二十一


 買い物をするための寄り道を終えて帰ってきた百子は、寮に入るなりなにやら良い匂いに全身を覆われた。
 匂いは甘い。とにかく甘い。例のコーヒーばりに、いやさそれ以上に甘い。
 推測の必要すらなく、百子はそれがなんであるかを確信する。
「バレンタインですからねぇ〜」
 恋だったり友情だったり義理だったりするのだろうその匂いに誘われて、フラフラとキッチンに向かう。時間帯から考えて、当然使用しているのは寮勤めの料理人ではない。寮生なら顔見知りは多いし(主にルームメイトの料理の腕のおかげで)、少しくらいお裾分けしてくれるかもしれないと期待しての行動だ。
 キッチンには女の子が三人、それぞれ生クリームとか果物とか、もちろんチョコレートとかと格闘していた。正確に言えば格闘しているのは二人、残る一人は温和にチョコレートと交流を深めつつ、格闘している二人へアドバイスを送っている。
 その一人を見止めた百子は、そりゃそうだ、とどこか気の抜けた、諦念のような思いを抱いた。
 そりゃあ、バレンタインなのだ。彼女がそうしない道理はない。
「ざわっちー」
 他の二人も顔見知りだったので、やぁどもども、と挨拶をしながら横をすり抜けて最奥のルームメイトへ近づく。顔を上げた保美は一瞬動きを止めて、儚げな笑みで百子を迎えた。
「あ、百ちゃんおかえり」
「ただいま。ざわっち、なんだか良い匂いをさせているじゃありませんか」
「う、うん、一応……」
 ああ皆まで言うな、判っているから。突き出した手のひらでそう告げた百子がにやんと笑う。
「不肖秋田百子、味見ならいくらでもさせてもらいますよ。むしろさせてください」
 手伝おうかと言わないあたりが百子だった。
 保美は湯煎にかけたボウルを押さえながら申し訳なさそうに眉を下げた。おや?と百子が訝る。いつもなら柔らかく笑んで承諾してくれるし、時々「あーん」とか食べさせてくれまでするのに。
 目線を落とし、どこか恐々と保美が口を開く。
「あの……ごめんね。味見は自分でするから……」
 どうにかして百子を傷つけずに断ろうと苦慮する表情。
 そんな顔をされて無理強いできるはずがないではないか。他の誰かならともかく、他ならぬ相沢保美で、他ならぬ秋田百子なのだから。
 手のひらを上にして構えていた手を握り、一本だけ伸ばした人差し指で頬を掻いた。
「いやいや、そうだよね。それはオサ先輩のためのものなんだから、残らずオサ先輩にあげたいというざわっちの気持ち、あたしはしかと受け取ったよ」
「あ……」
 考えてみれば当たり前だ。大勢に供するための料理と、今彼女が抱えている甘ったるいものは存在意義がまったく違う。たった一人に向けられた愛情は、余さずたった一人に供されるべきなのだ。
 少し調子に乗っていたかもしれない。彼女の深い愛情を知らないわけでもないのに。
 入学したのは去年の四月。保美にとっては初めて渡す気持ちの形ということになる。伝わるかどうかは別問題だけれど。
 それは、大事だ。ただのルームメイト、ただの親友よりずっとずっと大事だ。
「じゃ、あたしは部屋に戻ってるから。頑張れ、ざわっち」
「うん……。本当にごめんね」
「そんな気にしなくてもいいってば。そこまで食い意地張っちゃあいませんぜ」
 なんとも説得力のない捨て台詞を残して、百子は保美に背を向けた。
「百子ー、恋する乙女を邪魔しちゃいかんよ」
 ニヤニヤ笑いで苺をチョコレートにくぐらせていた寮生が声をかけてきた。「だから、邪魔にならないように退散するところなんですよぅ」唇を尖らせて言い返すと、気楽な笑い声と共に竹串の先に刺さった簡易チョコフォンデュを差し出される。
「可哀想だから一個分けてあげる。愛はこもってないから安心して」
「おおっ、女神がおられますよっ」
「チョコ一個で神扱い?」
 苦笑はチョコに食らいついてきた百子の勢いに少々引きつった。
「あまー! ゴチです! あ、ホワイトデーは期待しないでくださいね」
「してないしてない」
