あかしのよるに


ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。
 
 
 
 
 生真面目というか馬鹿正直というか。喜屋武汀は口の中の独白を出された茶で濡らす。乾いて尖った呆れは薫り高い緑茶によってまろみを帯びた。
「言葉の裏くらい読めないと、これから生きにくいと思うけど」
「そうね」
 自覚はあるのか、微苦笑と共に頷いた夏夜が、手元で切った羊羹を皿に乗せてこちらへ差し出した。玉露に羊羹。素晴らしい組み合わせではあるが素直に喜べない。
 夏夜が皮肉を真正面から受け取ったのもそうだし、加えてどうしても言いたいことがある。
 幅の不ぞろいな羊羹を一切れ、楊枝を突き刺して手元へ持ってくると、汀は嫁いびりが生きがいな姑みたいな目線を向けた。
「ねえ。あずきって漢字でどう書くか知ってる?」
「一応大学出なんだから、それくらい」
 馬鹿にするなという表情で答えかけた夏夜が喉の動きを止めた。
 言うまでもないが正解は小豆。素敵に四角い形をしているが、原料はれっきとした豆である。
 これはもうボケなのだろうと判断するしかない。豆菓子を出すなという要求に対する高度な切り返しなのだ。自ずからボケてツッコまれるのを待つ、言うなれば誘い受けである。
 いや、夏夜の表情を見ればただのうっかりだということは明白なのだが。
 ただのうっかりなので、待っていても次の手はない。普通に反省している。汀はいちゃもんをつけただけなのに。
 汀としてもこれ以上こんな下らないやり取りをするつもりはなかったので、「別にいいけど」楊枝に刺したままの羊羹にはぐりとかぶりついた。
「間の抜けたふりしてこっちを油断させようとしてるってセンは、あんたの場合ないから楽だけどね。剣鬼はどこまでも剣鬼、刀を振るうしか能がないから権謀術数を巡らせる脳はない」
「……そろそろ、その呼び方をやめてほしいんだけれど」
「うるさいお前なんか剣鬼だ」
 夏夜が肩を落とす。とうとうお前呼ばわりだ。泥をつけられたのがそんなに悔しいのだろうか。彼女は確かに強いが無敵というほどではない。これから先、負けた相手にいちいち腹を立てていたら大変なことになるような気がする。
 彼女は賢い。知識量もだが判断力や利害の分析なども長けている。この少々感情的な部分をどうにかできたら、きっともっと強くなるだろうに。
 というようなことを以前忠言してみたのだが、「あんたにだけは言われたくない」と一言で切り捨てられてしまった。なんとも嫌われたものである。
 その時汀は本当に、好き嫌いなど関係なく夏夜にだけは言われたくないだけだったが、それに気づく要素を夏夜は持ち合わせていなかった。
 汀が楊枝を咥えたまま、コキリと首を鳴らす。うんざりだ。どこまでも救いのない感情を隠しもせず、彼女は顎を上げて睥睨のように夏夜を見下ろしている。
「こっちもそれほど暇じゃないし、そろそろこのつまんない役目も終わる。そうしたら顔を合わせることもなくなるんだから、呼び方なんてどうでもいいでしょ」
 汀は本当にうんざりしていたのだ。何を、ということもない。何もかもだ。
 苛々する。夏夜の顔を見るのも、気を遣ってできるだけ柔和に接してくる彼女の人の良さも。(その評価は多分にシニカルであった。夏夜に対してではなく、汀自身に対して。口でどれだけ剣鬼と呼ぼうが、結局、身の内にある敵愾心はその程度だったのだ)
 夏夜の表情は今も、やはり柔和に努めていた。癇癪持ちの子どもへ忍耐強く笑いかける保母の表情。私は君の敵ではないと訴えかける平和的な笑み。
 
 ああ、本当に。
 
 何も判っていなくて、苛々する。
 
 
 
