ブービージョーク


 ははは、と汀は乾いた笑い声を上げた。
「悪い冗談やめてよ」
 などと軽くいなそうとしたこちらの言うことなど聞かない彼女に引っ張られ、電車に揺られること一時間。さらにバスで三十分ほどかけ、たどり着いたのは海岸だった。ピーク絶頂の海は満員御礼、既に海の家も砂浜も人がごったがえしている。ぐるり見回しても建物は遠くにしか見当たらない。道路と海。長く長く、そんな光景が続いていた。イコール、汀の逃げ場はない。
「泳げなくても死にはしないってば」
「泳げないせいで死ぬことはあるでしょう」
 うんざり顔付きで不満を洩らすが、彼女は瓢げた口調でそう言い返してきて、汀は喉の奥で低く唸るしかなかった。
「てゆーか、いきなり海ってハードル高すぎない? プールでもいいと思うわけ、ミギーさんは」
 しぶしぶ、といった様子で海の家の更衣室に入りながら、まだぶつくさ文句を言う汀。
「獅子は我が子を千尋の谷に落とすって言うじゃない」
「いつからあんたはあたしの母親になったの……」
「私も別に母親気どりなわけではないけれど。あなたみたいに口ばかり達者な子どもは嫌だわ」
「……将来、オサの子どもが口から先に生まれる呪いをかけるってのはどうかしら」
「やめなさい」
 そもそもの発端は卯良島の思い出話だった。大会が終わってぽっかり空いた一日、二人で一年前のことを話しているうちに、大海原に放り出された苦い思い出がぷかりと話題に上って、今度あんなことがあったら大変だから泳げるようになるべきだと梢子が主張したのだ。
 汀は余計な御世話だという表情を隠そうともしない。当たり前だった。己の本分は偵察や斥候なのである。あの時はちょっとばかり因縁があったせいで独断専行してしまったが、本来は前衛に立つようなポジションではない。死線をくぐるケースなど無きに等しいのである。
「できないよりできた方がいいでしょう?」
 どこか得意げに言う彼女へ向けて、汀はこれ以上ないほどの渋面を作った。
 
 
 
