私たちの本能が恋をする


    九歳の子供がありました
    女の子供でありました
    世界の空気が、彼女の有であるやうに
    またそれは、凭つかかられるもののやうに
    彼女は頸をかしげるのでした
    私と話してゐる時に。
 
 
 
 
 知覚している世界が一瞬くらむ感覚。激しい稽古の後に時々覚えた、貧血にも似た症状が訪れる。おかしなものだ、足りないどころか増えているのに。
 湿り気を帯びた吐息が、こめかみを通り過ぎて首筋へ絡んだ。どきりとして思わず顔を上げる。拍子に、彼女の首筋へ突き立てていた鋭い牙も抜けた。
「ごめんなさい、梢ちゃん。痛かった?」
「ううん、平気」
「でも」
「大丈夫だから」
 梢子は軽く苦笑のように眉を下げて、「こぼしてる」夏夜の口元に垂れた自身の紅い雫を指先で拭った。
 見た目よりも大きいはずの年齢差があっさり逆転してしまったような心持ちになってしまって、それをなかったことにしようと焦った夏夜は彼女の指先へ舌先を這わせた。
 血などこぼれていない、誰もそんなへまはしていない、と誤魔化すその行動が、逆転劇に拍車をかけるなどと、夏夜は気づきもしない。
 彼女の首筋にもいくつか紅い珠が飛び散っていた。そちらも、姫に賜る祝杯のように、丁寧に舌で舐めとる。甘く強い芳香と、それより薄い、柔らかで心地良い薫りが鼻腔をくすぐってきた。夏夜は本質的に酔う。変質した我が身と、同質のままな心が、同時に酔わされる。
 夏夜の眼差しに哀しみが宿った。
 ふるりと梢子が震えたので、寒くなったのかと思って夏夜は顔を上げ、はだけていた彼女のシャツの襟元を直した。
「ごめんなさいね、梢ちゃん。こんなことをさせてしまって……」
「いいのよ。夏姉さんのためなんだし、私は納得しているんだから」
 なごやかに微笑み、梢子は首を振る。
 奇跡的な再会は、喜びだけを夏夜に与えはしなかった。
 奇跡的だったのは再会までで、再開に奇跡は訪れず、曖昧な周期を持ってやって来る渇望はむやみに梢子の身体を傷つける。
 そのたびに覚える罪悪感! 彼女に傷をつけて自責に苛まれ、その後の悦びにまた己を責める。罪悪感のループだった。
 
 
 
――――夏ちゃん!
 
 
 
「私は、夏姉さんの役に立てて嬉しいわ」
 ああ、彼女はいつでも変わらず、潔癖なほど健やかで美しいのだ。
 彼女の祖父に教えられた医療の知識は、こんな場面でも成果を発揮した。
 どこにどれほどの深さで牙を潜らせれば彼女に痛みを与えずに済むのか、傷跡を目立たせずに済むのか、試行錯誤しながら身に付けて、今では、彼女はほとんど痛みなどないと笑う。
 
 それがどれだけの意味を持つのか、痛みをなくすことが意味を生むのか……。
 
 夏夜は確かに存在する満足感に嫌気を覚えながら、彼女の傷口に膏薬を塗りこんだ。
「もしかしたら……なんて、思ってはいけないのかしらね」
「え?」
「何かの奇跡が起きて、また、人の身に戻れるなんて、期待するだけ無駄かしら」
 梢子は何度か口を開閉させて、結局答えを見つけられなかったのか最後に閉じた。
「その……、私はどんな形であれ、夏姉さんが帰ってきてくれて嬉しい。
またこうして、一緒にいられることが一番大事で、人とか、鬼とか、そんなのは大した問題じゃないわ」
 ありがとう。夏夜は小さく応える。
 それは、一番大事な事柄は、夏夜とて同じだったのだけれど。
 
 
 
――――夏ちゃん、お月さまがまんまるだよ!
 
 
 
 あれはいつのことだったか……。
 取り立てて何かがあった日ではなかったように思う。ただ二人で散歩か何かをしていて、ふと夜空を見上げた幼い彼女が頭上を指差して言ったのだ。
 夏夜にしてみればそれほど前の記憶ではないが、彼女はきっと覚えていないだろう。
 それくらい、なんてことのない出来事だった。
 
 月のようだと、一瞬だけそう思った。
 暗い昏い海の底、そこから見える満月に似た、けれど月のような清廉はどこにもない、禍々しい瞳。
 まんまるな月を、もしかしたら彼女は好きだったのだろうかと、そんなふうに考えて、月に似たそれに手を伸ばした。
 あの瞳になにかを注がれて、己は海の底から不浄の身を浮上させたのだった。
 正しさを見誤って、それでも彼女を、『記憶にない』彼女を見つけて。
 けれど彼女は彼女のままで、あの愛らしくて愛しい、まっすぐな眼差しを、夏夜に向けてくれる。
 そのたびに、覚える痛みがあった。
 