 愛も友情も義理もない、同情のチョコレートなのでそんな気遣いは無用、と彼女は軽く手を振った。
 生ぬるいチョコレートと苺が口の中で混じり合う。良い組み合わせだった。美味い。
 しかし、ちょっと甘味が足りないかな、と思った。
 多分それは何を加えても得られない甘味で、百子はどれだけ経っても味わえないもの。
 
 
 
 平時であればそろそろベッドに入ろうかという時間になっても保美は部屋に帰ってこない。ずいぶんと張り切っているようだ。体力ゲージが赤くならなければいいけど。百子は目を閉じ、ヘッドフォンから流れる大音量に耳を晒しながら考える。
 不満なわけではない。
 決定的に、徹底的に『自分ではない』ことを受け入れられないほど、秋田百子は狭量ではない。むしろ人並み外れて寛大だと言って良い。身体の小ささとは対照的に(それとも、それを補うようにだろうか?)心は広く、懐は広い。
 長さ五センチほどの切り傷を負ったとしよう。
 人がそれほどの怪我をしたならば、まず確実に治療が必要となる。止血をして、傷薬を塗りこんで、傷口を保護してやらねばならない。
 しかしそれが世界最大の哺乳類たるシロナガスクジラだったらどうだろう。
 五センチの傷は彼なり彼女なりに、どれほどの影響を与えるだろうか? 堅い岩の側面にぶつかって五センチばかり身体に傷がついたとて、クジラは泣くだろうか?
 そんなふうに、百子は泣かなかった。
――――明後日は土曜日だから、明日渡さなきゃいけないのに。
 そんなふうに、百子は保美の心配ばかりをしていた。
 遅くまで頑張りすぎて倒れてしまったら元も子もない。強引にでも連れ戻してこようか? いやしかしそれでは完成していなかった場合同じことになる。梢子に渡せないという結果は同一だ。
 ならば最終手段、梢子に直訴して朝稽古をつけてもらうか。保美もマネージャなのだから、その場に同伴するのは不自然ではない。
 待てよ、そもそも休日だからといって会えないと思うのが間違いか。自分が言付けを伝えるなり電話するなりして呼び出せばいいではないか。慎ましやかな彼女はそういう積極的な行動に怖気づくきらいがあるけれど、そうであれば自分が電話してもいい。
 大音量を叩き込まれながら百子は一心不乱に思案している。それは純粋だった。
 不意にその純粋がせき止められる。唐突に訪れた静寂に弾かれて、百子が反射的に顔を上げた。
 オーディオの停止ボタンを押した姿勢のまま、こちらを遠慮がちに見下ろす保美を見つける。全然気づかなかった。音楽のせいか集中していたせいか。両方だ、確実に。
「あ、おかえりざわっち」
「ただいま。……で、いいのかな」
「いいに決まってるじゃん。ここがざわっちの部屋なんだから」
 保美が奥ゆかしく微笑んだ。そうだね、という囁きのような言葉に百子が力強く頷く。
「チョコはできたの?」
「うん。ここに置いてると溶けちゃうから冷蔵庫にしまってある、けど」
 突然しゃっくりが出そうになったかのように声を詰める保美。
 百子は沈黙の意味を正確に読み取り、「盗み食いなんかしないよ」舌に苦い薬を置かれた子どもみたいな表情で先手を打った。
 自他共に認める親友同士だし、好かれている自信はあるのだが、どうも信用度はいまいち低いような気がしなくもない。
「じゃ、明日忘れずに持っていかないとね。っと、そうだ、ざわっち具合悪くしてない? 今日は早めに寝て体力回復させておいた方がいいよ。自分で渡したいでしょ?」
「あ、あのね百ちゃん……」
「ああ、はいはい。そんなに照れなくていいから。というか、今のは別にからかったわけじゃなくて、ほんとにざわっちの心配しただけなんだからね」
 日頃、ギリギリのあたりで保美をつついているのが裏目に出てしまったか。困ったように笑う彼女へ、指を立ててチッチッ、と左右に振りながら、百子はそんな弁明をした。
 保美をベッドへ押し込んで毛布をかけてやり、おまけに膨らんだ布団をぽんぽん叩いた。保美は変わらず、困ったような笑みを浮かべていた。
