あいとうそぶく
大切な人がいた。
大切な場所があった。
大切な人の幸福を夢見た。
大切な場所の平穏を願った。
それが、己の望みだった。
そのために、いつも己に臨んでいた。
「ですからミギーさん、あたしとしてはなんとかしたいわけです。
ざわっちを。むしろオサ先輩を」
バクバクバク、と三口でハンバーガーを平らげた百子は、包み紙をくしゃりと握り締めながら言った。
氷が溶けて薄まったジンジャーエールを吸い上げていた汀は、呆れた視線でその彼女を見つめている。
「なんとかって、あたしに言われても」
「だって姫先輩は『そういうことは梢子さんたち自身が決めることだと思うから』って相談に乗ってくれないし、ナミーも『わたしが口を挟むことではありませんし』とか微笑みながらかわしてくれちゃうしっ」
いちいち声真似をしながら力説する百子。汀が小さく拍手をした。
「おぉ、似てる似てる。百ちーって芸達者よね」
「お褒めに預かり光栄です」
ぺこり。ご丁寧に頭を下げる。下げた頭を勢い良く戻して、百子はすぐ隣に座っている汀へさらに迫った。汀は逃げた。百子がさらに追った。このままではキスをするか押し倒されるか、二つに一つの道しかないので、当然汀は逃げ道として後ろに引いた。
「あー、判った判った。で、オサとやすみんがくっつくように、オサをけしかけたらいいわけ? オサ単純だから結構簡単に引っかかってくれそうだけど」
「それは……そういうこと、なんですけど」
さきほどの勢いはどこへやら、百子は急に口調を沈めて、冷えたポテトをもそもそ食べた。
維巳に関する何かの手続き(百子は詳しく知らない)が滞りなく終了したと、ご親切に報告に来てくれた汀をとっ捕まえて、手近なファストフード店へ飛び込んだのはさかのぼること一時間。
まったく進展する気配を見せない親友の恋について、とくとくと不満を語った末に出てきたのが「なんとかしたい」という己の願いだった。
そう、それは願いのはずだ。自分自身が望んでいると胸を張って言える。
けれどどうしてだろう。汀の口から出たそれを聞く、そんなワンクッションが置かれただけで、なんとなく胃の奥がもやんと澱んだ。
澱みをごまかすように、百子はもう一つのハンバーガーに手を伸ばす。
数えて三つ目だ。彼女は健啖家である。残念ながら摂取したエネルギィは縦に作用しない。しかしながら横にも作用しないので、プラスマイナスでゼロなのかもしれない。
「よく食べるわね……」
汀が呆れ半分、感心半分という口調で呟いた。彼女は呆れてばかりだ。
「身体動かしてるからですかねー。肉だったらいくらでも入るんです」
「それでこのナリってある意味すごいわ。ブラックホールでもあるんじゃないの? じゃなければどこかに繋がってるのかもね、百ちーの胃袋」
「どこですか。あたしの胃袋はどこに繋がってるんですか」
「うーん、やすみんのウツワとか?」
百子は最後のひとかけらを口に運んだところで動きを止めた。「それにしちゃ、ざわっち太りませんけど」むしろ標準より華奢なくらいだ。しかしそのくせ出るべきところはきちんと出ているので百子としては羨ましい。
そして同じくらい、ドキドキする。
汀の手が百子のポテトを一本くすねる。それをどうこう言うほどさもしい精神は持ち合わせていないので、百子は目で追っただけで口は閉じたままでいた。
「穴が空いた水槽」
「ほえ?」
「水槽に蛇口から水をそそいでるとするじゃない。その水の量と空いた穴から洩れる量が同じなら、水槽の嵩は増えない。
穴が大きくて自分の蛇口だけじゃ足りないとしたら、他から水を引っ張ってくるしかないわよね」
なるほど、「他の蛇口」が百子の胃袋であるわけだ。