 なぜあと十五分、と瞬間的に思った。
 自分が十五分早く帰るか、彼女が十五分遅く帰ってくるか。どちらかであれば確実に鉢合わせることはなかっただろうに。
 夏夜と呼べたのは高度に発達した分析力と判断力の賜物だった。もっとも、彼女は動揺しすぎて呼び方に注意を払う余裕はなかったようだが。いや、それもまた僥倖か。今までは違う呼び方だったと梢子に知られずに済んだ。
「汀。ちょっとお話しましょうか」
 シャツを掴んでいる彼女の言葉は断罪に近い。まあ、よりによって自宅で密会されていたら面白くはないだろう。
 梢子は剣道の突きみたいに真っ直ぐ怒っていた。
 どうやって切り抜けたもんかな、とのらりくらり時間稼ぎしながら考えていたところ、急に梢子が訳の判らないことを言い出した。
 夏夜に会いたがっている? 誰が? 
 そういう方向で煙に巻くという手も打てないわけではなかったが、いや無理。色々と無理。多分それは何一つこちらにメリットがない。
 そんな誤解を受けるくらいなら本当のことを言った方がマシだ。汀は光の速さで鬼切り部のルールを振り切った。
 説明を終えたら、思っていたより更に彼女は安堵の様子を見せた。じくりと汀のどこかが疼く。
 そんなにも、アレを他の誰かに触れさせたくないのか。
 そんなにも、『邪魔者』を厭っているのか。
 汀は軽佻浮薄に笑う。
 いつでも笑っているということは、笑っていないと同じ意味だ。そういう風に、汀は笑う。
 だから汀の場合、笑っていない時こそ感情を持つ。
 この後、笑っていられない事態が矢継ぎ早に襲ってきて、それはそれは大変なことになったわけだけれど。
 奇妙な質問をされて、なぜか回答を拒まれた。意味が判らない。
 判らないがどうせ夏夜に関する悩み事でもあるのだろう。
「そういうオサはどうなのよ」
 一種の被虐趣味のような、あるいは単純な八つ当たりのような、でなければただ彼女の照れる顔を見たかっただけのような、ひどく浅ましい問いかけだった。笑みは無意味。
 ないと隠しても自分はそれを暴けるし、彼女の名前が出たところでショックなんてない。それをネタにまたからかうだけだ。笑いながら苛々していた。夏夜に対する苛立ちとは違う意味だったけれど、汀は確かに、梢子に対して苛々していたのだ。問いかけはその発露だった。
 恋を知っていると彼女は答え、汀は予測通りの返答にまた笑った。
 笑みが凍ったのは一瞬。即座に剥がれ落ちる。
 これは予想外。というかなんで? 卯良島で別れてから一度も、姿や声や気配が彼女と関わることなどなかったのに。
 いつから? 考えるまでもない、会ってなかったんだから、始めからだ。少なくとも、始めの終わりには始まっていたのだろう。気づいたのはもっと後、もしかしたらついさっきだったかもしれないけれど。
 同じように?
 自分と同じように、彼女もまた、あの時すでに始まっていたのか。
 それならどうして。
 汀は喜びを覚えるより先に心をささくれ立たせる。あの時点でそうなっていたのなら、どうして。
 右目を隠す。今は鬼など見たくない。特に剣を持った鬼などは。
 残念なことに冗談でかわせない程度には本気だったので、それから部屋を出るまでの間、汀は笑うことができなかった。
 
 
 