 それから日が陰るまで海水と格闘したが、その程度で泳げるようになれば苦労しない。
 ただただ疲れるばかりの時を過ごし(あまつさえこの小癪なライバルに頼らねばならない状況に置かれ続け!)、汀はぐったりと肩を落としていた。体力はある方だけれど、数時間波に揉まれ続ければ疲労もする。たまに呑まれもしたし。
 怠惰な姿勢でバッグを担いだ汀に、梢子が慰めるような感じで肩を叩いた。
「まあ、なんて言うか……、人には向き不向きがあるわよね」
「それはここに来る前に悟ってほしかった……」
「ごめん。まさかここまで上達しないとは思わなくて」
 素直に謝られた。とても悔しい。
「あたしが卯奈咲で、どうしてあそこまで海に行くのを嫌がったと思ってるの」
 口八丁手八丁、口先と小手先を駆使して避けていたというのに、どうして一年も経ってからこんな目に遭うのだろう。これはもう人災と言って良い。
 疲労のせいか、くあぁっとあくびが出た。もうさっさとベッドに倒れ込みたいが、そうするにはあと一時間半を待たねばならない。
「明日は一日寝ていたいわ……」
 目頭を指先で押えて眠気を飛ばしつつ、愚痴のように呟いたその時だった。
 一瞬と表現して差し支えないだろう。遠いところで雷雲鳴り響き、それはあっという間に近づいて、重苦しい黒雲が上空に立ち込めた。ん?と訝しむことができたのは、上空数千メートルから地面までの距離の分だけタイムラグがあったにすぎない。
 使い古された表現をあえて使用するならば、バケツがひっくり返ったような雨が二人に降り注いだ。
 土砂降りの雨にさらされながら、汀はどことなく達観したような表情で溜め息をつく。
「ああ、そういえば入道雲が出てた」
「そんな悠長に構えている場合じゃないでしょう。とにかく、どこかで雨宿りをしないと」
「今さら手遅れって感じもするけどね」
 なんともタイミングが悪い。着替える前であればどうとでも対処のしようがあったのに。人災の次に天災とは、よほど運が悪いと見える。
 手近な海の家の軒下に避難したものの、汀の言うとおり既に手遅れである。頭から爪先まで全身濡れ鼠になった二人は、意味もなく顔を見合せて、同時に逸らした。
 梢子が前髪をかきあげながら空を見上げる。雷雲は視界の届く限りに広がっていて、そうやすやすと立ち去りはしないように思えた。
「狐の嫁入りってレベルじゃないわね」
「虹の根元を探す気にもならないな」
 「さて、どうしましょうか」汀の独白に梢子が思案顔をした。汀の逃げ場を封じるために遠出をしたのが裏目に出たかたちだ。このまま、ずぶ濡れの状態で雨がやむのを待つか、それとも別の手を打つか。
「……少なくとも、日が暮れるまでやみそうにはないわね」
「それまで待ったら、オサはともかくとしてあたしは風邪を引く」
「さりげなく人を馬鹿にしないで」
 少々人の悪い冗談はさておくとしても、今の状態では健康によろしくないだろう。汀としてはこの後長旅が控えているし、そういう事態は避けたい。
「しょうがない。近場のホテルで休憩しますか」
 懐が痛むけれど、背に腹は代えられない、と提案したら、なぜか梢子の顔色が変わった。「えっ、ちょっと、みぎ……」上ずる声音で彼女が何を考えたか悟る。ニヤリと汀の口元がゆがんだ。
「なに、『お城』にでも行きたいの? 一応言っておくけど、普通のホテルでもデイユースってあるわよ?」
 高校生ではまず利用することのないシステムだから知らなくても無理はないが、汀はいかにも「そんなことも知らないのか」という表情で言ってやった。海でさんざんしごかれた仕返しである。
 頬を伝う水滴が蒸発するんじゃないかと思えるほど紅潮した彼女は、照れ隠しにか歯ぎしりをしながら汀の顔面を軽く叩いた。
 携帯電話のネット機能でデイユースを行っているホテルが近くにないか検索して、手頃な場所に一軒見つけたそこを目指して走る。雨はいまだ豪雨のまま弱まる気配はない。走っても歩いても濡れる程度は似たり寄ったりだろうが、気分的な問題だった。
 当のホテルは飛び込みだったせいで一室が空いているだけだった。海水浴に来た観光客で埋まっていたのだろう。それでも空いていただけ幸運である。神は自分たちを完全に見捨てたわけではないらしい。できればもう少し愛してほしかったが。
 部屋は冷房が利いていて、ずぶ濡れの身には寒いくらいだった。梢子が小さなくしゃみをする。
 とりあえず冷房を切ってバスタオルで身体を拭いたら、それだけでかなりの違いを実感した。水の際を象徴する名を持つ己は、水そのものとは相性が悪い。
「オサ、先にシャワー浴びていいわよ」
「いいの?」
「あー、正直、ちょっと休みたい。シャワーだけでもわりと体力使うのよ」
 そういうことなら、と梢子が浴室に消えて、汀はセミダブルのベッドに座り込んだ。濡れてしまうがそれを気にする余裕もない。
 「うう、眠い……」ひとりごちる。心頭滅却すれば、などといにしえの僧は言ったが、睡魔を克服するにはどうしたら良いか教えてくれる先人はいない。
 真っ白に燃え尽きたような姿勢で、しばし意識が飛んでいたようである。肩を揺さぶられて顔を上げると、こちらを覗き込んでいる梢子と目が合った。
「ちょっと汀、大丈夫なの?」
「ああ……、うたた寝したらちょっと回復した」
 人は十分程度の睡眠を取ると最も効果的に覚醒できる。そのおかげか、先ほどに比べてずいぶん意識がはっきりしていた。倦んだ疲労感はまだ残っているが、倒れ込むほどではない。
 ホテル側がサービスで供してくれた浴衣に身を包んだ梢子の、その胸元がわずかに赤い。海で日にさらされてからシャワーで温められたせいだろう。その赤さをぼんやりと眺めながら、汀は自分が何をしているのか自問する。
「汀?」
 己の問いに答えを返す前に思考を断ち切られた。「ああ、はいはい。じゃ、あたしもさっぱりしてくるわ」立ち上がって浴室へ向かう。
「あ、ランドリーの乾燥機にかけてくるから、服は置いておいて」
「ん」
 濡れているせいで張り付いてくる洋服に辟易しながら肌からはぎ取り、適当にたたんで浴室のドアの前に置く。冷え冷えとした裸身を浴室の蒸気が撫でた。
 シャワーコックを捻り、そのまま動きを止めて、汀は先刻の問いをもう一度己にかけた。
「……どうしてこんなことに?」
 つまり、海だ。海が悪い。
 そうとしか考えられない。
 そうでなければ、この悪い冗談みたいな状況は、ありえないだろう。
 