増やすのではなく、減るのを防いでいる状態であると。
「なら、あたしがもっと肉を食えばざわっちは元気になるということですね! では早速おかわりをっ」
立ち上がるふりをして、すぐに席へ戻る。
「って、そんなことあるわけないじゃないですか。面白いですけど、ざわっちにそんな超能力ありませんよ」
どういうわけか、汀は少し面白そうに笑った。
自分の尻尾を追いかけてグルグル回る子犬を見るような笑顔だった。嫌味ではないが見下した笑みだ。
「食べ物ならありえない話だけど」
精神的にはありえるのかもね。汀は揶揄のように続けた。
百子は意味が判らなかったので首をかしげた。
「いや、そんな与太話はいいんですよ」
肘を曲げ、肩幅に広げた両手を右から左へ移動させる。なんのひねりもない『それはこっちに置いといて』のジェスチャだった。
「オサ先輩、最近ナミーにべったりで。そりゃまあ、一緒に暮らしてるんだからいろいろ面倒見たりはするんでしょうけど、なんとなく、それだけじゃない感じがするんですよね」
「へえ」
「これ、あたしの勘ですけど。ナミーも実はオサ先輩のこと好きなんじゃないかと」
心持ち声をひそめて汀に告げる。別に当事者も関係者もここにはいないが、どことなく大きな声では言えなかったのだ。
汀は笑いも驚きもせず、ズズ、とジンジャーエールをすすった。
「どうかしらね」
「でも『恋する乙女』って感じじゃないんですよね。その点ざわっちは判りやすすぎてなんでオサ先輩が気づかないのか不思議なくらいなんですが」
本当に。どうしてあの人は気づかないんだろう。
気づいてくれたらもっと簡単なのに。
そうしたら堂々と、『避難場所』になれるのに。
「オサ先輩とナミーが二人で海行ったって聞いた時も、表面的には普通にしてましたけど内心面白くないっていうのバレバレでしたし。そしてあたしはそんなざわっちを見るのが忍びないわけです」
へえ、と簡単な相槌を打って、汀が百子の頭をぽんと叩いた。
「百ちー、わりと苦労性?」
「はあ、最近そうなんじゃないかと自分でも思い始めてます」
「背が伸びないのってそのせいじゃないの」
「なるほど、代償ってやつですか……」
いつの間にかポテトのパックは空になっていた。自分が無意識に食べたのか、汀がくすね続けてなくなったのか。
口の中が乾いていたので自分のオレンジジュースを飲んだ。やはり己がポテトを食い尽くしたのかもしれない。薄いジュースは妙な後味の悪さを残した。
カップについた水滴が落ちてテーブルに丸い跡を作っている。円。完全な形。
百子は指先で水滴を横切った。完全な形はいびつに崩れる。
汀が片目を細めた。百子が崩した水滴に似ていた。
「オサがナミーにべったりで、ナミーがオサを好きかもしれないから焦ってるの?」
「そうですよ」
「どうして?」
「え?」
音が一瞬消えた。
色も失われて、世界がほんの一刹那、遠くなった。
「だ、だって、それは……」
彼女たちが近づいてしまえば、そこで何かが構築されてしまえば、それは保美の想いが届かなくなるということだ。今も届いてはいないけれど、いつかは届くかもしれない状態であるのだ。それが叶わなくなる。
そんなこと、あっていいはずがない。
保美がいて、梢子がいて、綾代や他のみんながいて、もちろん維巳だっていてほしい。
居心地の良い輪。円。完全。
みんながいる『そこ』に、保美がいられなくなる。
そんな悲劇、起こっていいはずがない。
汀がくしゃりと自身の髪をかきあげた。その視線は多少の憐憫を含んでいた。彼女には珍しいと思ったが、もしかしたら軽蔑も混ざっているのかもしれない。だとしたら彼女らしいか。
「可能性の話で言えば、オサとナミーがお互いに相手を選んで、そうしたら」