 
 嫌だと言われてもやめなかったし、待って欲しいと乞われても待たなかった。
 人と獣の違いはなにか。自己なり他者なりを人と認めるか、それ以外に基準はない。犬を犬と認めればそれが犬であるように、猫を猫と思えばそれが猫になるように、人は人だと認識しなければ人として存在できない。人は人である前に、やはり獣だ。
 つまり、そういう交わりだったということだけれど。
 犬や猫は笑わない。そういう意味で、汀も笑わなかった。
 始めから終わりまで、汀の唇が笑みを形作られることはなかった。無表情と同義の笑みも、そうではない、なにかしらの定義に基づく笑みも浮かぶことはなく、紅く薄いそれは、彼女の濃香を吸い込むためと、それ以外の不要物を吐き出すためと、彼女の身体のいたる箇所へ触れるためだけに使われた。結果を表示するディスプレイではなく、結果を得るためのコネクタとして、汀の唇は在った。
 支配の愉悦も、交感の幸福も、汀の唇は表さない。組み伏せて、荒々しささえ見える触れ方をしているくせに、どこかそれは服従に似ていた。額づいてどうか慈悲をと願うように、彼女のいたる箇所へ口付けた。
 様々な意味でそれは優しくない触れ方だった。
 とはいえ、そういうことは獣から人へと戻った汀が後々ぼんやり分析したことであって、最中はただ必死だっただけである。
 夢中だった。サイレンが鳴って、願いは叶って、心臓は高鳴った。
 狂おしくて狂おしくて、いつか来る終わりが惜しくて、月の光みたいにしっとりと吸い付いてくる肌から離れるのが惜しくて、満足させてあげられなかったらどうしようとかちょっと臆して、試しに軽く焦らせてみたら泣かれてその表情にまたぞろ欲情したりして、笑わないだけで、確かに汀は梢子の肢体に惹かれていた。情交はどこまでも肉体的だった。思考はなかった。肉と熱がすべてだった。
 芸術品には魂を吹き込むらしいが、芸も術も品もない交感は魂を抜き取った。
 置いて眺めるだけの芸術品に用はない。
 触れて、呼びかけて、応えてくれる。その肉体性こそが汀の求めていたものだった。
 しかして問題がひとつだけあった。
 梢子の方は、それだけでは満足できなかったのである。
 