 少し、頬が赤らんでいるように見える。寝かしつけられていることに面映さを感じているのか、やはり体調を崩しかけているのか。
 彼女の前髪をかきあげて、額に手のひらを当てると、ほのかに目元が緩んだ。
「百ちゃんの手、冷たくって気持ちいい」
「そうでしょうとも。心のあったかい人は手が冷たいって言うからねー」
 幼さの残る手のひらが、優しく保美の額に触れる。
 保美は首元まで毛布を引っ張り上げて、そこへ埋もれるように首をすくめて笑った。
 
 不安は的中。目覚めた百子がいの一番に確認した保美の体調は思わしくなかった。
 経験則から判断するに、一日横になっていれば大丈夫だろう。逆に言えば、今日一日はベッドから出ることまかりならんと判断したということだ。
 ベッドサイドに膝を立てた姿勢で保美の顔を覗き込む。彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。
「今日はちょっと無理っぽいね。オサ先輩には明日渡そう? 元々、明日が本番なんだし。
じゃなかったら、あたしが代わりに渡してこようか? それともやっぱり自分で渡したい?」
 畳み掛けるような言葉に気圧されたか、保美は何度か口をパクパクさせて、それから小さく首を振った。
「ううん、あの……大丈夫だから」
 どの質問にどういう意図で答えたのか、ちょっと判りにくかった。
「ざわっちが渡す?」
「……うん」
「そっか」
 それなら自分の役目は、明日どうにかして梢子を呼び出すこと。別段むずかしい役目ではない。曲がりなりにも、いや曲がったところのない剣道部部長、部員かつ可愛い後輩の頼みをすげなく断ったりはしまい。
 今日のうち、見舞いがてら寮へ来てくれと頼むこともできるだろうが、それは保美の方が忙しくなってしまうので却下だ。女の子は色々と大変なのである。特に、好きな人に見られるという場合には。好きな人に朝から晩まで見られ続けた結果、慣れきって何を見せても平気になってしまうケースもあるけれど。
 そんなケースの典型例である百子は、保美を覗き込んでいた身体を起こすと大口を開けて欠伸をした。
 わしわし目元をこすりつつ、保美の身体にかかっている毛布を直してやる。
「うー……。それじゃ、あたしは学校に行ってきますよ。早めに帰ってくるようにするから、無理しないようにね?」
「うん、ありがとう百ちゃん。行ってらっしゃい」
「ん」
 毛布を五回、リズミカルに叩く。「行ってきます」の合図だ。それ以外の意味はない。車のブレーキランプとは違うのである。
 本当はずっとそばにいてあげたいけれど、それはそれで彼女に無駄な気遣いをさせてしまうから百子はその選択肢を選んだことはない。
 学校に到着してすぐ、梢子と居合わせた。というか、昇降口で立ち往生している梢子を一方的に見つけた。
 彼女はいつももっと早い時間に登校しているので、朝一番に顔を合わせるケースなどほとんどない。今日は例外だ。なぜなら『いつもの日』ではないからである。
 彼女の行く手を阻んでいるのは少女たち。おそらく後輩だろう。学年の違う教室へ入るのは勇気がいるから、もう少しハードルの低いここを選んだのだ。
「人気者はつらいですねぇ、オサ先輩」
 通りしな、挨拶もそこそこにニヤニヤ笑いを向けると、梢子が軽く苦い顔をしながらこちらを見遣ってきた。けれど言葉はない。言い返したいのだろうが何を言っても囲んでいる少女たちを不愉快にさせるということに気づいているようだ。
 靴を履き替えてから遠目に見物していると、梢子は結局囲んできた少女たち全員からラッピングされた包みを受け取っていた。断りきれなかったらしい。朝一で五つ。ハイペースだ。この分なら帰るころには一抱えになっているだろう。気の毒なような、羨ましいような。
 あの様子を見ると保美が今日渡さないのは逆に良策であるように思われた。大量の同類に埋もれるより、きっちり一対一なオンリーワンで渡した方が印象深い。
