徒花匂い立つ香


 静寂のようで静寂ではない。不要な音を耳から取り除いてなお残る音。彼女の呼吸音。
 数日に一度の深夜の訪問を厭うはずもなく、夏夜は無条件でその呼吸を受け入れる。
 どこか母親を見失って泣きべそをかいている幼子のようなお願いに、違和を感じないわけではなかったけれど、おそらく本当にそのようなものなのだろうと推測することで一応の納得は得られた。
 また失うのが、彼女は恐いのだろう。
 この光景は少し懐かしい。仕事が立て込んで帰ってこない母親の代わりに、まだ幼かった彼女を寝かしつけてやったことは一度や二度ではない。あの頃に比べたらずいぶん大きくなったけれど、こちらとしてはそうそう態度や評価を変えられるものではなく、心細さにぬくもりを求める彼女に対してあの頃と同じように接している。
 最近では鬼としての衝動に理性が飛ぶことも減り、こうして彼女が……人がそばにいても自分を保っていられる。やはりあの衝動は《剣》を携えていたことで消耗が激しかったせいなのだろうか。懸念のひとつであったので、今の状態はありがたい。
 睡眠をあまり必要としない身体ではあるが、それでも少しウトウトしていたらしい。夜更けだと思っていたら、気がつけば夜が明けていた。早朝の薄もやがかかった明るさに目を細めるでもなく夏夜は身を起こす。まだ時間が早いので隣の彼女は熟睡中だった。その頬を軽く撫でる。
 態度や評価が丸きり何も変わっていないわけでもない。
 彼女が九歳から十七歳になっているように。
 十七歳になっていたからこそ。
 彼女の抱える思いを吐露されて、真剣に応えなければならない年齢になっていたから、変わらなければならなかった。
 膝を立ててそれを土台に頬杖をつく。
 夏夜が起きだしたことでずり落ちた毛布、その下に隠れていた素肌が目に入って、日差しに眩まなかった夏夜の目を眩ませた。
「ん……」
 梢子は小さく身じろぎをすると、もぞもぞと毛布を求めて身体を丸めた。そろそろ朝晩は冷え込む時期だ。夏夜がその肩まで毛布を引き上げてやる。かき寄せるように手を延ばした梢子が、不意にパチリと両目を開けた。
 一瞬浮かんだ焦燥。目線を上げ、自身を覗き込んでいる夏夜と視線が合った瞬間、それはどこかへ消えてしまった。
「あ……」
「どうしたの?」
 安堵と、わずかな羞恥を表情に乗せて、夏夜から視線を外す。
「夏姉さんが、どこかに行ってしまった気がして」
 あるはずのものがそこにない感触に、不安をかき立てられたのだろう。実際は夏夜は起き上がっていただけであり、どこにも消えてなどいない。自分の勘違いに梢子は軽く頬を紅潮させる。
 夏夜は静かに梢子の髪を撫でると、彼女を見下ろすまなじりを緩めた。
「梢ちゃんに黙っていなくなるなんてことはないから安心して」
「……うん」
 『いつの間にか消えてしまった』、それは己が過去に犯した過ちだ。もう二度としない。誓ってもいい。神……とは少し相性が悪いから、最も敬愛し、最も慈しみ、最も大きな存在である、彼女に。
 小山内梢子に誓って、鳴海夏夜は梢子を手離さない。
 梢子が腕を延ばしてきて、今度こそと夏夜を捕まえる。引き寄せる力のまま彼女へ寄り添った夏夜は、肘をついた姿勢でその双眸を覗き込んだ。視線は合わない。彼女は夏夜の顔を見ていない。視線はその下、十字に走る傷跡へそそがれている。
 引き攣れた傷跡に指先が触れた。少しでも力を込めたら血が噴出すのではないか、そう恐れているような、遠慮がちな触れ方だった。
 本音を言えば、あまりそこには触れてほしくない。
 それは失敗の証だ。彼女を守れなかった、彼女の手を離してしまった、してはならない失敗をしてしまった恥だ。