「ストーップ! ミギーさん、それ以上はレッドカードで退場ですよ」
人差し指をつきつけると汀はいらついた表情でこちらを睨んできた。
さて、これは指差しという無作法に対するものか、それとも違う何かに怒ったのか。
「……百ちー、あんたは綺麗だわ。けどそれってガラス玉よ?」
「ガラス玉で結構! あたしは崇高な艶よりも安っぽい輝きを選んだのです」
「あたしとしては別に、なにがどうなろうと関係ないんだけどね」
誰と誰がどうなろうと、誰と誰がどうにもならなかろうと。
誰が傷つこうと、誰も傷つかなかろうと。
誰が嘘つこうと、誰が嘘つかなかろうと。
そうだ、ああまったくその通りなのだ。
そんな汀だから相談できたのだ。
「苦労性ね、百ちー。『苦労するで賞』とかあげたいくらいだわ」
「嬉しくないので謹んでお断りします」
世界は元通りの距離へと戻り、百子は恭しく頭を下げる。
戻す勢いは大人しい。
梢子と維巳がどうにかなったら。
そこで保美が百子を選んだら。
誰も何も失わず、とはいかないが、誰もが何かを得られて、円は崩れることもなく。
そんな奇跡、起こらなくていい。
保美が何かを失わなければならない、そんなルートは通らなくていい。
「あたしは何があってもざわっちの味方をすると決めているのです。そういうあたしの愛なのです」
「愛ね」
汀は嘲笑じみた声で繰り返した。安っぽいと思っているのだろう。
それで良い。誰がなんと言おうと、その安っぽさを自分は選んだのだ。
だからきっと、後悔はない。
めんどくさいことに巻き込まれたくないからパス、というにべもない返事を汀から頂戴した百子は、気持ち肩を落としながら寮へ帰った。
寮の中はいつもの風景。特別静かでも騒がしくもない、『生活』の音が充満している。
どこかへ出かけるのか、バッグを持った顔見知りの先輩にすれ違いざま挨拶すると、先輩は小さく眉を上げた。
「どうしたの? 元気ないじゃない」
「そんなことありませんよ。秋田百子、いつも通りに元気いっぱいであります!」
直立して敬礼。小さく苦笑して、先輩はごそごそとバッグを漁った。
「何があったか知らないけど、飴あげるから元気出しなよ」
包装紙にくるまれた飴を二つ取り出し、百子の手のひらへ乗せる。
「ははっ、ありがたき幸せ」素直に受け取ると、百子は飴を捧げ持っておどけた。
ほら、いつも通りだ。
風景も、自分も。それから先輩も。
ここには百子しかいないのに、飴を二つくれる、そんなよく判っている先輩だ。
部屋のドアを開けるとほのかに薫る。花でも果実でもない、それは彼女の香りだった。馴染んでいるくせに消えない香が鼻孔をくすぐる。
「あ、百ちゃんおかえり」
読んでいた新書サイズの本から顔を上げた保美がふわり微笑む。「ただいまー」バッグを落とした百子は飴玉を一つ彼女へ放った。
「先輩からもらっちゃった」
「ありがと」
包装を開けながら保美の隣に腰を下ろして彼女の手にある本を覗き込む。剣道の指南書だった。相変わらず、勉強熱心な彼女だ。
「百ちゃん、体重移動のときはこんなふうにするといいんだって」
開いたページをよく見えるように百子の方へよこしてきたので、百子はそれへ眼を落した。図解付きのそれは判りやすかったけれど、理解できると行動できるは別物だ。一応参考程度に頭に留めてはおくが、実行に移せるかは難しいところである。なにせ考えるより先に動くタイプなので。おかげで部長には呆れ半分に「動きが読めないから手こずる」と言われたりもするのだけど。
「んー、もっとこう、必殺技みたいなのは載ってないんですかねえ」
「漫画じゃないんだから、そんなのないよ」