 少女がきゃあきゃあ騒ぎながら走り去ったおかげでようやく解放された梢子が、思わず溜め息をついた。
「モテモテですねー」
「……まあ、好かれてるんだからありがたいと思うべきなんだろうけど」
 慎重かつ正直な意見だった。
 人目に晒したまま教室まで歩くのは抵抗があるのか、梢子はバッグへ丁寧に包みをしまう。
「それ、おうちの人と食べるんですか?」
「クラスの友達なんかにもらったものはそうするけどね」
 一応、特別な好意の表れとして自分自身へ贈られたものなのだから、家族とはいえ他人に流すのは気が引ける、と彼女は言う。
 では本命の分は全部自分で食べる気なのか。大丈夫だろうか、色々と。
 百子は無意識のうちに唇を尖らせていた。
「でも、本命だとしても本気とは限りませんよ。日本人ってお祭り騒ぎ好きですし」
 あの子たちはただイベントごとに盛り上がって、手近なところにいた梢子へとりあえず本命という体裁で渡しただけで、そこまで律儀に受け取らなければならないほど真剣なものではないのでは。婉曲的に百子は梢子へ言った。
 だってあのはしゃぎぶり。第三者視点としては、どの角度から見てもただのミーハーだ。第一、本当にそういう気持ちなら、あんなふうにみんな揃ってせーので渡すはずがないではないか。
 あんなのと一緒にされては困る。
 大切な親友の、ひそやかで深く、真摯な想いを、ああいう手合いと同じものだと梢子に解釈されては堪ったものじゃないのだ。
「百子。そんなふうに言わないの。どんな気持ちかなんて、本人にしか判らないでしょう? たとえ本気じゃなくても私のために時間を割いてくれたんだから、それに応える義務があるわ」
 ほら、やっぱり梢子もその程度の受け止め方しかしていないではないか。
 義務だと、受け取るのは義務でしかないのだと、そう思っているんじゃないか。
 女の子からもらう本命チョコなんて所詮お遊びなのだと、思っているじゃないか。
 そうじゃないのに。そうじゃないケースが、少なくとも一つは確実にあるのに。
 百子は意図的に拗ねた表情を作った。
「はーい。すみませんでした、オサ先輩」
 彼女のバッグに入っている五つを奪って全部食ってやろうかと一瞬考えたが、ものすごく怒られそうなのでさすがに我慢した。
「あ、ちなみにあたしからオサ先輩へのチョコはありません」
「別に期待してないから」
 
 
 
 どうも保美は昨夜頑張りすぎてしまったらしく、百子が帰ってからもこんこんと眠り続けていた彼女が目を覚ましたのは日付が変わってからだった。
 これは大事を取って明日も寝かせておいた方がいいかもしれない。まだまだ本調子とは言えない様子を見ながら、百子は心中で思案する。
「ねえざわっちー、明日っていうか、もう今日か。とにかく十四日なんだけどね?」
「百ちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど」
「ん? なになに?」
 喉でも渇いたか、それとも空腹を覚えたのか。百子は保美へ顔を寄せると、「なんでも頼んでくれたまえ」ふざけた調子で真剣に言った。
 保美が仄笑いを浮かべる。「十四日になったから」横たわったまま口を開いて、
「冷蔵庫のチョコ、持ってきてくれるかな」
「いいけど、まさかざわっち、今からオサ先輩の家に押しかけようっていうんじゃ。
落ち着きなよ、夜中なんだからオサ先輩寝ちゃってるって。
ハッ、それとも枕元にこっそり置いておこう作戦? ざわっち、それはバレンタインじゃなくてクリスマスの習慣だからね?」
「……百ちゃんが落ち着いて」
 そこはかとなく疲れる保美だった。
 押しかけるのでも、クリスマスと混同しているのでもないらしい。では、朝一番に持っていけるように手元へ置いておきたいということだろうか。季節的には寒いが室内は空調で適温に調整されている。一晩では液状に溶けはしないだろうけれど、柔らかくはなるかもしれない。あ、もしかしてそういうチョコレートなんだろうか。渡すころ食べごろになるように、とか?