 ああ、いつから、こうだったのだろう。
 あの小さな子どもに、無垢なだけの存在だった彼女に、こんなふうな痛みを、感じていただろうか。
 
「というか……」
 物思いをさえぎるように梢子が呟き、夏夜はハッとして下がっていた視線を戻した。
「今の状況も、私としては……えぇと……」
「なぁに? 梢ちゃん」
 言いよどむ梢子に軽く首を傾げつつ、先を促す。
 彼女はコホンと空咳をして、夏夜の特別になれた気がして幸福なのだと、もごもごと、消え入りそうな声でつっかえつっかえ告げた。
 夏夜は素直に喜びを表情で表す。「そう、ありがとう」にっこりと笑むそれはあまりに素直だった。あまりといえばあまりな。
「でも、梢ちゃんはずっと、私にとって特別に大切な子だけれど」
「う、うん。ありがとう……」
 きょとんとしていると、上目遣いにこちらを見つめてくる双眸と視線が交わった。
 ほんのりと頬が赤い。どうしてかこちらまで動揺してしまう。
 偽物の鼓動が速まる。「梢ちゃん?」何かを言わなければならない気がして、まず頭に浮かんだ単語を口に乗せた。
 見つめてくる視線が妙に艶かしい。それはあの頃には見られなかったものだ。
 確かな年月を実感する。己が眠っている間に(そう、そんなふうに言い張りたいのだ、ただちょっと八年ばかり眠っていただけなのだと)、彼女は紛れもなく変容していた。
 もう満月を見てもあんなふうにはしゃいだりはしないのだろう。
「夏姉さん、私以外の人の血とか、飲んでないわよね?」
 疑いではなく確認の口調で問われ、夏夜は即座に首を縦に振った。
「もちろんよ。本当なら梢ちゃんにだって、いえ、梢ちゃんにこそ、こんなことしたくないわ。けど、梢ちゃんと一緒にいるためには、そうするしかないから……」
「それはいいの」
 どこか切りつけるような強い口調で、梢子が夏夜の言葉をさえぎる。
 少し驚いてしまった夏夜は、まじまじを彼女の赤らんだ顔を注視した。
 その眼差しにたじろいだのか、梢子がわずかに視線を外す。
「夏姉さん、自分が人気あったの知っている?」
「え?」
「大学とか、警察とか、で」
 意味が判らなかった。梢子の言葉の意味も、梢子の言葉の意図も。
 だから、両方の意味で「いいえ」と答えた。「そうでしょうね……」梢子は半ば呆れて溜め息をつく。
「お父さんとかが話してるの、よく聞いてた。夏姉さんがあんまり鈍感だから、仲立ちを頼む人とかもいたみたい。
私はその頃、まだほんの小さな子どもだったから、お父さんたちも気にしていなかったと思うけれど……」
 はあ、と再度溜め息。
「そんな話を聞くたびに、嫌な気分になってた」
 私の夏ちゃんなのに、って。後半がいきなり小さくなったのだが、人ならざる身は感覚が常人より優れているため夏夜はしっかり聞き取っていた。
「あの頃から、梢ちゃんはいつも私と一緒にいてくれたものね」
 小さな子どもの可愛らしい独占欲。腹の底がこそばゆくなる。それも、本人の口から聞けてしまったのだ、ふわふわした気分になるなという方が無理である。
 ころころと喉を鳴らすと、梢子はどこか憮然として「そうだけど」と言った。
「つまり、今もそう思ってるっていうことで……。いや、まったく同じというわけでもないんだけれど……」
 紡がれる言葉は平易でありながら難解で、そのうえ、彼女の表情がどんどん険しくなっていくので夏夜は怒らせてしまったのかと焦りだした。
 笑ってしまったのが悪かったのだろうか。別に馬鹿にしたわけではなく、可愛らしくて思わずこぼれた笑みだったのだが、彼女はそう受け取ってくれなかったのかもしれない。
「あの……梢ちゃん、ごめんなさい」
「え……」
 愕然とした表情で梢子が肩を落とす。
「そ、そうよね……。夏姉さんにしてみれば、私はまだまだ子どもで、しかも女の子だし、そんなふうに考えろって方が無理よね」
 もそもそ呟く彼女の言葉は相変わらず難解だった。
「梢ちゃん、なにを言っているの?」
「え? だから、私が夏姉さんを好きなの、迷惑なのよね?」
「そんなわけないじゃない! むしろ梢ちゃんに嫌われたらどうしていいか判らないわ!」
 いきなりとんでもないことを言い出した梢子へ思わず掴みかかる。
 「わ! ちょちょ、ちょっと、夏ちゃん!」懐かしい呼び名で我に返り、慌てて手を離した。
 重ねて言うが、身体能力は全体的に常人離れしているのである。うっかり彼女の両肩を粉々にしてしまうところだった。
 すすっと梢子から離れて正座する。
「梢ちゃん、子どもの頃の話を私が笑ったから怒ったんじゃないの?」
「え、違う違う。……うん、伝わってないのね……」
「あの頃の梢ちゃんがそんなに私に懐いていてくれてたなんて、って感動してしまって。
それで笑っただけで、梢ちゃんが可愛らしくて幸せな気分になっただけなの、本当よ」
「わ、判った。判ったから」
 ストップ、と突き出した両手で推し留められる。良かった、怒っていたわけではないらしい。
「えぇと、私が何を言いたかったかというと、夏姉さんには私以外の血を飲んでほしくない、ということなんだけれど」
「それはもちろん。他の人に頼めはしないもの」
「や、消去法じゃなくて、もっと積極的な意味で」
「積極的……?」
 