 けれど自尊心を傷つけられるから触らないでくれと頼み込むわけにもいかず(二重にプライドが傷つく行為である)、夏夜は仕方なく梢子の好きにさせる。
 横一文字に走る傷跡と、交差するように走る縦の傷を指先がなぞる。肩から胸、それから腹部へ。他の部分と違う感触は、夏夜の背すじに奇妙な電熱を昇らせた。くすぐったいのとも、快楽とも、あるいは嫌気とも違う、不思議な感覚だった。
 十字をなぞり終えた指先は、次に夏夜の首筋へと這わされた。誘っているのだろうか、と夏夜は小さく首を傾げる。
「……普通なら」
 結われていないため無造作に落ちる夏夜の髪、それを指で梳きながら梢子が口を開いた。
「普通なら、こんなことにならないわよね」
「それはまあ、私も梢ちゃんとこんなことになるとは思わなかったけれど」
 近親というほど近くはないものの血縁であり、外見上はそれほどでもないが年齢も離れているし、あまつさえ同性である。どう頭を捻ってみても通常では恋愛関係に発展する要素がない。夏夜はいまだにふとしたきっかけで驚いてしまう。することをしておいてなんだけれど、こちらは彼女が赤ん坊の頃から知っているのだ。小さい頃、お風呂に入れてやったり着替えさせてやったりはしていたが、こんな理由で彼女の裸身を見ることになるなどとは、ついぞ考えなかった。
「そうじゃなくて」
 引きつり気味の照れ笑いを浮かべつつ、梢子が軽く手を振った。
 ふ、とその表情が消える。
「私は……夏姉さんを置いていってしまうじゃない」
 ようやく夏夜は彼女の言いたいことを悟った。
 そうだ、突然の事故に遭ったり重い病気にかかりでもしない限り、人は生まれた順に死ぬ。年の差が広ければなおさらだ。本来であれば彼女の言うとおり置いていかれるのは彼女の方であるはずだった。
 けれど。
 人ならざる身は人より強く、その寿命は人より永い。あらゆる伝承と自身の経験、そこで関わった存在がそれを証明している。
「そんなこと……、私は一度梢ちゃんを置いていってしまったのだから、おあいこでしょう?」
「そういうものでもないと思うけど」
 梢子の腕に力がこもって、密着するまで引き寄せられる。伸びた手足と弾力のある胸、不要なものをそぎ落とした頬が触れ合う。
 夏夜の肩越しに天井を見つめながら、ぽつり、呟く。
「それなのに、私は夏姉さんに何も遺せないの」
 感情の見えない口調だった。だからこそ、それが悔しくてたまらないのだと彼女は激しく訴えかける。
 何もない夏夜と、産み出せない梢子。ならば二人が新しく作り出せるものなどあるはずもなく、なんの記録にもならず、自分がいなくなってしまえば後には何も残らないと梢子は嘆く。
 どれだけ交わっても実を結ぶことのない、儚い幻。
 人の夢と書いて儚い。その夢は未来への希望を表す夢ではなく、眠っている時に見るもののことだ。現実にならない、誰かと共有することもできない、目覚めてしまえば消えてしまう虚夢。
 夏夜は手がかりを探すように梢子の身体へ指先を食い込ませた。
「悲しいことを言わないで。私が必要としているのはあなただけなのだから、梢ちゃんを手離さずにいられるなら、それだけでいいわ」
「……うん」
 それでも。弱々しく呟いて、梢子は少しだけ身を離す。
「せめてこの傷みたいに、夏姉さんと最後まで離れないものが欲しかったな」
 刻み付けられた他者の害意を羨望の眼差しで見つめ、力なく笑った。
 すでに夏夜の身体は人外の回復力を得ており、たとえ同じように刀で切りつけたとしても、数日後には一筋の跡も残らない。
 ガリリと、梢子の爪が傷跡を引っかいた。
 ふと。
 夏夜は己の心臓を抉り出して彼女へ捧げたくなる。
「そんなものなくても、私は最後まで梢ちゃんから離れないわ」
「ありがとう」
 熱のない、儀礼に似た言葉が届く。
 