 ともかく、保美が持ってきてほしいと言うなら持ってこなければなるまい。
 百子は風のようにしかしこっそりと(消灯時間を過ぎているので)廊下を駆け抜け、キッチンへ忍び込むと一直線に冷蔵庫へ到達。手際よく目当ての物を探し当ててそれを小脇に抱え……ると溶けるかもしれないから両手で捧げ持ちながら部屋へ戻った。
「ただいま。持って来たよ」
「ありがと」
 待っている間に保美は上半身を起こしていた。壁にもたれかかるような姿勢で、百子からチョコレートの箱を受け取る。
 それから、そのまま両手を前に差し出した。
「はい百ちゃん。ハッピーバレンタイン」
「……ん?」
 小首を傾げる百子。微苦笑する保美。
「えーと、予行演習?」
「ううん。本番」
「え、だってざわっち、それ、オサ先輩に……。
あっ、もしかして渡すの諦めたとか? 駄目だよ、あんなに頑張って作ったのに」
 怖気づいてしまったのか? ああもう彼女の悪い癖だ。献身的で愛情深いくせに自分から動くとなると途端に足踏みしてしまうのだ。
 これは本当に、彼女を引っ張って今から梢子の自宅へ向かってしまおうか?
 百子が不穏当な手段を講じようとしているのを表情で察したか、保美が慌て気味に片手をひらめかせた。
「違うの、これは最初から百ちゃんにあげるために作ってたの」
「それじゃあ、オサ先輩の分は……?」
 問うと、彼女は仄かに、寂しく笑った。
「きっと梢子先輩、たくさんもらうだろうし。先輩のことだから、全部ひとりで食べようとするんじゃないかな」
 見事な慧眼だった。百子はまさにその通りのことを、梢子本人から聞かされているのだ。
「剣道部マネージャとしては、部員の健康を脅かすようなことはできません」
 胸を張って、けれどやはり寂しく、保美は言った。
 きっと違う。きっと彼女に渡さない理由はそういうことじゃない。
 これだけ梢子のことを判っている保美だから、きっと聞くまでもなく判っているのだ。
 渡したところで気持ちが伝わることはないと。
 そうなのだろう。
 あの律儀で義理堅く、まっすぐにしかものを考えない先輩は、保美の気持ちなどまったく汲み取ってくれないのだろう。
 口の中にビー玉が入っているような表情で黙り込む百子の手を取って、保美が箱を受け取らせる。
「昨日、ごめんね。ちゃんと食べてもらう前に味見されちゃうと、ちょっと困るから」
「ううん」
 自分の勘違いが恥ずかしい。
 反芻してみると、保美は一度たりとて、梢子に渡すとは言っていない。
 ただ百子がそう思い込んで、そして彼女の口からはっきり聞きたくなかっただけだ。
「百ちゃんにはあげたかったの。青城に入学してからずっと一緒にいてくれて、一番近くにいる人だから」
 だから気持ちが伝わるはずだと、彼女は思った。確信していた。
 それは、正解だ。
「……ざわっちぃ〜」
「え? ど、どうして泣きそうなの?」
「愛が痛くて……」
 いやもう本当に痛い。より正確に言うならイタい。
 己の身勝手すぎる愛情が、イタい。
 よしよしと保美が頭を撫でてくれる。「へへ」照れくさくて笑った。保美も笑っている。その笑みに寂しさはない。
「食べていい?」
「どうぞ」
 夜中にチョコレート。乙女としては問題な行動だが、少女としては問題のない行動だ。
 丁寧に包装をはがして蓋を開ける。きっちり整列したチョコレートが七個かける三列並んでいた。
 少々不思議な数だ。市販品の場合であれば収納の関係で三の倍数というのは珍しくないが、手作りの場合、往々にして馴染みの深い五の倍数になる。
 しかし百子は深く考えなかった。三の倍数だろうが五の倍数だろうが、二十個だろうが二十一個だろうが大した違いはない。二十一個の方が一つ分お得だと思うくらいだ。