「でもオサ先輩の片手面だって、ある意味必殺技っぽくない?」
「そう、かなぁ……?」
小首をかしげて困り顔になる保美。得意技ではあるが、必殺というほど強烈かといえばそうでもない。
「それに、梢子先輩だってちゃんと基礎をしっかり身につけてから片手面とか覚えたんだろうし、百ちゃんもそうした方がいいんじゃないかな」
「うう……。素振りとか走り込みとか、別に嫌いじゃないけど〜」
でも砂浜はきつかった、とぼやいたところで保美の表情が変わる。一瞬だったけれど、それにほかならぬ百子が気づかないはずはなく、「ざわっち?」下から探るように彼女の眼を見止めた。
保美はささやかな笑みで感情を隠した。
「ううん、お姉ちゃんを見つけた時のこと、ちょっと思い出しただけ」
彼女は「ううん」と頭につけた。
何かを否定した。
百子が口にしなかった、百子が訊かなかったそれを、否定した。
食い下がることもせずに、百子は覗いていた眼からそれる。
「ナミーね。ざわっちのお姉さんだって聞いた時はびっくりしたよ、ホント。確かに言われてみれば似てるかなーって感じだけど」
「双子だもん。小さい頃はほんとにそっくりだったんだよ」
「ほんとに、そっくりで……」繰り返した言葉の語尾が消える。
そっくりで。
そっくりだから。
そっくりなのに。
「……梢子先輩、お姉ちゃんのこと」
「ざわっち!」
反射的に保美の肩を掴んでいた。驚きに表情を固めた彼女が凝視してくる。百子の半開きになった口から見えない、言えない塊がこぼれおちた。塊が抜けた空洞を埋める言葉を、百子は彼女を見つめ返しながら探す。
「あ、あたしは」
秋田百子は。
「ざわっちの味方だから! 誰がどう言ったって、あたしはざわっちの応援するから!」
それが秋田百子だと、自分自身の真実だと、それがIだと、そう宣言する。
本当に? 自分の中にいる自分が問いかけてくる。
本当に。秋田百子は答える。
本当に、本当に、本当に!
何度も何度も繰り返す。
保美がどこか気圧されたように、それでも柔らかに、笑った。
「ありがとう、百ちゃん」
「そんなの当り前だよ、だって、あたし、ざわっちの親友だし」
ああ。
『本当のこと』は、いつだって正しいと思っていた。
「ざわっちのこと、好きだから、ね」
「うん。わたしも百ちゃんと会えてよかったよ」
何も疑わない親友はそう言って、肩に置かれた百子の手に自身のそれを重ねた。
温かかった。
そのぬくもりに何故だか泣きそうになった百子は、ごまかすようにニッと笑った。
腕を滑らせて、柔らかな身体を傷つけない優しさで抱きくるむ。
「オサ先輩ってば鈍いから、ちょーっと時間かかるかもしれないけどさ。それまではあたしが隣にいるし。そしたら、ざわっちも寂しくないよね」
「……うん。でもわたしは、百ちゃんともずっといたいよ?」
「そりゃもちろん、あたしとしても離れる気などありませんがねっ」
首元で彼女が笑う気配。
こんな至近でその笑声を感じ取れることを、百子は至金と受け取る。
冗談じみたしぐさで頬をすりよせて、目を閉じた。
「頑張ろうよ。ざわっちが誰よりオサ先輩のこと好きなの、あたし知ってるもん」
「うん」
くすぐったそうに、切なそうに、彼女は頷いた。
その喜びも痛みも含めて、彼女が好きだった。
だから応援する。彼女の想いを、もしかしたら彼女自身よりも大切にしたいと思う。
誰がどう言っても、誰がどう傷ついても。
本当に、安っぽい想いだけれど。
傷はないのに、痛みがあるけれど。
大丈夫、これくらいなら抱えていける。これくらいなら抱えて生きる。
そう決めた。
「あたしはざわっちの親友だから」
秋田百子はガラス玉の優しさを煌めかせて、告げたそれを吾意とうそぶく。