「うぅ……」
 先ほどまでの色めかしさは欠片もない、苦しいばかりの喘ぎが梢子の口端から小さく洩れている。しなだれかかるというより、単純に倒れ伏すようにもたれかかってくる身体を受け止めた汀は、どんな効能があるということでもないのだけれど、彼女のうなじあたりを抱きこんで緩く撫でた。
「つらい?」
「というより……だるい」
 言葉どおり、彼女の全身はまったく力が入っていない。痛みはないはずだし、一歩も動けないほど消耗しているわけでもないだろうが、梢子は指先ひとつ動かす気配がない。動きたくないのだ。
 上に圧し掛かっている梢子がそんな状態なので、汀はさっきからちょっと寒いから服を着たいなぁとか思っているのにそれも叶わない。身を返すだけで叶う願いではあるけれど、それはさすがに配慮がなさすぎる。事が済んだらさっさと背を向けるほど無粋ではないのである。
 というわけで、彼女の身体で暖を取ることにする。
 両腕を背中にまわして抱き寄せる。また梢子が唸った。今度は少しだけ色めかしい。
 真夜中だけれど室内はほのかに明るい。月明かりがカーテンの隙間から射しているせいだ。満月で、雲もないから随分と明るかった。外に出れば人工灯に頼ることなく散策ができるだろう。
 そんな散策に似た穏やかさで汀は梢子に触れる。獣じみた荒々しさは消えうせて、曖昧に、性的ではなく精神的に柔らかく触れる。
 曲線の輪郭が月光で淡く煌いている。汀は手のひらでそれをなぞった。心が優れていれば外見など関係ないなんて嘘だ。精神の尊さは表面に現れる。彼女の克鮮で美しい曲線が、凛確と煌く輪郭がそれを証明していた。高潔な表面を汀はたどる。
 太陽に灼かれた月明かりの曲線が、わずかに潤んだ。高潔な表面は凍結しない。
 ふ、と湿った吐息が頬を撫でた。
「あまり触られると、少し困るんだけど」
「ごめんごめん」
 気さくで陽気な返答をしつつ、汀は手を止めない。
 彼女が困るから止まる、というわけにもいかないのが辛いところだ。つまり、人として。獣は余韻を楽しまない。
 「だから……もう」困惑気味な呟きの原因は、汀というより梢子自身にあった。まだ自制の方法を知らない彼女はいたずらに呼気を乱す。
「……あなたに触りたくなるでしょう?」
 能動的な宣告に、汀が小さく喉を鳴らした。それはそれで悪くない。なかなか魅力的な誘い方だった。
「別にそれでもいいけど、オサはその前に」
 意味ありげに言葉を切ると、梢子が訝るように眉を片方だけ上げた。
 彼女の頬へ手のひらをあてがい、自然に触れる位置にあった親指で薄く開いた紅をすっと一撫でして。
「息を止めないでキスするやり方を覚える方が先じゃない?」
「っ、」
 梢子が小さく息を呑んだ。一瞬の動揺を見逃していないぞと通告するために汀は笑う。同時に、それは可愛らしいことだから嫌いじゃないと首を傾げた。
 初々しさは良いものだが、わりとタイミングを読むのが面倒臭い。触れている時なら堪えようがないのでそういう気遣いは無用である。しかし他のどこにも触れずただ口付けていたい気分というのも不意に訪れる。そんな時、呼吸がないとこちらだけが色々な機微を読まなければならない。文字通り、息が合わないのである。
 そのうち、作法というか、コツみたいなものを掴んでしまうのだろう。それは少しだけ惜しい。
「どっちにしても、今日はもう無理でしょ」
「そう、だけど」
「だから、それは次に取っておこう」
 約束。小指を絡めるわけでも梢子が頷くのを待つわけでもなく、独り言のように汀は言ったけれど、それは確かに二人の約束だった。
 先があるということ。未来があるということ。
 ここで満ち足りたわけではないという宣言。
 ここで道絶えたわけではないという確認。
 どこかで道たがえてしまわないように、繋束。
 濃密な気配の室内で、二人は二人だけの約束をする。
 そろそろ落ち着いてきたのか、梢子がわずかに身体を起こして肘で自身を支えた。汀の顔が見たかったのだろう。横へどけばよさそうなものだが、ご存知だろうか、横並びで満足できる程度に触れ合うのは体勢的にけっこう厳しいのである。
 薄絹を一枚巻いたような仄明かりの中、梢子はかすかに不満げな様子を見せている。
「けどそれじゃあ、汀ばかりずるいじゃない」
「や、気持ち良くなったのはオサのほ」