 他者の害意すら妬む恋情。
 
「それにこの傷は、梢ちゃんとの絆でもあるのだから」
「え?」
「あなたを守ろうとして刻まれたものだもの」
 呆けたように、それこそ今その傷に気づいたとでもいうように、梢子はまじまじと夏夜の十字傷を見つめた。
 害意によってつけられたその傷をもってして、二人は結ばれている。
 それが新たなえにしを生み出し、この先の何かを形作る。
 
 仇は、何生い立つか……。
 
 記号化された光の中心に、梢子が唇を押し付ける。
 どこかうっとりと、彼女は光へ舌を這わせた。
 夏夜に訪れるのは電熱と、快楽。
「そうだったんだ……」
「ええ」
 夏夜が身体を倒して、腕の中に彼女を閉じ込めると、こめかみに親愛のキスをした。
「くすぐったい」
 はらりと落ちた髪が梢子の肌をくすぐって、彼女は小さく笑声を洩らす。
 頬を包まれた。つ、と彼女の顎が上げられる。
 誘われるままに唇へ口付けて、求めて、絡む。
 どれだけ深くつながり合ったところで何かが生まれるわけでもなかったけれど。
 唇を当てたまま彼女の裸身を滑り降りる。顎先から鎖骨、胸の中央を通り過ぎて腹部、さらに。
 小刻みに震える身体と切れ切れの嬌声に酔いながら、夏夜は舌先を這わせた。
「なつ……ねえさ……っ」
 家族として呼ばわっていた名ではなく、十七歳の愛しい人としての名を、梢子は喉にのぼらせる。無自覚にか、両手の指が髪に絡んで、ねだるように押しつけてくる。夏夜はそれに応えるため、さらに深く彼女へ潜り込んだ。
 何を生むでもない、快楽しかない表面だけの交わりだった。
 喘ぐ喉へ噛みついて激しく愛情をそそぐ(なぜって、それ以外にそそげるものなどなかったのだから)。締め付けられて指先が痺れた。肩にしがみついている梢子の爪が立てられ、衝動のままにかきむしられる。この傷もすぐに消える。
 押し殺した声と共に彼女が果てると肩にかかっていた圧力も失せた。荒々しい呼吸を繰り返すその様子にわずかばかりそそられた。潜り込んだままの指を軽く動かす。梢子がビクリと身を震わせて、手首を掴んでやめさせようとしてきた。
「もう……夏ちゃんっ」
 上気した顔をしかめて抗議を表すが、夏夜にしてみれば可愛いだけだ。
 鬼としての衝動に我を失うことはなくなったが、別の理由で理性が飛ぶことが増えた気がする。
 なおも刺激を与えると、しかめ面は困り顔に変わって、手首を捕らえていた力も抜けた。
「ちょ……これ以上は、ほんとに……」
 終えた直後の鋭くなっている感覚に苛まれ、身をよじり、楽になれる場所を探す。夏夜がやめてくれない限り、どうにもならないと知ってはいるけれど、何ものかに追い立てられてそうせずにはいられないのだ。
 梢子が泣き出しそうになったところで、ようやく夏夜は動きを止めて彼女の身体を解放した。長い間隔で呼吸する身体は余韻に縛られて動けない。
 くたりとした肢体を抱き上げて、自身の胸にもたせかける。
「ごめんなさいね。梢ちゃんが可愛かったものだから」
「今度からは、もう少し違った愛情表現がいい……」
 まったく、と嘆息して、それでも擦り寄ってくる梢子に軽く口元をほころばせた。
 投げ出された四肢は伸びやかでしなやか、全身から立ち上る芳香は少女特有の甘さを含んでいる。
「ねえ梢ちゃん、笑ってみせて」
「え? なあに? いきなり」
「梢ちゃんの笑顔が見たいの」
 突然の要求に梢子は訝しげな顔をして、「変な夏姉さん」と呟いた。
 彼女の手が頬に触れてくる。
「笑えって言われて素直に笑うのって難しいんだけど」
 その昔、おかしくもないのに笑えるかと言い放った俳優がいたという。演技者でさえそうなのだから、表情イコール感情である梢子が従えないのも無理からぬ話である。形ばかりの笑みを作ることはできるかもしれないが、それは夏夜が望んでいるものではない。
「そう? じゃあ、どうしたらいいかしら」
「……夏姉さんが好きって言ってくれたら、笑えるかもね」
 少女らしい甘えた欲求に、夏夜が目を細める。「そんなことでいいの?」
「好きよ」
「……ん」
 途端、彼女はとても綺麗に、笑った。
 それでいい。
 ただそれだけで、夏夜は満たされる。
 
 たとえ散るよりないものだとしても。
 
 美しい姿と、かぐわしき芳香。
 
 咲く花を愛でるのに、それ以外の何が要るというのだろう。 



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