 シャワーを終えて戻ると、梢子が備え付けの聖書を読んでいた。あれを読む日本人がいるのか、と汀は内心で呆れる。別に彼女も突然信仰に目覚めたわけではないだろうけど。その証拠に汀をみとめると聖書はすぐに閉じられた。
 雨音は依然として強く、そのせいで逆に静寂が引き立つ。ベッドに腰かけている梢子を見下ろしながら、汀はなぜか居たたまれない気分になった。
 梢子の方も同じような顔つきをしている。「ああ」咳払いに似た空口調で彼女が呟いた。
「服。そろそろ乾くと思うけど」
「そう。とはいえ、まだまだ帰れそうにはないわね」
 せっかく乾いても、また濡れてしまっては元も子もない。もうしばらくはここで足止めされなければならないようだ。
「ま、仕方ないか。少し寝ていい?」
 湯疲れでもしたか、汀は梢子の返答を待たずにベッドへ倒れ伏した。長い手足が重力のままに落ちるさまは、背の高い草が風で倒れる様子に似ていた。文字通り、草臥れている。
 梢子が横掛けにしていた姿勢を変えて、汀と並ぶ。リネンの消毒液みたいな匂いと混じって、花のような和やかな香りが眼前をすぎた。
「そんなに疲れているの? 卯良島で大立ち回りをしていたじゃない。あれに比べたら大したことないと思うけれど」
「あれは火事場の馬鹿力っていうか、命かかってたんだから疲れたとか言ってられないって。今日は気疲れもしたし」
「そんなものかしら」
 横になってしまえば瞼を開いているのも億劫だった。
 眠ってしまおうか、と汀の重苦しい脳が考える。首から上を質量のある闇が覆い始める。
 汀は感情だけでそれに抗った。
「……オサ」
「なに?」
「どういうつもり?」
 どうもこうもない、という表情をする梢子。「眠そうだったから」汀の肩のあたりをぽんぽんと撫で叩く手を止めないまま答える。
 寝かしつけようとしてくる手に苛立ちを覚えつつ、わずかに上体をひねって彼女の相貌を見据えた。
「そんなことをされるほど、このミギーさんは落ちぶれちゃいないわけ」
「……私、そこまで汀を馬鹿にしたのかしら」
 梢子は半ば呆れ気味に言うと、肩に置いていた手を外して汀の横に寝まろびた。
 引き切らない赤が迫る。
「オサってあんまり焼けないタイプ?」
「え?」
 唐突な質問の意味を掴みそこねたのか、梢子は一度問い返してきたが、汀の視線の先を追うことで意図を読み取ったらしい。「ああ、そうね」
「赤くはなるけれど、次の日には落ち着いているし、あまり日焼けはしないわね」
「ふぅん」
 何時間、あそこにいたっけな。汀は朧げに思考しながら、目の前の紅肌に指先で触れた。
「っ、」
 梢子がかすかに顔をしかめる。滲んだ肌が震えて、少しばかり遠ざかった。
 胸元を押さえながらこちらを睨んでくる。
「触らないで。痛いんだから」
 ほほう。
 それは良いことを聞いた。
 正座で痺れた足をつつくのは礼儀だし、日に焼けてじりじり痛む肌もまた同様。
 梢子も何か察したか、「しまった」という顔をして後ずさった。しかしすぐにベッドの端まで到達してしまって、そこで止まる。
「……汀、あのね」
「まーまー、こういうのはお約束だから」
 眠気は飛んでしまった。獲物を狙う猫の目が愉しげに細められる。軽く跳ねて、梢子の向こう側へ手をつくことで退路をふさぐ。両腕の間に閉じ込めるようなかたちになると、その首筋へ牙ならぬ左手を這わせた。
「〜〜〜〜っ!」
 声にならない悲鳴が彼女の口端から洩れる。数時間、陽のもとにさらされて、そのうえ温水で血行が促進された表皮は治まっていない。
「こら、悪ふざけしないの!」
「あはは、けっこう重症みたいねー」
 やめろと言われて素直にやめる喜屋武汀ではない。はだけた布地の隙間から、その下に隠れた赤をまさぐる。そのたびに梢子は意味をなさない抗議の声をあげた。汀の知ったことではない。昼間はこちらがどれだけ抗議しても聞く耳を持たれなかったのだからおあいこである。
 「こっちはどうかなー?」調子に乗った汀はさらに侵蝕の度合いを深めて、脇腹へ攻撃の手を延ばした。くすぐってやる。「ちょっ、くっ、汀……!」怒ったり痛がったり笑ったり、大忙しの梢子だった。
 悪ふざけは続く。暴れたせいで浴衣はすっかりはだけてしまい、すでに汀の独壇場だった。ああ愉しい。彼女を翻弄するのが心底楽しかった。つい先刻までの倦怠感が嘘のように、身体中に活力がみなぎっている。
「いっ、いい加減にしないと本気で怒るわよ!?」
「もうとっくに怒ってるじゃない」
 攻撃の手を緩めないまま大笑する。梢子は対照的にどんどん渋面になっていった。構わずにまだ赤はないかと追及していく。
 そうして上り調子だった汀は、ふと、梢子がいつの間にか黙り込んでいることに気付いた。
 怒り心頭で口をきく気にもならなくなったのかと思ったが、覗き込んだ彼女の顔は、思っていたのと少し違っていた。
 目をかたく閉じて、何かを堪えていた。怒りでも、痛みでも、可笑しさでもない、もっと別の何かを、堪える表情。
 その唇からは雨音にかき消されそうなほどか細い息遣いだけがこぼれている。
 憑きものが落ちたように、汀は静止した。
 衝かれたように、汀は静止した。「あぁ……」傾けたグラスから水がこぼれるのと同じ意味合いの呼声。
「ごめん。悪ふざけしすぎた」
 虚脱のような表情と声で言い、組み敷いた格好の梢子を見下ろす。
 彼女はなにも答えなかった。
 汀も返事を待たず、抱え込むように背を丸めて囁く。
「もうしない。もうしないから」
 だから。
 痛くない場所に、さわっていい?
 梢子はやはりなにも答えなかった。
 汀もやはり返事を待たなかった。
 