「そういうことじゃないの」
 言い終わる前に口をふさがれた。当然だが、汀は判っていて梢子をからかっただけだ。
 それに、こっちはこっちで、わりと、つまり、『良かった』のである。息遣いや声、しがみついてくる腕とか、それらは肉体的に作用する。
 そんな事実はおくびにも出さす、苦笑いと共に手を外させて、「まあまあ」と口軽く梢子を抑えにかかる。
「順番、順番」
「いつからそんなに几帳面になったの?」
「生まれ持った性質かなー。順序良く進まないと気になっちゃって」
 呆れた、と梢子が溜め息をついた。
「そんなこと言って、あなた全然順番を守っていないじゃない」
「え? なにが?」
 きょとんとする汀に梢子は先ほどの呆れを引きずった表情で、どこかたしなめるような口調で告げた。
「私、まだ言われてないんだけど」
 なにを、と問うほど浅はかではない汀だ。
 そっと視線を外す。ぐいっと顎を掴まれて戻された。
 眼球の動きだけで避けたら唇を奪われた。それこそずるい。この状態で明後日を見るわけにはいかないではないか。どこで覚えたのだろう。それとも天性か。嫌な天性の才能である。息止めてるくせに。
 仕方なく目を戻すと交わしていた唇が離れた。
「順番というなら、最初から外れているわ」
「あー……」
 じゃあもうノーコンテストで終了ということでいいんじゃないかな。
 「却下」一音たりとも口に出していないのに却下された。
「オサ、実はエスパー?」
「どうせ誤魔化すに決まっているもの」
 汀がわざとらしく脱力する。閨の睦言にこれ以上ないほど相応しく、またこれ以上ないほど相応しくない話題だ。
 さなか、うわ言で囁いたりはしていなかったろうか。否、思い返すまでもない。あまりに狂おしくてそんな戯れをする余裕などなかった。言葉は思考の音声化である。思考していないのだから言葉が出ようはずもない。あの時あったのは肉体だけだ。肉体的な意思疎通は音を介さない。
 梢子は一途に願っていた。重圧に押しつぶされそうだ。どうしてこう気構えるのだろう。少しだけ気が参る。室内は密度が高い。枷と言うほど重くはないが、少々動きにくかった。汀は髪を払う仕草で拡散を狙う。
「秘してこそ花、沈黙は金ってね」
「あなたの場合は、饒舌は銀の方でしょう」
 ううむ、それを言われると返す言葉のひとつもない。
 絶対に言いたくないというわけでもない。照れくさいというのも違う。
 言ってしまえば、そこで何かが終わってしまうような気がする。
 そんな漠然とした不安が、汀の口を重くしている。君が好きで大切だと口にしてしまえば、そこで何かが充足して、どこかにあるゴールラインを否応なく意識しなければならないような、そんな気がする。
「ほら、よく言うじゃない。おいしいものは最後に取っておけって」
 先人は良い言葉を遺した、とうんうん頷いたら額を指で弾かれた。
 指先はそのままこめかみに落ちて、クルクル回る。
「それじゃあ、私は一生言ってもらえないことになるわね」
「――――ハッ」
 思わず笑声が洩れた。唇だけが形作る笑みではなく、嘲笑でもなく、それは興をそそられたという意味での失笑だった。
 なんという……、なんという一途さ! 香車は射程を持たない。どこまでも先へ進めて勢いは衰えを知らない。
 槍というより矢か。的へ向かう矢は、的に当たらない限り止まっているのだ。真っ直ぐに飛んでいるのに停止している矢。それは果てしなく続くということだ。
 彼女の恋は、そういう恋だった。
 珍しく意味ある笑いを洩らした汀は、こめかみで急かしてくる肉体的なサインに気づかないふりをする。
 いつの間にか空が白んでいた。梢子のまとう澄んだ燐光は境界を曖昧にし、仄かな熱を帯び始める。
 惜しむように、頬へ触れた。
「じゃ、最後の最後に言ってあげる。それはもう、飛び切り甘いのをね」
 ふんと鼻から息を洩らして、梢子が笑った。
「期待しないで待ってる」
 彼女たちの言葉はやはり約束だった。
 口先だけの薄約束だ。
 破られることを前提とした戯れだった。
 梢子がいつか初々しさを失くすのと同じように、薄紙一枚の強度もない約束は、そう遠くない未来に破られるのだろう。果てしなく飛び続ける矢に射抜かれて。
 それまではとりあえず、息の合わない、意味の変わらないキスで。
 