 さっそく、ひょいと一つつまんで口に入れる。冷やされていたせいか少々固い。もごもご口の中で転がすとチョコレートはじんわり溶けて、濃密な甘味が舌を包んだ。
「うまー! 美味い、美味いよざわっち」
「ほんと? 良かった」
 ざわっちも食べなよ、と差し出してみるが、彼女は首を横に振って断った。
 調子が戻りきっていないから食欲がないのだろうかと思ったが、推測は直後の言葉で否定される。
「実はね、おまじないなの」
「おまじない?」
 「へへ」保美は先ほどの百子と同じように笑った。ずっと一緒にいると、そんな部分が似るのかもしれない。
「おまじないっていうか、願いごとかな」
「それなら直接言ってくれれば、どんなことでもじっちゃんの名にかけて叶えるってば」
 百子の祖父の名に懸けるだけのものがあるのかどうか保美は知らなかったが、なんにせよ、彼女は首を振る。
「恥ずかしいから」
「ええ? 言えないような願いごとなの? ざわっち、あたしに何をさせようってのさ」
「そ、そういう意味じゃないよ」
「んー? そういう意味ってどういう意味かなー?」
 少々下品に笑いながら迫ると、「もうっ」なぜか顔を赤くした保美に押しのけられた。
 正直なところ、百子としてはどんな意味でも構わない。
 彼女の願いを叶えないなんてことはありえないのだ。それがどんな願いであれ。告白したいから付き添ってくれと言われたって、百子は承諾するだろう。
「いいからっ、百ちゃんは黙って食べて」
「もー、ざわっちは照れ屋さんだなぁ」
 気弱なくせに意固地なので、問い詰めたところで彼女は教えてくれない。
 仕方なく百子はチョコレートをもごもご食べた。
 
 保美が内緒にした願いは、なんら特別なものではなく、他の誰かならとても簡単に、なんのためらいもなく口にできる想いだった。
 他でもない相沢保美で秋田百子だからこその、二十一個のチョコレートで包んだひそやかな願いだった。
 喪失の恐ろしさを知っている相沢保美が、今までそばにいてくれた、今もそばにいてくれる秋田百子にこそ願う二十一音の言葉。
 それは文字通り、甘い願い言であるのかもしれない。
 
「ごちそーさまーっ。いやー、ほんとおいしかったよ」
 無事にチョコレートを食べ終えた百子が勢い良く両手を叩き合わせる。
「ざわっち、来年もよろしくっ」
「気が早いなぁ」
 そう答える保美は嬉しそうで、百子はその表情に喜びを覚える。
「来年も再来年も、それからずっと楽しみにしてますとも。なにせざわっちがあたしだけに作ってくれるチョコなんだからね」
 百子にとっては当たり前すぎるほど当たり前に広げられる未来予想図だった。いつか彼女の隣に誰かが立つ日が来ようとも、逆隣には己がいるのだと信じて疑っていなかった。
 だから、保美が小さく目を瞠る意味が判らなかった。
「ん? どしたのざわっち。あ、もしかしてこれって今年だけ? 来年から無しですかー!?」
「ち、違うのっ」
「じゃあなにさ?」
「あの……再来年は、卒業だよね」
「そうだけど?」
「そしたら、わたしも百ちゃんも、寮、出るよね?」
 まあ、留年しない限りそういうことになる。うん、と頷いたら、保美は少しだけ身体を縮こまらせた。
「そうなったら、どうやってチョコ渡せばいいかな……」
「なに言ってんのさ。普通に会ってくれたらいいよ。あ、なんなら卒業してからもルームシェアしよっか。ざわっち一人暮らしだと具合悪いときとか大変だもん。あたしはもう、ざわっちフォローのエキスパートだから安心ですよ」
 きゃるきゃるとはしゃいだ声で、目に見えない予想図を描く。
 君と離れたくない。
 そんな本音は、さすがに恥ずかしくて言えないけれど。
 保美はどこか茫洋とした眼でいる。茫然自失とまではいかないが、どこかが停止していた。
 出会った頃の忘我とは違っていたので、百子はそれほど心配しない。その程度にはエキスパートとなっている百子だった。