 赤と白の境界線。痛みとそうではないもののボーダラインを、汀の指先がたやすく越える。
 なだらかな輪郭をたどる感触は張り詰めていた。緊張でないことは彼女の潤む双眸が証明している。
 双丘の片方を手のひらでほのやかに包み、逆側を口に含む。恥じ入るように内腿がこすり合わされた。甘やかに濡れた切れ切れの阿吽が汀のそばで鳴る。
 耐えがたきに耐える内腿は、それでも開かせようとするとわずかな抵抗を見せた。それも寸時、膝頭に口づけることで封切られる。雨だれのように唇を落しながら足の付け根まで到達すると、絶我の嬌声がひとつ、鋭く発せられた。
 白の中に赤を探す。
 今この瞬間まで誰も与えたことのない感覚を汀の舌先が供する。浮きあがろうとする身体を押さえつけて、その中核、奥に隠れた深紅を貪った。熱だ。そこにあるのは熱そのものだった。熱を極限まで凝縮し、物質化させたものがそこにあった。汀は両手を使って熱を守っていた外殻をおしやり、現れたものを舌で絡め取った。石くれに覆われた宝石を取り出して磨く。そんな作業に似ている。
 ぬめる水音が口腔で反響する。もう、汀自身、呼吸すらおぼつかない。
 耳鳴りに頭痛を覚えながら身体を起こす。右手の中指が触れる。羞恥か緊張かあるいは恐怖か、彼女は強弁に進入を拒む。
「オサ、大丈夫だから」
 切ない呼気の合間合間、できるだけ優しく聞こえるように言う。ここも、痛くはないから。中指の腹で堅く閉ざされた扉をなぜる。ねえ、お願いだから這入らせてよ。
 泣きだす直前のような表情を浮かべる彼女の、首から上のいたる箇所へ唇を落とす。右手はずっと膨れた熱を攪拌している。
 七分を経て彼女は中指を受け入れた。
 