 
 
 
 翌朝、梢子と一緒に居間へ向かうと、夏夜がもう起きてそこにいた。
 起きてというのは正確ではないかもしれない。彼女が眠っていたという確かな証拠はない。けれど汀は起きていたのかと思った。それに気づいて、こっそりと肩をすくめる。
「おはよう、夏姉さん」
「おはよう」
 汀は何も言わなかったが夏夜は二人へ向けて朝の挨拶をした。相変わらず……ふむ、なんとも言えない。
「みんなもう出てしまっているけれど、ご飯は用意してくれているから」
「判った」
 頷いた梢子が、あ、という風に表情を変える。夏夜へ歩み寄り、無造作にくくられた髪の一房を手にすくった。
 うわあ。汀が口の中だけで嘆く。他意はないのだろうが愛はある仕草だ。
「夏姉さん、昨日は結局血をあげられなかったけど、大丈夫?」
 どう考えても汀のせいなのだが、誰もそれは口に出さなかった。みんなそこまで子どもではない。
 夏夜はわずかに白んだ頬を緩めて頷く。「一日くらい平気よ」そこそこ強がっていると簡単に読める表情だった。梢子が軽く眉を寄せる。
「無理しないで」
「本当に、その……」
 語尾が濁って、目が泳いだ。武士は食わねど高楊枝とは言うけれど、それは食うものがない場合でも矜持を失うなという意味だ。ご馳走を目の前にしてやせ我慢しろという意味ではない。
 夏夜の髪に触れていた手に力が入って、自身の首元へ寄せさせる。夏夜の瞳が一瞬赤みを帯びたと思ったのは、気のせいか光の加減か。
 それを隠したいわけでもなかったのだろうが、夏夜が一度まぶたを下ろした。
「……いつもごめんね、梢ちゃん」
「いいのよ」
 穏やかに梢子は言って、夏夜が噛み付きやすいように首を片方へ倒した。
 するり。彼女には相応しくない比喩をすれば水際を優雅に泳ぐ鯉のようなしなやかさで、汀が二人へ近づいた。
 梢子の肩を抱いて引き寄せ、逆の手で夏夜の額を押しのける。
 油断していたのか、夏夜の喉からひゅんと詰まった音がこぼれた。
 額を押さえる手のひらをくぐって、双眸がぱちくりと瞬きをしていた。
「……えぇと」
「ちょっと汀、いきなり何をするの」
 戸惑う声と憤る声を無視して汀は口元で笑う。ずいぶんと壮絶な笑みだった。
 汀の腕に抱きこまれた姿勢の梢子が、不満そうな顔をした。
「夏姉さんに妬かないでって、何度も言っているでしょう」
「そんなんじゃないから。なんとなく、嫌がらせしてみただけ」
「汀っ」
 夏夜は消耗しているのだから、早く回復させなければいけないとか、そういうのではないのだからいちいち嫉妬するなとか言い募ってくる梢子の言葉はすべて聞こえないふりで、まっすぐに夏夜だけを見据えて、口元の壮絶さを失わないまま汀が言う。
「あたしはあんたが嫌いだから、ちょっと邪魔してみたわけよ、『夏夜』」
 ぱちくりしていた夏夜の双眸が、今度はきょとんとした。
 それから柔らかく細められる。
 名を呼んだ理由は判っていないだろう。察知されても困る。
 判らないなりに、夏夜は名を呼んだ意味を読み取ったようだ。
「ごめんなさい。これからは邪魔をされない時にするわ」
 なんかすごく腹の立つことを言われた。
 本人としては別に嫌味を言ったつもりなどないのだろう。
 ただ言葉の選択を究極的に間違えただけだ。
 優雅さの欠片もない汀の恋が、口元から壮絶さを消す。
 認めるしかない。
 コレはもうどうしようもないほど、どうしようもない存在なのだ。
 どうしようもないまま彼女のそばに在るものだと、認めてやるしかない。
 パッと二人から手を離して、汀は両手を肩の高さまで上げた。
「はいはい、今はあたしが邪魔者ってわけね。ちょっとそのへん散歩でもしてくるわ。その間に好きなだけしてなさい」
 目の前で許せるほど寛大ではないのだ。尻尾を巻いて逃げるようで非常に不満だが、他に手はない。
 「あ、汀」背を向けて歩き出そうとしたところで梢子に腕を掴まれた。
 そのまま引っ張られて、勢い余ったか耳朶に彼女の唇がかすかに触れる。
「――――汀ともするから」
 囁きは別に、汀にも血を与えるという意味ではなくて。
 汀は目を伏せて、溜め息をついた。
 揃いも揃って空気の読めない連中だ。苛々する。
 くしゃりと梢子の髪を撫でる。
 頬に唇で触れると、彼女はグルーミングをされている子猫のような表情をした。
 夏夜が思いっきり凝視しているのには気づいていたけれど親切な忠告はしてやらない。どこまで空気が読めないんだと呆れるだけだ。
「ま、二十分もあれば大丈夫でしょ」
 ぽふんと頭を一つ叩いて彼女の不安を払拭したところで、今度は夏夜から引き止められた。
「その――――私はいつまでも、この身でいるつもりはないわ。覚えていて」
 あなたたちとは違うのだから、という言外の言葉があったのかどうか。
「知ってるし覚えてる。協力もしてるわけだしね」
 簡潔に答えて、似たもの同士の二人へ順繰りに視線をくれてから、汀は彼女たちを二人きりにしてやった。

 朝の陽光はくっきりと鮮やかで、なんとも清々しい。
 そのせいだろうか。

 汀は相変わらず苛々していたけれど、気分はそれほど悪くなかった。
 
 
 
 
 
 
 
恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、
さめるものということを知っている大人の心は不幸なものだ。
 
 
 
 
 
※冒頭、文末の文章は、坂口安吾『恋愛論』より引用。


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