 
 
――――ダメェ!
 
 
 
 半泣きの少女がしがみついて、洋服の裾を力いっぱい引っ張ってくる。
 あれは……そうだ、友人と出かけようとしていたところに彼女が鉢合わせて。
 
 
 
――――夏ちゃんはここにいて! 私といてくれなきゃヤだぁ!!
 
 
 
 身体全部でそばにいろと、自分を選べと訴えかけてきた小さな彼女。
 そんないつかと、同じ気持ちで、まったく同じ気持ちではないと言う、今の彼女。
 同じで違うその感情は。
 
「……え?」
「夏姉さんの中に、私以外を入れたくないの。私の血だけが、夏姉さんの中を巡っていてほしいの。
……お願い、いい加減理解して。恥ずかしくて死にそう」
 とうとう彼女は俯いて、全力疾走後のように肩で息をし始めた。
 大変である。梢子が死んでしまったら、あの奇跡が水の泡だ。
 かあぁぁっと、夏夜の内側を紅くて熱いものが駆け巡った。梢子の願いは図らずも叶えられている。
「しょ、しょうちゃん、それは、あの」
「奇跡なんてもう起こらなくていい」
 時計の針は戻らないし、この身は不浄のままだろうし、罪悪感は消えないだろう。
 けれど、それすらも、彼女の清廉は包み込んで。
 『受け入れてほしい』と、夏夜の中で逆巻く純情。
 あの無垢なだけの小さな子どもは、いつのまにか清廉のまま澱みすら抱えて、それはつまり成長ということだった。
 「梢ちゃん」腕を延ばして、柔らかく柔らかく、たおやかな身体を手折ってしまわないよう、優しく抱きくるむ。
 
 ああ、いつから、こうだったのだろう。
 こんなにも激しい痛みを、覚えたことがあったろうか。
 
 夏夜の腕の中、梢子は濡れた声で想いを磨ぐ。
「すごく自分勝手なことを言うけれど。
私は夏姉さんと一緒に生きて、いつか夏姉さんの年を追い越して、それでも夏姉さんにそばにいてもらって、いつか、いつか……。
夏姉さんに、私の最期までそばにいてもらって、それから先も、私のことを忘れずにいてほしいの」
 なんという激しさ! 青く青く、若さゆえの青さは高温の炎を伴って夏夜の心を焼く。
 
 肚の中で、梢子が渡した血の炎が乞い縋る。
 
「……夏姉さんが、嫌じゃなければ、だけど」
「嫌なわけがないでしょう?
ずっと、梢ちゃんのそばにいさせて。私をずっと、梢ちゃんで満たして」
 不器用な二人の告白はあまりにも青く、熱く、それなのに人を傷つけない穏やかさにあふれていた。


 十字に走る過去の罪科に、炎が絡みついてチロチロと舐める。
 何度でも、何度でも……罪は克明にされて、これはきっと常の痛みとなる。
 この痛みがある限り、己は彼女を忘れない。
 時計の針は進んでいくし、彼女は不浄に穢れないだろうし、罪悪感は何度もやってくるだろう。
 痛みは毎夜積み重なって、罪重なって、けれど月は奇跡を起こさないだろう。
 彼女たちはそれでも闇を退けるだろう。
 冷たい光に照らされなくても、二人の中には炎が煌いている。
 柔らかく、柔らかく包み込む腕の内側に、幼子のような表情がある。
 
「夏ちゃんが好き」
「ええ、私も梢ちゃんが好きよ」
 いつからか、いつの間にか。
 同じで違う気持ちは、擦り合わさって意味を持った。
 
 二人の間に永遠などはないけれど。
 
 終わりと始まりの間にある今、時計の針が始まりまで動きを止めた。
 
 
 
 
    私を信頼しきつて、安心しきつて
    かの女の心は蜜柑の色に
    そのやさしさは氾濫するなく、かといつて
    鹿のやうに縮かむこともありませんでした
    私はすべての用件を忘れ
    この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味しました。

 
 
 
 
 
※冒頭、文末の文章は、中原中也『羊の歌』より引用。




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