまあ、わしもしばらくはこのあたりにいる予定だしな。おぬしと過ごしてみるのも悪くはないかもしれん」
 無論、馬瓏琉を追う方が優先だがな。と続けられたので、維巳はわざとらしく顔をしかめた。
「わたしよりもお養父さんを優先するのですか?」
「いや、瓏琉を討たねばこの世が滅ぶのだぞ……」
 世界の終りと逢瀬を天秤にかけられて困り果てるコハクだった。
 弱り顔のコハクに維巳が吹きだす。
「ふふっ、冗談です」
「……随分とたちの悪い冗談だな」
 やれやれ、と肩をすくめる。惚れた方と惚れられた方では前者の方が弱いというのが世の定石だが、この二人に関してはそうとも言えないらしい。
 コハクが木々の隙間から空を見上げる。
「もうじき日が暮れるぞ。魔多牟は封じておるから魍魎なぞは出ないだろうが、夜道は危険だろう。帰り道に転んで泣いても知らんぞ」
 夕暮れに二人の白皙が照らされて赤く染まる。椿もその赤が深まっていた。そろそろ帰らないと和尚の小言が降るかもしれないが、維巳はどうしてもその場を動けない。
「コハクさん、次はいつ逢えますか?」
「うん? そう言われてもな……。いつと確約はできんが……」
 明日にも逢えるかもしれないし、馬瓏琉を追って数日来られないかもしれない。現代人の待ち合わせみたいに、「じゃあ細かい日程はメールで」なんて手段が取れるはずもない。
 掴みどころのない返答にしゅんと項垂れる維巳の様子に、コハクが軽く眉を下げた。
「では、わしがこの森にいる間は、寺の山門の前に椿の花を置いておこう。そうしたら、好きな時に訪れれば良い。わしの耳なら呼べば聞こえる」
「……椿の時期が過ぎたら、どうなりますか?」
「それなら他の花を置く。あの寺には沙羅の他に花はないのだから、野草が紛れることもあるまい?」
 浮かない顔をしていた維巳がようやく口元をほころばせた。「必ずです。約束です」「判った判った」コハクの手を取って無理やり指切りさせる。コハクは恥ずかしがったが、振りほどいたりはしなかった。
 いよいよ空が暗くなってきた。春が近いとはいえまだまだ日は短い。本格的に和尚の小言を覚悟しなければなるまい。小言で済めば良いが、悪くすると説教(本職だ)が待っている。和尚は大らかで優しい人だけれど、なんでもかんでも許してくれるほど甘くはないのだ。
「では、またな、ナミ」
「はい」
 名残惜しさが動作に出て、最後にもう一度、とその頬に触れる。
「……お慕いしています」
 見た目だけなら子どものごっこ遊びと思われそうなその言葉を、コハクは真摯に受け取った。
 目を細めて維巳の髪をそっと撫でる。
「そのようなことを言われるのは、悪い気がせんな」
 誰の言葉として告げたのか、誰の言葉として受けたのか。どちらも明らかにしなかったのは逃避だったけれど。
 ただどちらも、その想いの存在を否定しない。
 コハクは屈んで足元に咲く野の花を手折ると、それを維巳の髪にさしこんだ。
「わしからは、こんなものしか返せんが」
「いえ、充分です」
 どれだけの時を隔てていようと、花を贈るという行為に込められた意味は変化しない。
 だから維巳は、それだけで充分だった。
 すべてを捧げれば安姫をここに顕現させられるなら、迷いなくそうしただろう。
 安姫の想いを捨て去って、鈴木維巳となれるのなら、迷いなくそうしただろう。
 どちらも選べず中途半端な『ナミ』でしかいられない己に、これほどの贈り物をされたのだ、どこに不満を持てるだろうか。
 もう帰りなさい、と、コハクが優しく維巳の肩を押す。
 それに従って歩き始めた維巳は、道の半ばで振り返った。
 夕暮れの逆光は白皙の表情を隠していたが、確かに笑っていると確信して、維巳は愛しい人に微笑み返す。
 



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