 
 
 中指の根元に残った結晶を親指でこすると、サラサラした感触が伝わってきた。内側へ丸める。わずかな抵抗が中指だけにある。汀の中指は唐突に解を示した。なんの前触れもなく、枝からリンゴが落ちることがないまま心裡へ到達した。
 梢子は泣き出しそうな顔のまま、荒い呼吸を繰り返している。
「……どうして」
 問いを、そう、汀が抱いていたのと同じ問いを、彼女の口は発する。どうして。汀は中指によってその解を得ている。
 右腕を投げ出して、左腕で白と赤の身体を抱いた。
 梢子の耳と肩の間から、カーテンが閉じられた窓が見える。雨音がそういえば止んでいた。雨雲はどこかへ行ってしまったのだろうか。それとも、勢いを失っただけでまだ水滴は空から落ちているのだろうか。カーテンの向こうがどうなっているのか、この状況では判らない。
 汀は動きたくなかったので、箱に入った猫の生死を確かめなかった。
 うるる、と、汀が喉を鳴らした。笑みをかたち取った唇を、彼女の額に押し付ける。挨拶みたいに。偵察みたいに。
 梢子の反応は、酔ったような、迷ったような浮動の視線だった。
「……ねえ……」
「ん?」
 恥じらいの赤が消えない身体をよじらせて、彼女はもやの中を進む旅人の風情で溜め息をついた。
「汀は、好きでもない相手とこういうことをするの?」
 ピクリ、右手が痙攣する。
「……はい?」
 笑んでいた口元がかすかに引きつった。梢子は意地でも汀の方を見ようとしなかったので、そんな様子には気付かなかった。
「だ、だってそうでしょう? いや、それだと私も人のことは言えないことになるわけだけど……」
 しゃべっているうちに自己嫌悪してしまったのか、「ああぁ……」地の底から湧き起こったような呻き声を上げてシーツへ突っ伏す。
 汀は停止していた。あるいは底止であるのかもしれなかった。
 おぉい。誰へともなく呼びかける。おぉい、誰か。その瞳は諦視をしている。
「ちょっと、オサぁぁ〜」
 一気に精神力を奪われた。「そりゃないって……」投げ出していた右腕も使って、萎縮している身体を抱きすくめる。
 彼女のその言葉。
 それは確定的明らかに。
 力の限り強く抱きしめて、乱暴に梢子の髪を撫でる。哀切を解くように。定説を説くように。
 まったくこれは。本当に。
 
 ははは、と汀は乾いた笑い声を上げた。
 
 ねえ、お願いだから。
 
「悪い冗談やめてよ」 



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