「おーい、ざわっちー?」
 目の前で手をひらひらさせると、それを契機として保美が戻ってきてくれた。
「あ……、うん、そっか……」
 呟きは同意でも追従でもなく、納得だった。何に納得したのか、百子には判らない。
「ありがとう、百ちゃん」
「いえいえ礼には及びませんよ。よく判んないけど」
「うん、でもありがとう」
 よく判らないけれど、保美が本当に嬉しそうだったから、それで良かった。
 手を取られる。柔らかくて温かな感触。包み込まれた手はごく自然に彼女を受け入れた。
「百ちゃんといるとあったかくなるよ。百ちゃんがいてくれるから、寂しくないし辛くても頑張れるの」
 真正面から感謝されて少し照れる。そんな大したことをしているつもりは百子にはない。ただ彼女のそばにいたいだけだ。
「だから、百ちゃんも寂しい時はわたしを呼んでね。百ちゃんはいつも元気だけど、辛い時とか、誰かにいてほしい時とかあると思うから。そういう時は、呼んでくれたら、ちゃんと行くから」
「ざわっち……」
 どこかにある脆弱な部分をじかに触られて、百子は小さく声を詰めた。
 クジラについた五センチの傷は不具合を与えないかもしれない。
 けれど、やはり傷は傷だ。
 痛みがないわけではない。
 辛い時とか寂しい時とかには自分を呼べと彼女は言った。
 それは傷を生む。
「断る」
「え?」
 予想していなかったのか、しゃっくりのような裏返り気味の声が保美の口から転がり出た。
 「なに言ってんのさ」ぷんと頬を膨らませて唇を尖らせた百子が、彼女の額へこつりと拳をあてる。
「こういう時、じゃなくて。あたしはいつでもざわっちといたいんですけど?」
「あ……」
「ざわっちと一緒だと楽しいからねー。ま、オサ先輩がいる時は、たまーに仲間はずれっぽい気がしなくもないんだけど」
「それはっ……その、違うよぉ」
 百子はくしゃりとした笑みで軽く頷いた。それはまあ、仕方あるまい。百子が保美を最優先するのと同じ理由で、保美は梢子に惹き寄せられてしまうだけだ。
 手を重ね合わせたまま、上体を倒してベッドへ首をもたせかける。上目遣いに見上げる先の彼女はほのかに笑っている。
 脆弱などこかについた傷はきっと癒えない。
「どんな時でも、二人一緒にいられたらいいね」
 傷は癒えないし、想いも言えないけれど、願いなら、言える。
 それは非常に少女的な願い言だった。だから必然であったのだと断言できる。
 少女である百子が願ったそれは、同じように少女である保美が二十一個に込めた願いと同じものだった。
 どんな時でも、いつでも。
「……うん」
「あたしはざわっちに会えて良かったって思ってる」
「うん。わたしも百ちゃんに会えて良かった」
 だから、これからも、いつまでも。
 二人とも、未来が必ず自分の思い通りに行くとは限らないと知っている。
 けれど二人とも、絶対的に少女だったので『おまじない』を根源的に信じていた。
 願いをかければ叶うのがおまじないだ。説得力などは必要ない。歴史も理屈も資格も何も要することはなく、ただ願い、手順を踏むだけでおまじないは完成する。
 だからその願いも叶うのだろう。少なくとも、二人はそう根源的に信じた。
 少女たちのそんな信仰は大人にしてみれば鼻で笑ってしまうものかもしれない。甘ったれているだけだと諌めるかもしれない。
 けれど……ああ、けれど。
 歴史も理屈も資格もない少女たちには、しかし確かに真実が存在していたのだ。
 
 保美は二十一音の甘ったれたおまじないをした。
 二十一はタロットにおいて『世界』の番号である。
 カードが暗示するものは。
 『成就』。




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